おやすみエリーゼ、良い夢を。 そう囁いたメルヒェンは、トランクの中で寝息を立てるエリーゼの頭を撫でた。 一定のリズムで繰り返される微かな呼吸音に自然と表情がゆるむ。 今日は森の中をたくさん散策したから疲れたのかもしれないな、とメルヒェンは思った。 月光に照らされる彼女の顔はとても美しくて、今すぐに蓋を閉めてしまうのは何だか勿体ない気がする。 出来ることならば、もうしばらく眺めていたい。 メルヒェンは心持ち息を潜める。 全ての生物が死に絶えてしまったかのように静謐な空間において、紛い物の生命を持った自分たちだけが息衝いているというのは妙な感覚だった。 しかし、昏い井戸の底でひっそりと彼女を愛でるという行為に言いようもなく心が満たされるのもまた事実だ。 メルヒェンが滑らかな白磁の肌や愛らしい桜色の唇に目を奪われていると、ふいに背後から視線を感じた。 「……また貴方か」 エリーゼの眠りを妨げぬ様、そろりと立ち上がる。 振り返ると、予想していたのと寸分違わぬ顔が勝気な笑みを浮かべていた。 「やあメルヒェン、Guten Abend.相変わらず顔色が悪いな」 「屍人なのだから当たり前だろう。……今日は何の用だい、イド」 メルヒェンは眉間に皺を寄せてイドルフリートを一瞥した。 用事がないのならさっさと帰れ、と言外に告げているのがありありと読み取れる。 そのあからさまに歓迎されていないといった様子に、イドルフリートは肩を竦めた。 「おやおや、ずいぶんな態度だね。そんな低能な子に育てた覚えはないよ」 「僕が貴方の世話になったとでも?」 胸に手を当ててしばし考え直したらどうだ、とメルヒェンは毒を吐いた。 気まぐれに訪ねてきては「茶のひとつも出さないのかね」だの、出したら出したで「酒はないのか」だの。 世話を焼かされることこそあれ、イドルフリートに何かをしてもらった記憶など皆無だった。 暇を持て余しているらしいイドルフリートは、何かとメルヒェンを構いにやってくる。 今のようにあまり嬉しくないタイミングで現れることもしばしばで、メルヒェンとしては手を焼いている存在だった。 居留守でも使えれば楽なのだが、なにしろ彼は文字通り神出鬼没なのでそうもいかない。 メルヒェンは未だシニカルな表情を崩さない眼前の男を軽く睨む。 すると何を思ったのか、イドルフリートはこちらにするりと身を寄せてきた。 「まあそう怒るな。君は私に似て美しいのだから笑顔でい給えよ」 イドルフリートの細い指がメルヒェンの輪郭をなぞる。 さらりと吐かれた薄ら寒い台詞にメルヒェンは怖気立ったが、反応を返す暇もなかった。 軽く肩を掴まれたかと思うと、くるっと視界が反転する。 背にしていたはずのエリーゼの姿が再び視界に入るとともに、すっぽりと抱きとめられる感覚があった。 「――?」 メルヒェンの痩躯はイドルフリートに捕らえられていた。 背中からじわりと伝わるイドルフリートの体温にメルヒェンは困惑の色を浮かべる。 イドルフリートの行動が読めないのはいつものことだが、この場合どう対処するのが適切なのだろうか。 彼の真意を測りかねたメルヒェンは首を傾げた。 何にせよこの体勢に甘んじているのは本意ではないので、まずはイドルフリートを引き剥がすべくもがいてみる。 このままじっとしていたら何をされるか分かったものではない。 だがイドルフリートの拘束は想像以上に力強く、思うように身動きが取れなかった。 「っ、イド……?」 両脇の間から伸ばされたイドルフリートの手は何やら鳩尾の辺りをごそごそと蠢いており、少々くすぐったい。 自由な両手でそれらを払い退けようと試みるものの、すぐに躱されてしまいなかなか上手くいかなかった。 