藍の帳にとける 2 | ナノ



 グラスに半分ほど残された液体は、深みのある黄金色を湛えながらゆらゆらと揺れている。

「あーメル君気をつけて、ほらこぼれちゃう」

 慌ててメルヒェンの手からグラスを取り上げたイヴェールは、向かいにあるテーブルにそれを避難させた。
 しかし当のメルヒェンの反応は鈍く、僅かに声を上げた後はくったりとソファにもたれ掛かるばかりだった。

(まいったなあ……)

 隣ですっかり酩酊しているメルヒェンを一瞥したイヴェールはくしゃりと髪を掻き混ぜた。
――まさかここまで弱かったとは。

 ふう、と息をついたイヴェールは先ほど遠ざけたメルヒェンのグラスを手に取った。
 ゆるりと傾けて幾らか中身を含むと、口の中に仄かなバニラの香りが広がる。
 蜜のようになめらかな甘味は所謂デザートワインと言われる物のそれで、アルコール度数もさほど高くはない。


 メルヒェンがイヴェールの見繕ったものを予想以上に気に入ったのは確かだった。
 最初こそ渋々といった様子で口を付けたものの、その表情が驚きと共に緩むのにそう時間は掛からなかったからだ。
 難色を示していたのが嘘のように杯を重ねる姿を見ていると、イヴェールも自然と笑みが零れた。

 もちろん、飲酒の経験などほぼ皆無と言っても過言ではない相手に酌をすることに不安がない訳ではなかった。
 だが自分がついていればそう大事に至ることはないだろうと思っていたし、何よりメルヒェンの喜ぶ姿を見るのが嬉しくてたまらなかったのだ。

 実際、イヴェールはペースには出来る限り気を配っていた。
 メルヒェンが口にしたのも、量にしてみればせいぜいボトルの四分の一ほどだ。
 ただひとつ、メルヒェンが思った以上に酒に弱かったことだけが誤算だった。

「メル君、大丈夫?」

 ぼうっとするメルヒェンに遠慮がちに声を掛けるも、とろんとした眼は依然としてイヴェールに向けられることなくどこか一点を見つめている。

「……あつい」
「え?」

 水でも持って来ようか、と立ち上がりかけた矢先だった。
 メルヒェンが何か言ったのはかろうじて分かったが、ぽそりと呟かれたそれは掠れていて上手く聞き取ることができなかった。

「メル君どうしたの……って、えっ」

 もぞもぞと動き出したメルヒェンを怪訝に思ったイヴェールは気遣うように声を掛ける。
 しかしメルヒェンはイヴェールのことなどお構いなしに、ばさりとジャケットを脱ぎ捨てた。
 それだけに留まらず、メルヒェンの指は彼の着ているシャツの釦にまで伸ばされている。

「わあ! ちょ、ちょっと何してるのメル君……!」

 ぷち、ぷちん、と拙い指運びで一つずつ釦を外していくメルヒェンを見てようやく我に返ったイヴェールは、慌ててメルヒェンを止めた。

「ん……だってあつい、から」

 何をそんなに焦っているんだ、と言わんばかりにきょとんした表情を浮かべたメルヒェンはじっとイヴェールの顔を覗き込む。
 相変わらずの潤んだ眼差しで見つめられてどくりと心臓が脈打つのを感じた。
 耐え切れず咄嗟に目を逸らしたは良いが、はだけたシャツの隙間から覗く仄白い首筋にうっかり目を奪われてしまい余計に鼓動が高鳴る。
 生気を失った白磁の肌の上で存在を主張する鎖が妙に生々しい。

「イヴェー、ル」

 目のやり場に困って思わず後ずさりするとたどたどしく名を呼ばれた。
 その声音は普段のメルヒェンからは想像もできないほどふわふわとした甘やかなもので、むず痒い気持ちでいっぱいになる。

「な、何……ひゃあ!」

 恐る恐る目線を上げると、すぐ近くにメルヒェンの顔があった。
 する、とメルヒェンの腕が絡みついてくる。
 次の瞬間には、イヴェールはソファに身を沈ませていた。

「めっ……メル君……!?」

 何が起きたのか、すぐには判断が付かなかった。
 ええと、ここはソファの上で、僕はそこに仰向けに倒れてて、上にはメル君が乗ってて――。

 ぱちぱちと幾度か目を瞬かせて、イヴェールはようやく自身の置かれた状況を理解した。
 しかし起き上がろうにも、しっかりと抱きしめられているこの状況では身動きすら儘ならなかった。
 ぴったりとくっついたメルヒェンの重みで少々息が苦しい。

「お、起きてよメル君! メル君ったら!」
「んん……」

 むせ返るようなバニラの香りがイヴェールの鼻腔を掠める。
 いくら抗議してみても、回された腕が緩む様子はない。
 それどころか今まで以上にぎゅう、と力が込められる結果となりイヴェールは困り果ててしまった。

