足早に廃教会へと戻る王子は、珍しく苛立ちを露わにしていた。 (まったく、なんてことだ!) まさか不審者の正体が自分の従者たちだったとは。 どうやら執務を放り出してきたのが原因らしい。 彼らは、自分のことを連れ戻すべく後をつけた末にこの森にたどり着いたということだった。 従者たちは道中かなり迷ったとぼやいていたが、ぼやきたいのはこちらの方だ。 そんなに迷ったのならいっそ迷子のままでいればよかったのに、と舌打ちをする。 (今度からはもう少し考えなくてはいけないな……) おおかた森に入ってすぐのところに留めていた馬を見咎められたのだろう。油断していた。 此処を訪ねるときはいつも回り道や入り組んだ道を通っており、そういった類の者たちは充分に警戒しているつもりだったのだが、迂闊だった。 王子は今日に限って追跡者を完全に撒けていなかった不運を嘆いた。 帰ってからの対応を想像しただけでうんざりした気分になる。 この森にはたまたま寄っただけで特に目立った用はなかったんだ、と言ったところで信じてもらえる気がしなかった。 疑いを晴らすためにはしばらくメルヒェンに逢わない方が得策かもしれない、と思ったりもしたが、対策を練るのは後回しにする。いまそのことを考えても気が滅入るだけだ。 とにかく、一刻も早くメルヒェンの元に行きたかった。 何とか従者たちを城に帰すことには成功したものの、彼らもなかなかに食い下がったためかなりの時間が経ってしまっていたのだ。 ――こんなことになるなら、メルヒェンの目隠しや拘束を解いてきてあげればよかった。 今さらそう思ったところでどうしようもないのは分かっていたが、王子は自分の軽率な行動を悔いた。 (メルヒェン、怒ってるだろうなあ) うろたえる君があんまり可愛かったからつい出来心で、なんて言ったらもっと怒られるに違いない。 何と言ってご機嫌を取ろうか、頭を悩ませながら教会の扉に手を掛けた。錆び付いた鉄扉は耳障りな音を響かせながら王子を迎え入れる。 がらんとした内部は、最初に訪れたときと変わらずひっそりとしており物音ひとつしなかった。 (おかしいな……) 出て行ったときのメルヒェンの狼狽ぶりから推測するに、扉の開く音が耳に届けば何かしら声を上げそうなものなのに。 もしかしたら、待ちくたびれて眠っているのかもしれない。 さすがにそれはないかと思ったが、メルヒェンの寝顔が見られる可能性を自ら捨てることもないだろう、と思い直した王子はわざわざ足音を忍ばせてメルヒェンの待つ告解室へ近づいた。 控え目に扉を開ける。細い光が差し込む先、小部屋の隅に膝を抱えてうずくまっているメルヒェンの姿が見えた。 しかし、顔を膝にうずめているため表情までは読み取れない。 そこまで観察してやっと、王子はメルヒェンの肩が小刻みに震えていることに気づいた。 「メル?」 何やら様子がおかしい。 そっと名を呼んでみると、メルヒェンはばっと顔を上げた。 「……おう、じ……?」 辺りをきょろきょろと見回したメルヒェンは今にも消え入りそうなか細い声でぽつりと呟く。 すん、と鼻を鳴らす彼の頬には、涙の跡が幾筋もついていて。 ああ、自分は取り返しのつかないことをしてしまったのだ、と直感するとともに、先ほどとは比べ物にならないほどの後悔が胸を襲った。 「メルヒェン、ごめん、こんなに長いこと放っておくつもりじゃなかったんだ」 しゃがみ込んだ王子は、急いでメルヒェンの目隠しを取ってやる。泣きはらして真っ赤になった目が痛々しい。 涙を限界まで吸い込んだリボンは、じっとりと濡れて冷たくなっていた。 手の中のそれがメルヒェンの心情をこれ以上ないほどに物語っている。 「ごめんよ……本当にごめん」 冷えた身体を思い切り抱きしめる。 宥めるように背中をさすってやると、メルヒェンの肩が再び不規則に震え始めた。 「……王子の、嘘つき……すぐに帰ってくると、言ったじゃないか……っ……」 王子なんてきらいだ、と嗚咽まじりに漏らされたことばが心に突き刺さる。 ずっと泣き声をあげていたせいなのだろう、メルヒェンの声はかすれてしまっていた。 何とも痛ましいその姿を目の当たりにした王子は改めて悔悟の念に駆られるも、その感情をうまく伝えることができない。 「メルヒェン……すまない、僕が悪かった……」 ただひたすら懺悔するなんて、まるで馬鹿のひとつ覚えじゃないか。いくらここが告解室だからって、もう少しましなやり方があるだろうに――なんて皮肉って自嘲してみたところで他に良い手があるはずもなく。 どうすればメルヒェンは泣き止んでくれるだろうか、と思い悩む。 考えれば考えるほど泥沼に嵌っていくような気さえする。 黙っていても事態は悪化する一方だと感じ、言い訳にしかならないだろうと思いながらも不審者の正体や遅くなった理由などを噛み砕いて説明していった。 それらを聞いているあいだ、メルヒェンはずっと腕の中で引き攣れたような泣き声をあげていた。 それからずいぶんと長い間、じっとしていた気がする。 メルヒェンもひとしきり泣いて落ち着いたのか、静かになった室内には重苦しい空気がただよっていた。 