どういうつもりなのか問い詰めようとして首を捻ってみると、がっかりしたイドルフリートの顔が僅かに見えた。 「メルヒェン、君の薄っぺらい胸板を撫でていると私はいっそ無力感に苛まれてくるよ……もう少し巨乳になったらどうだね?」 「ひゃ……っ!? や、やめ……ぁう! ふ、ぁ、ふざける、な……っ!」 ぞわ、と皮膚が粟立つ感覚。 ほとんど反射的に悪寒の元を辿ると、露わになった胸元を這い回る手が目に付いた。 (どうりでさっきから妙にスースーすると思ったんだ……!) 自身の惨状を目の当たりにしてようやく納得がいく。 軽く留めていただけのジャケットの釦は言わずもがな、襟元まできっちりと留めていたはずのシャツの釦もいつの間にか全て外されていたのだから違和感を覚えて当たり前というものだ。 ――嗚呼、わざわざ姿を見せたかと思えば何を言い出すんだこの男は。だいたい僕は男なんだから女性のように胸なんかあるはずないし大きくなる訳もないだろう気持ちの悪い。無力感? 知ったことか! 理不尽としか言いようのないイドルフリートの嘆きに苛ついたメルヒェンは思いつく限りの文句を並べ立てる。 しかし流れるような罵倒の代わりに実際に唇からこぼれたのは、切れ切れになった拒絶の言葉と喘ぎ声だけだった。 うっかり声を上げてしまってからエリーゼの存在を思い出し、咄嗟に口を塞ぐ。 背後でくすくすと笑うイドルフリートに腹が立って仕方がない。 「おい、っ……どういう、つもりだ……!」 怒りを込めつつも小声で囁いたメルヒェンは手の主を思い切り睨みつける。 だが、そんなささやかな、しかしメルヒェンにしてみれば精一杯の反抗を一笑に付したイドルフリートは気だるげに何か呟くばかりで、メルヒェンの話などてんで聞く様子もない。 「さすがの私も性別までは……ふむ、どうしたものか……」 「イドっ、聞いて……い、あぁ、や、つめた、」 さわさわと止むことなく与えられる刺激に自然と肩が跳ねる。 さらに己の身体に絡みつく鈍色の鎖がメルヒェンをいっそう追い詰めた。 イドルフリートの腕の動きによって、時折身体に押し付けられるそれらが鎖骨や腹腔、脇腹の辺りにもたらすひやりとした感触がメルヒェンを蝕む。 堪えきれずに身を捩って逃れようとしても事態は悪化するばかりだった。 「メルヒェン、そんなに大きな声を出してはエリーゼ嬢が目を覚ましてしまうよ。それともそういったシチュエーションがお好みなのかな?」 「誰が、ぁ、そんな……ふぅ、う――っ……」 愉しそうに目を細めるイドルフリートの表情は、まさしく悪戯をして喜ぶ子供のものだった――子供の悪戯と呼ぶには少々たちが悪いが。 メルヒェンは己の指を噛み締めて必死に声を抑える。何としてもエリーゼを起こすわけにはいかない。 しかしイドルフリートの方が何枚も上手で、口に当てていたはずの手はいつの間にか彼の口元へと寄せられていた。 歯形の幾重にも付いた青白い指をぺろりと舐め上げられてまたおかしな声が出てしまう。 こんな姿を彼女に見られたら、と想像するだけで泣きたくなるほどの自己嫌悪が襲ってくるのだが、ぐちゃぐちゃに掻き乱されたいまのメルヒェンの思考回路ではこれといった打開策を見出すことはできなかった。 メルヒェンを翻弄する指先にどうしようもなく反応してしまうたび、まるで身体が自分のものでないような感覚に陥っていく。 べたべた触るな。気持ち悪い。頭の中で何回もそう繰り返しているのに、どういうわけか次第に力が入らなくなっていくのが悔しくてたまらなかった。 ――次に此処を訪れようものならこんな男全力で追い返してやる、二度と相手などしてやるものか! がくがくと震え、よろめく膝を叱咤しながらメルヒェンは固く誓った。 11.03.21 [ back ] |