……へ至る(イド+メルツ) | ナノ



 円く切り取られた夜空の中、広がる波紋に合わせて痩せた月が揺れている。
 青白いそれに手を伸ばしたところで届くはずもなく、ごぽりと吐き出された気泡が指の真横をすり抜けていった。

 憎い。憎い。憎い。自分を騙した男たちが。ひとを信じて疑わなかった、愚かな自分自身が。
 憎い、そしてそれ以上に悔しい。もう彼女に逢えないことが。
 必ず迎えにいくと、約束したのに。

――嫌、嫌だ、死にたくない!

 今までにないほど強い感情が心を支配する。
 しかしふつふつと湧き上がる憤りに反比例するかのように、身体は鉛の如く重くなっていく。
 もう指先ひとつ満足に動かすこともできなかった。

 忍び寄る死の気配に身震いする。目の奥が熱い。
 僕いま泣いているのかな、とどこか他人事のように考えたが、澱んだ水の中ではそれを判別する術はなかった。

 仮に涙を流しているとして、それはなぜか。
 悔しいから?それとも死ぬのが怖いから?
 あるいは両方かもしれない。あまりにも突然のできごとに、感情の整理が追いつかなかった。

 彼女――エリーザベトのことが思い浮かぶ。
 別れを告げたときの、泣きそうな顔。もう二度と彼女にあんな顔をさせたくないのに。彼女には笑っていてほしいのに。
 己の非力さが恨めしかった。このまま此処で朽ちていくなんて耐えられなかった。
 誰か。誰か。誰でもいい。力を貸してほしい。

 メルツは薄れてゆく意識の端で、地の底から響くような声を聞いた気がした。







 どれくらいの間そうしていたのかは分からない。
 右も左も、上も下も分からない深い闇の中を、メルツはふわふわと漂っていた。
 もう苦しくはないが、依然として身体の自由は帰ってこない。

 まるでぬるま湯に浸かり揺蕩っているようだった。
 自我が霧散し、自分のからだの境界が曖昧になっていく錯覚すら抱く。
 此処から抜け出せなくとも良いと思うほどの心地よさなど微塵も感じられないはずなのに、心のどこかではこの環境に依存していた。

 どろどろとした何かが絡みつき、そのままひとつに融けていくような感覚。
 生きているのか死んでいるのかも分からない。
 ただ心の中に燻る衝動だけが、己を形づくる意識を繋ぎ止めている。
 そんな折、何処からともなく自身を呼ぶ声が聞こえてきたものだからメルツは耳を疑った。
 なにしろこの場所に来てからというもの、人の声などついぞ聞いたことがなかったのだ。

 今なおこだまする不思議な声に必死で耳を傾ける。
 メルツ・フォン・ルードヴィング。色褪せ、自分自身すでに忘れかけていたその名に引寄せられるかのように、メルツの意識は急速に浮上していった。



 目を開くとどこまでも真っ白な空間が広がっていた。
 先刻までは無かった地面の存在を背中で感じ取る。どうやら仰向けに寝かされているらしい。
 温かくも冷たくもない妙な感触だったが、塗りつぶされたような漆黒の中で彷徨っているよりはずっと良い、そう思った。
 闇に目が慣れてしまっていたため、これまでとは正反対のまばゆい光景にくらくらする。
 ぱちぱちと目を瞬かせてみても依然として変化はない。

 幾度かまばたきをして初めて、メルツは元通り自分の身体が動くことに気づいた。
 そういえば、ずっともやが掛かっていたような思考も今ではすっかり晴れている。
 メルツは喜びを噛みしめたものの、あまりに何もない、ただただ白に染まる風景に、また自分の眼に何か異変が起きたのではないかと不安になった。

「――ようやくお目覚めかね、少年」

 そうだ、自分の身体を見てみればいいんじゃないか、と至極単純な答えにたどり着いて身を起こそうとしたメルツは、突然降ってきた声に心底喫驚した。
 がばりと起き上がると、目の前に男がひとり立っている。距離にしてみれば1mもないだろうか。
 これほど近くにいたというのに、全く気配に気づかなかった。

 腕を組んで佇む男は、袖や裾が金の十字で縁取られた黒のコートに身を包んでいる。
 男が身じろぐと、胸元の十字架がちゃらりと音を立てて揺れた。
 真紅のリボンで束ねられた鮮やかな金髪が印象的だ。

 彼を視認したことで、少なくとも視力は正常なままなのだと分かり安心する。しかし、逆に言えばそれ以外は不可解なことばかりだった。
 ここはどこなのか。なぜ自分は呼ばれたのか。
 聞きたいことは数え切れないほどあった。

「ええと……貴方は?」
「私の名はイドルフリート・エーレンベルク。イド、と呼んでくれ給え」

 まずは男の名を尋ねる。
 イドと名乗ったその男は、かつ、と踵を鳴らして一歩こちらに近づいた。
 まるで値踏みでもするようにすう、と細められた目になんとなく居心地が悪くなる。
 気まずい空気を払拭するため、メルツは気を取り直して再び彼に問うた。

「僕の名前を呼んだのは貴方ですか?」
「嗚呼そうだとも、メルツ・フォン・ルードヴィング。私が君を《衝動》の中から掬い出してやったんだ、感謝してもらいたいな」

――いど? 井戸のことだろうか?
 メルツは首をひねりしばし考えてみたが、イドルフリートが何を言っているのか理解できなかった。
 しかし彼の声に救われたのは事実なので、とりあえず感謝の気持ちを込めて礼を述べておく。
 そんなメルツを見て半ば呆れたような顔をしたイドルフリートは、皮肉めいた口調で吐き捨てた。