「イヴェール、いい匂いがする……」

 イヴェールの胸に顔を埋めたメルヒェンは恍惚とした面持ちで囁いた。
 イヴェールに言わせればメルヒェンの方がよほど甘ったるい香りを漂わせているのだが、そんな反論を返す余裕もなかった。
 すんすんとメルヒェンが鼻を鳴らす度に揺れる黒髪が擽ったくて仕方がない。

「もっ、メル君酔いすぎだって……! ッあ、や、」

 鎖骨の辺りに熱を帯びた吐息が掛かる度、背筋をぞわぞわとした何かが駆ける。
 こそばゆいだけだった仕草が段々と別の感覚を芽生えさせていくのをひしと感じた。
 しかし好き勝手に飛び出る声を抑えたくても、口を覆うことすらできない。

「いい加減にっしないと、ひぁ、ぼ、僕だって怒――」

 怒るんだからね!と宣言するつもりだったのだ。
 ところどころひっくり返った情けない叫びに効果があるかはさておき。
 なので、最後まで言い終わらないうちにメルヒェンがその身を起こしたのは意外と言えば意外だった。
 存外あっさりとした幕引きに拍子抜けしつつもほっとする。

――やっぱりメル君は良い子だよね、うん。ちゃんと僕のお願いは聞いてくれるもの。

 イヴェールが安堵の溜め息を漏らしたのと再び圧迫感を覚えたのは同時だった。

「え、と……メル君?」

 ぎし、とソファが軋む。眼前には微かに紅潮したメルヒェンの顔。
 色素の抜けた淡い瞳が静かにイヴェールを映している。
 沈黙の流れる中、起き上がる暇もなく組み敷かれてしまったイヴェールは戸惑うばかりだった。

「どっどうしたの、ちょっとふらついちゃったのかな? なーんて……」

 ごまかすような乾いた笑いがひとりでに漏れた。
 鼻先が触れ合うほどの距離でなんて間抜けな会話をしているんだろう、とイヴェール自身思う。
 だが茶化しでもしなければ心臓が持ちそうになかった。
 メルヒェンの意図が読めない。自分が読みたくないだけなのかもしれないけれど。

 元来変化に乏しいメルヒェンの表情と相まって、イヴェールの抱える焦燥は膨らむ一方だった。

「……を」
「え?」
「礼を言うのを、忘れていた……から」

 じっとイヴェールを見据えていたメルヒェンがおもむろに口を開く。

――お礼?
 呆気に取られつつ聞き返すと、メルヒェンはこくりと頷いた。
 その顔つきは至って真剣で、何をされるのかと戦々恐々としていた自分が馬鹿らしくなってしまった。

 それにしても、お礼とは何に対してだろう。
 少々気持ちに余裕ができたイヴェールは考えを巡らせてみる。
 答えとおぼしきものはすぐに見当がついた。

「もしかしてワインのこと?」

 慣れないアルコールに陶然としながらもなお律儀なメルヒェンに苦笑する。
 そんなの気にしなくていいのに、僕が勝手に持ってきたんだから。それにお礼なら陛下に――久しぶりに垣間見えたメルヒェンらしい言動に胸を撫で下ろしたイヴェールは、自然と饒舌になる。
 しかし、すらすらと紡がれるイヴェールの言葉は中途半端なところで途切れてしまった。
 というのも、聞いているのかいないのか、緩やかに瞬きを繰り返していたメルヒェンがこれ以上ないほどに顔を近づけてきたからで。

(な、何!?)

 咄嗟の出来事にイヴェールはぎゅっと目をつむる。
 碌な反応もできないまま身体を固くしていると、額の辺りに絹糸のような黒髪が流れ落ちた。次いで頬に柔らかな感触。

「ありがとうイヴェール、……嬉しかった」

 君の国の言葉では何と言うのかな。めるしー、だったかい?――ふにゃりと顔を綻ばせたメルヒェンは照れくさそうにそう付け加えた。

「メル君、いま……きっ、キス、」

 未だに感覚の残る頬を押さえる。もう何が何だか分からない。
 多少アルコールが入るだけでこうも変わるものだろうか。
 イヴェール自身がするならともかく、あの受身なメルヒェンが自分からこういった行為を仕掛けてくるなんて信じられなかった。

(でも……)

――こんなに素直なメル君の笑顔が見られるなら、たまには悪くない、かな。

 ものすごく恥ずかしいけどね、と胸中で呟く。
 予想外の状況に跳ねる心臓は当分鎮まってくれそうにない。
 柳眉を下げたイヴェールは、頬の火照りを隠すように俯きながら微かに笑んだ。



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11.04.12 


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