きみにおぼれる(王子闇)1 | ナノ



 今にも朽ちてしまいそうだと思っていた教会は、実際に足を踏み入れてみれば存外美しい状態を保っていた。
 少々埃っぽいものの、誰かに荒らされた形跡もなければ窓ガラスが割れて室内が風雨に晒されているということもない。

「素敵な場所じゃないか、ねえメルヒェン」
「そう思うなら現状維持に努めるべきだと思うが」

 こぢんまりとした教会の中、壁に沿って造られた簡素な告解室の前でメルヒェンは毒づいた。
 今からこの小部屋が自分たちの体液で汚れることを想像すると、もう主もいない廃教会の設備とはいえあまり良い気はしなかった。
 大体こんな場所で行為に及ぼうなどと罰当たりもいいところだ。

「なら外でするかい? 僕は別に構わないよ」
「……っ、そういうことを言っているんじゃない!」

 行為自体をしないという選択肢はないのか、と咎めてやりたい。
 しかし王子の性格を嫌というほど知っているメルヒェンにはいちいち突っ込む気力も湧かなかった。
 「言い出したらきかない」という言葉で片付けるのは簡単だが、実際に振り回される方の身にもなってほしい――ついさっき古井戸のそばで交わした会話を思い出しながらメルヒェンはぼんやりとそう思った。



 王子との逢瀬はいつしか習慣のようになっていた。
 彼はあまり自分のことを話さないので掴めない部分も未だ多々あったが、今まで付き合ってきた中でいくつか分かったことはある。
 前述した通り、彼は一度言い出したらきかない。そして、彼が上機嫌な日ほどろくなことがない。
 少なくとも、今しがた彼が取った言動と照らし合わせた限りでは間違っていないだろう。

――今日は趣向を変えてみようと思ってね、良いものを持ってきたんだ。

 朗らかに言い放った王子の手には、真っ黒な長いリボンが握られていた。
 幅10cmほどのそれはつややかに波打って彼の掌から零れ落ちている。見たところ2本あるようだ。

「一応聞いておくが、それをどうするつもりなんだ」

 メルヒェンは半ば投げやりに尋ねる。
 どんな答えが返ってこようがどうせ自分に拒否権はないのだと悟ってはいたものの、やはり無条件に了承する気にはなれなかった。

「君の目隠しに使うのさ」
「王子。君はいい加減自分の趣味の悪さを自覚した方がいい」

 こちらに向けられた満面の笑みに思わず溜め息が漏れる。
 どうして彼の性的嗜好はこうもアブノーマルなのだろうか。
 黙って立っていればこれ以上ないほど恰好の“王子様”だというのに、肝心の中身がこれでは世の姫君たちもさぞ苦悩することだろう。そもそも彼のお眼鏡にかなう女性自体そう居るものではないから無駄な心配かもしれないが。
 なにしろ彼に興味を持たれたければまず死ななくてはならないのだから、同情する。

「何とでも言ってくれて構わないよ、僕は君のいろいろな表情が見てみたいんだ……それこそ君自身ですら知らないような、ね。僕は君のすべてが知りたいんだよ、メルヒェン」
「……一度医者にでも掛かった方がいいんじゃないか」

 何の臆面もなくこれほどむず痒い台詞を吐ける彼の思考回路はきっとどこか壊れているに違いない――そんな風に醒めた捉え方をする自分も頭の片隅には間違いなくいるというのに、顔はまるで火が灯ったように熱くなってしまうのだから不思議なものだ。
 自身の心の奥底にある彼への想いを引きずり出された気がして、恥ずかしさに居ても立ってもいられなくなってしまった。



 ところかまわず好意をぶつけてくる彼の相手をしているとどうにも調子が狂うな、とメルヒェンは溜め息を吐いた。
 今だって、嫌なら拒むことくらいできるはずなのにそれをしない。
 いつも通り王子の熱情に押し負けたのだと言えばそれまでだが、それだけではないことは自覚していた。
 何やかやと文句をつけながらも彼の提案に従うべく此処まで付いてきてしまうあたり自分も末期らしい。

(それにしても、)