「…………王子、」 気まずい沈黙を破ったのは意外にもメルヒェンだった。 ごしごしとシャツの袖で涙を拭った彼は、未だ潤む白金色の瞳をちらりとこちらに向けた。涙に濡れた睫毛がきらきらと光っている。 「……悪かったと思うのなら、ひとつ僕の願いを聞いてくれ。…………そうしたらもう、このことは責めない……から」 ゆっくりと、途切れ途切れに紡がれたことばに耳を疑った。 ひとつ。たったひとつ願いを叶えるだけで、彼は僕を許すと言っている。それで間違いないだろうか。 いったいどういう心境の変化だろう。 「もちろんさ、僕にできることならなんだってするよ! ……でも、君はそれで納得するのかい?」 思わず聞いてしまった。喜ぶよりも先に、メルヒェンが無理をしているのではないかと勘繰ってしまう。 だがメルヒェンはこくりとうなずくだけで、特に何か言い直したりはしなかった。 どうやらよく考えた末の結論らしい。 「じゃあ、聞いてもいいかな……僕は何をすればいいのか」 ごくり、と固唾を呑んでメルヒェンの声に耳を傾ける。 どんなにつらい条件や無理難題を出されても成し遂げる気構えだったが、もし「当分近寄らないでくれ」などと言われたら心が折れてしまうかもしれない。 どうかそんな恐ろしいものではありませんように、と祈らずにはいられなかった。 「……これを」 「え?」 「このリボンを、解いてくれると助かるんだが……」 恐れていたのとは掛け離れた言葉に拍子抜けする。 視線の先には、未だ両手首に絡みつく黒いリボン。目隠しと一緒に取るつもりだったのに動揺してすっかり失念していた。 確かに不自由には違いないだろうが、それを解いてやることが彼の受けた仕打ちと釣り合うほどの救いなのか。 自分でやっておきながら言うのも心苦しいが、到底そうは思えなかった。 本来ならそれは真っ先に取り除かれてしかるべき物だったのだから、どちらかと言えば自分の落ち度なのだ。 「……それだけで良いのかい? メルヒェン」 しかし、半信半疑で聞きなおしてみても「いいから早く」と急かされるだけだったので、とにかく言われた通りに両腕を解放してやる。 メルヒェンの手首に目立った跡や擦り傷がないことを確認して安心していると、出し抜けにぎゅう、と抱きしめられて思考が止まった。メルヒェンの匂いがふわりと鼻腔をくすぐる。 「……メル?」 「ずっと、こうしたかった……。王子がいなくなったとき、心細くて、怖くて…………っ、頼むから、もうひとりにはしないでくれ……」 照れ隠しなのか、そっぽを向いてしまったメルヒェンの頬はいつもと違ってうっすら赤みが差しているようにも見えた。 彼のことだから、すべて素のままの行動なのだろう。そう考えるとよりいっそう恐ろしかった。 ついさっき海よりも深く反省したはずなのに、これほどけなげな態度を取られてはまた嗜虐心が頭をもたげてしまいそうになる。 「おやおや、お願いはひとつだけじゃなかったのかな」 「……!」 「冗談だよ」 背中に手を回して抱きしめ返す。 王子たるものお姫様の熱烈なラブコールには答えなくちゃね――悪戯めかしてそう囁けば、きまり悪そうにもぞもぞと身じろぎするメルヒェンが愛おしくてたまらなかった。 だからこそ、先刻の泣き顔を思い出すと胸がちくりと痛む。 「メルヒェン、ごめんね。ちょっとやりすぎたよ……まさか泣くとは思わなくて」 やはりもう一度きちんと謝っておこうと思ったのだが、いざとなると気の利いた言葉が出てこない。 さすがにこのタイミングで「でも泣き顔も可愛かったよ」などと言うのもためらわれて、何と続ければいいのか迷ってしまった――いや、確かに可愛かったのだが。 いつもどこか人を寄せ付けない雰囲気を纏っている彼が、子供のように顔をべしゃべしゃにして泣きじゃくる姿というのは新鮮だった。 「う……そのことは水に流すと言っただろう、もう忘れてくれ――それより」 身を捩じらせて距離を取ったメルヒェンは、場を仕切りなおすように軽く咳払いをして僕の方に向き直った。 「僕のほうこそ……すまなかった」 突然投げ掛けられた謝罪のことばに驚く。 どういうことなのか視線で尋ねようとしても、そわそわとした様子のメルヒェンは目を伏せたまま口をぱくぱくと開けたり閉じたりするばかりだった。 「どうして君が謝るんだい?」 不思議に思って問いかけるがどうにも歯切れが悪い。 仕方がないので黙って彼の言葉を待っていると、やがてぽそぽそと、何とか聞き取れる程度の音量でメルヒェンは理由を打ち明けた。 「その…………君のことは、きらいじゃない、から……。さっきは少し気持ちが昂っていて……つい、ひどいことを……」 「ああもう、君はどこまで可愛いんだ!」 再びメルヒェンを抱きすくめる。衝動のままに髪をくしゃくしゃとかき混ぜて首筋に顔をうずめた。 慌てふためいた声で抗議されたが構うものか。 「もうどんなに嫌がったって離してあげないから」 覚悟してね、と耳元で告げる。 表情がゆるんでしまうのをどうしても抑えられそうになかった。 11.03.04 [ back ] |