「君は馬鹿がつくほど素直だな、ほとんど愚直と言ってもいい。そんなていだからあのような低能たちに騙されてしまうんだよ」
「……!」

 イドルフリートは何やら好き勝手に喋り続けているが、メルツの耳には何一つとして入ってこなかった。
 希薄になっていた記憶がはっきりと蘇る。
 下卑た笑い声、波立つ水面、揺らめく月夜。
 死の間際の情景。

――ああ、やはり自分は死んだのだ。
 うすうす分かっていたこととはいえ、現実を突きつけられるのはつらかった。

 だが、沈む気持ちとは裏腹にあまり実感は湧かなかった。
 ここがいわゆる死後の世界、というものなのだろうか。
 メルツはきょろきょろと辺りを見回してみたが、相も変わらず白い地平線が続いているだけだ。
 本で読んだどの描写にも当てはまらない奇妙な空間は、未だ明かされないイドルフリートの思惑と相まってメルツの不安を掻き立てた。

「……なぜ僕を此処へ導いたんですか?」

 恐る恐る疑問を口にすると、喋るのを止めたイドルフリートはつまらなそうにこちらへ意識を向けた。

「君は質問が多いな、少しは自分で考え給えよ。……まあいい、ほら」

 これを覚えているかい、と差し出された手の先には1体の人形。
 忘れもしない。あの日――エリーザベトの元へ別れの挨拶をしに行った日、彼女から受け取ったものだ。
 しかし愛らしいはずの人形の姿は、自分の記憶とはずいぶんと食い違っていた。
 彼女とお揃いだった純白のドレスは煤けて、無残に焼け焦げている。毛糸でできた髪の毛も薄汚れてあちこちほつれていた。

「ひどい……どうしてこんなことに」

 すっかりくたびれてぼろぼろになった人形を抱きしめる。
 よく森に連れて行ったお人形。彼女の名前をもじってエリーゼと名づけられたそれを、エリーザベトはいつだって大事そうに抱いていた。
 彼女と過ごした日々が思い出されて、きゅう、と胸が痛む。

「そう嘆くようなことでもないと思うがね。大事なのは中身だ、そうは思わないかい? 少年」
「……どういう、意味ですか」

 今度こそ回答はなかった。
 意味ありげな言葉にメルツは自然と身体を固くする。
 薄らと笑んだイドルフリートは、愉しそうにこちらを見つめたまま微動だにしない。
 射抜くような浅葱色の瞳が恐ろしくなって思わず目をそらすと、くつくつと喉を鳴らした彼はひっそりと囁いた。

「君の想い人にもう一度逢えると言ったら、どうする?」

 とっさに声が出なかった。
 頭を思い切り殴られたのにも等しい衝撃が全身を駆け抜けていった。

――もう一度、逢える? エリーザベトに?

 イドルフリートの言ったことばが何度も何度も頭の中で反響する。
 そんなの、逢いたいか逢いたくないかと聞かれれば答えは決まっていた。
 しかし――

「僕はもう、死んでいるんですよ。そんなことできるわけが」
「いいから質問に答え給え。どちらなのだ、メルツ・フォン・ルードヴィング」

 有無を言わせぬ口調に思わず押し黙る。
 僕の質問には答えてくれないのに、と抗議できる雰囲気ではなかった。
 何より、いま現在の彼の問いと、人形――エリーゼにどのような繋がりがあるのかさっぱり分からない。

 考え込むように口を閉ざしてしまったメルツを見かねたのか、眉根を寄せたイドルフリートはやれやれといった様子で息を吐いた。

「では質問を変えよう。……君は地上で何か遣り残したことがあるのではないかな?」

 既に確信しているかのような口ぶりだった。
 メルツは彼の発言を受けて思索する。
 最初に浮かんだのは、エリーザベトとの約束。次に浮かんだのは――。

「…………復、讐」

 生前の自分ならば思いつきもしなかったであろう概念。
 口に出してしまったが最後、身を焦がすように燻っていた炎が胸中で燃え上がるのを感じた。

「決まりだな」

 にい、と口角を上げたイドルフリートは、ゆったりとした動作でメルツの額に手をかざした。


「機は既に熟した――さあ、思う存分願いを果たしてくるといい」

 唄うように告げたイドルフリートは、そちらの“お嬢さん”もじきに目を覚ますはずだ、と付け加える。
 いま自分の身に何が起きているのか。メルツの幾度目かの問いがイドルフリートに届くことはなかった。
 声を出そうとしても、喉も舌も凍りついたように動かない。いつの間にか身体は石の如く硬直していた。
 久しく味わっていなかった息苦しさが思考を侵食していく。

「『汝が魔力は再び結び合わせる、時流が強く切り離したものを』、か……因果なものだ」

 嘲るように漏らされたその言葉はしかし、どこか甘やかな響きを持っていた。
 メルツは腕の中で眠る人形を無意識のうちにひしと掻き抱く。

 白み、ぼやける視界のなか、メルツが最後に覗き見たイドルフリートの顔には深い笑みが湛えられていた。





‐‐‐‐‐‐‐

ものすごい捏造かつよく分からない話ですみません
イドイドとMarchen聴き倒してたらふと思いついた解釈の一部でした
前後の話もぼんやり考えてるので、そのうち書きたいなあと思ってます

11.03.12 

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