 確かに屋外は勘弁してくれと頼んだ。希望が通っただけ良いのかもしれないが、行為自体が恥ずかしいことに変わりはなかった。
 彼に言われたことばが頭の中でぐるぐると渦巻いている。

(あんな風に言われたら、嫌でも意識してしまうじゃないか……)

 自分自身も見たことのない表情――その中には行為の最中のものも当然含まれているのだろう――なんて想像しただけでいたたまれなくなる。
 これからまたそんな姿を晒すことになるのかと思うと羞恥で気が狂いそうだ。

「メルヒェン?」

 訝しむように名を呼ばれてはっとする。顔が火照っているのが自分でも分かった。

「な、んでもない」
「そうかい? ならいいけど」

 ほら、お入りよ、と囁く彼はゆるい笑みを浮かべている。
 少々ためらったが、言われた通り錆びたドアノブに手を掛ける。狭苦しい箱の中へと身を滑り込ませると、埃と古びた木の匂いが肺を満たした。

 薄暗い告解室の中には椅子もなく、跪くためのスペースが申し訳程度に取られているだけだった。
 神父が入るのだと思われる隣の空間とを隔てる壁には、木枠で縁取られた30cm四方ほどの窓がひとつあった。それには木枠と同じ材質の木材が格子状に嵌め込まれており、隙間からは僅かに向こう側が見える。
 この窓を介して赦しとやらを請うのだろう。

 メルヒェンに続いて入ってきた王子が後ろ手に扉を閉めると、より一層息苦しさが増した。
 昼間ということもあり、明り取りの小窓から差し込む光でお互いの顔くらいはかろうじて見えるがやはり視界は悪い。閉塞感と相まってざわりと胸が波立つ。

「王子……何も扉まで閉めなくてもいいんじゃないか」
「おや、怖いのかい? すぐ慣れるよ、それにどのみち君には関係のないことさ――何も見えなくなるんだから」

 言葉に詰まるメルヒェンとは対照的に、王子は楽しくて仕方ないといった様子だ。

「むしろ君には好都合なんじゃないかな。白日の下であられもない姿をじっくりと観察されるよりは遥かにいいだろう? ……まあ、どれだけ抗っても誰も助けてくれないという点では不利かもしれないけど」

 なんてね、これくらいの方が雰囲気が出て楽しいじゃないか。そうおどけてみせる王子はにこやかに笑っている。
 一点の曇りもないその表情がかえってメルヒェンを怯えさせた。
 彼はいったいどこまで本気なのだろうか。

 王子に促されるままずるずると座り込む。
 メルヒェンが壁に背を預けると、彼の両膝を割るようにして王子もまた床に膝をついた。
 顔が近い。暗がりの中で綺麗な空色の瞳だけが光っている。
 見覚えのあるリボンが両眼を覆った後も、どこか渇きを感じさせるその輝きは目に焼きついて離れなかった。

「できたよ、どう? 痛くない?」
「ん……大丈夫だが、妙な感じだ」

 大体の居場所くらいは気配や声で見当がつけられるとはいえ、姿が見えないのはやはり落ち着かない。
 彼がいるであろう方向におそるおそる片腕を伸ばすと、きゅっと手を握られた。

「平気だよ、僕ならここにいるから」

 すぐそばで響く柔らかな声音に少しだが緊張が薄らぐ。
 やはり先ほど感じた不安は思い過ごしだったのかも知れない。

 しかし安心したのも束の間、微かな衣擦れの音とともに手首に何かが絡みつく感覚を受けメルヒェンは眉をひそめた。
 柔らかな感触から推測するに布か何かだろうか。
 何が起きているのか分からないまま王子に問いかけるも、答えは返ってこない。
 やがてもう片方の腕を掴まれたとき、メルヒェンは1つの可能性に思い至った。

 あのとき確かにリボンは2本あった。
 その内のひとつがいま自分の視界に帳を下ろしているのだから、残ったそれの使い道を考えれば予想はすぐに確信に変わる。
 しかし時はすでに遅く、しゅるしゅると手際よく巻きつけられた真っ黒なリボンはメルヒェンの両腕の自由を奪っていた。

「なんで、こんなこと」
「君が勝手に目隠しを取らないようにさ。すぐ外してしまったらつまらないだろう?」
「絶対に外さない、約束するから……!」

 「だからこれはほどいて欲しい」と、じわりと広がる苦痛に押しつぶされそうになりつつ必死に懇願する。
 何も見えない上に両手の動きまで封じられるというのは、いくら信頼関係にあるとはいえ耐え難いものだった。

「だめだよ、君に堪え性がないのは僕がよく知ってるんだから」

 ふふ、と笑った王子はメルヒェンのシャツに手を伸ばした。ひとつ、またひとつと釦が外される音だけが微かに響く。
 ベストもシャツも全てはだけられてしまったのを感じ取ったメルヒェンはすっかり怯え惑ってしまい、次はどこに触れられるのかと気が気でなかった。

「王子……もう許してくれないか、頼む……」

 蚊の鳴くような声で訴えかけるメルヒェンは、どちらを向けばよいのか分からないようで王子の気配を頼りに視線をさ迷わせては身体を震わせている。
 そんなメルヒェンの様子を眺めた王子は密やかに笑みを深めた。

――嗚呼、嗚呼。なんて可愛いんだろう。

 彼はいま自分の助けなしでは何もできないのだと思うと、どうしようもなく胸が満たされていくのを感じた。

「ひゃ……あぅ!」

 たまらず鎖骨の辺りに噛みつけば悲痛な声が上がる。
 そのまま傷口をくじるように舐めあげると、湿った音に混じって細い吐息が薄闇にこだました。
 互いの息遣いと床の軋む音が鼓膜に纏わりつく。

「いた、ぁ……も、やだ……っ、王子……!」

 メルヒェンは不自由な両手を精一杯使い、覆い被さる王子を押し退けようと試みる。
 それは何もかも見えている王子にとっては取るに足らない些細な抵抗だったが、彼の嗜虐心を煽るには充分すぎるほどの威力を持っていた。

「悪い子だね。君みたいに聞き分けのない子には――」
「……?」

 ふいに王子が言葉を切った。
 今度は何をされるのか戦々恐々としていたメルヒェンは、意図せず訪れた沈黙に戸惑いを覚える。
 できれば続きは聞きたくなかったので先を促すことはしなかったが、それにしても妙だ。
 メルヒェンが何と声を掛けようか迷っていると、王子は一段低い声でメルヒェンにささめいた。

「何か物音がしないかい?」

 それは予期せぬ言葉だった。王子への対応で精一杯だったメルヒェンは気づかなかったが、なるほどよく耳を澄ましてみれば何やら教会の外を歩き回るような音と、それに話し声が聞こえる気がする。

「どこから……?」
「たぶん裏庭のあたりからだ。……ちょっと様子を見てくるよ」

 僅かに緊張を含んだ声でそう告げると、立ち上がった王子は軽く埃を払った。
 ぎい、と乾いた音を立てて扉が開かれる。

「王子? 待ってくれ、王子!」

 驚いたのはメルヒェンである。
 彼はまさか自分をこのままの状態で置き去るつもりなのだろうか、と一抹の不安に駆られたものの、不自由極まりない現在のメルヒェンでは出て行こうとする王子に縋ることもままならない。
 とっさに声を荒げるがしかし、与えられたのは待ち望んだ解放ではなく心を蝕む暗闇と静寂だった。

「大丈夫、すぐ帰ってくるから大人しく待ってて」

 メルヒェンに言い聞かせるように落ち着いた声色で発せられたその言葉は、同時に戒めを含んでいるようにも取れた。

 近くにいると思われる何者かに感づかれるのを懸念しての態度なのか、それとも素直に拘束を受け入れず駄々をこねた自分へのちょっとした罰のつもりなのか。
 王子の足音が遠ざかるのを聞きながらメルヒェンはしばし考えたが、結論は出なかった。
 理由がどうであれ、彼が再び此処に戻ってくるまで自分はこのままなのだ――そう自覚した途端、必死に押さえ込んでいた恐怖がたちまち自身を呑み込んでいくのを感じた。

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