井戸の縁に腰掛けてかれこれ1時間は経つだろうか。眼前に立つ男は、身振り手振りを交えて熱っぽい口調で語り掛けてくる。 いつものことと言えばそれまでなのだが、今日は特別しつこい。彼の甘言は留まる所を知らず、普段なら持ち前の毒舌で彼を追い返そうとするエリーゼも呆れて井戸の底に姿を消してしまうほどだ。 「モウウンザリダワ、メル!」と彼女は叫んでいたが、それはメルヒェンとて同じだった。 (毎日毎日……よく飽きないな) 気の向くまま此処に押しかけては屍体相手に歯の浮くような薄ら寒い台詞を次々と並べ立てるのが趣味だなんて、もはやとち狂っているとしか思えない。彼の臣下の心痛は想像するに余り有った。 だが、そんな男をなんだかんだで拒みもせずに相手にしている自分もやはりどこかおかしいのかも知れない。 「メルヒェン、さっきから上の空だが何か悩みごとでもあるのかい? 僕でよければ相談に乗ろうじゃないか」 「私は端から君の話を聞いているつもりはないし、目下の悩みごとと言えば君がいま此処にいることくらいだ」 「はは、ずいぶんと手厳しいね」 メルヒェンは努めて冷ややかに言い放つ。 しかし棘を目一杯含んだ返答にも全く動じる様子のない王子は、そつのない動作で跪いたかと思うとおもむろにメルヒェンの手を取った。 「そうつれないことを言わないでほしいな……僕は本当に君のことを案じているのに」 目を伏せた王子は、メルヒェンの手の甲にそっと唇を押し当てる。柔らかく温かな感触が皮膚を擽った。 メルヒェンは今すぐにでも振り払ってやりたい衝動に駆られたが、ちらりと盗み見た彼の表情がいつになく真剣であったため無下に扱うのは少々躊躇われた。 「…………そういった気障な振る舞いは愛しい姫君にでもし給え、喜んで君のことを受け入れてくれるだろうに」 考えた末に言葉を絞り出す。少し、ほんの少しだけ、胸が痛んだ。 久方ぶりに訪れた、待ち望んだはずの沈黙が何とも気まずく感じられて足元の彼から目を背ける。 あの透き通るような青碧の瞳には今どのような色が浮かんでいるのだろう。信頼されていないことへの哀しみか、それとも真面目に取り合おうとしない自分に対する恨みだろうか。 「それは暗に受け入れる体制が整っていると僕に伝えたいのかい?」 晴れやかな声で発せられた予想外の言葉に驚いて視線を落とすと、彼は先刻の想像とは掠りもしない爽やかな笑顔でこちらを見上げていた。 「……どう解釈すればそんな結論に達するんだ」 「君は僕にとっての愛しい姫君なんだから何もおかしなところはないさ、そうだろうメルヒェン?」 珍しく真摯な態度を見せたと思ったらこれだ。全く呆れて物も言えない。 やはりあの時エリーゼと一緒に引き上げておくべきだった――留まることにした自分が悪いとは言え、自然と溜め息も零れるというものだ。 「私はそんなものになった覚えはな……っつ、」 もう充分付き合ってやったことだし構わないだろう、と立ち上がりかけたところで、手の甲にピリッとした痛みが走り息を詰める。 見ると、さきほどと同様にキスを施す彼の姿があった。ただひとつ違うのは痛みを感じた箇所に僅かに鬱血した痕が残っていることだ。 改めて手を振り払おうとするも、しっかりと手首を掴まれてしまっては抜け出すことは困難だった。 「照れなくていいんだよ、かわいい僕のエリス」 「照れてなど……、ひっ、や、め……やめてくれ、王子っ……ぅあ、ぁ」 鬱血したところをべろりと舐められ肌が総毛立つ。 君の考えていることは何でもお見通しだよ、と言わんばかりの口調に腹が立ったが、調子に乗って手の甲のみならず指にまで舌を絡めてこられてはいちいち訂正することも儘ならなかった。 最も、見当違いだと主張したところで止めてもらえる可能性は無きに等しいだろうが。 「君は本当にかわいいね……頭のてっぺんからつま先までぜんぶ僕のものに出来たらどんなに良いだろう」 蕩けるような声で呟いた彼は指の股に舌を這わせてくる。 何を勝手なことを、と言ってやりたいのに言葉が出てこない。背筋を断続的に上ってくるぞわぞわとした感覚が気持ち悪くて堪らなかった。 ちゅる、ちゅぷ、と湿った音が響く度に理性まで舐め溶かされているような錯覚に陥っていく。 「このほっそりとした指も……ああ、食べてしまいたいくらいだ」 かり、と指先を甘噛みされて微かに身体が跳ねた。膝が震えてしまい立ち上がることもできずにただひたすら耐える。 それだけでも充分過ぎるほどの刺激だと言うのに、そのまま味わうように食まれてはひとたまりもなかった。 「っ、いくら屍体を愛する君でも、流石にそういった嗜好は持ち合わせていなかったはずだが……?」 ついに食人にまで手を出したのかい、と精一杯の皮肉を込めて牽制してみたところで上がってしまった息が隠せる訳もない。 彼も分かっているのだろう、焦らすようにいったん口を離して薄く笑った。 「愛する人を体内に取り込む、か……それもなかなか良いじゃないか。君を齧ったらどんな味がするだろうね、メルヒェン」 「は、君に食べられるなんて……冗談じゃない、な……っ」 再び指をなぞるざらざらとした感触に目尻がじわりと濡れる。 苦し紛れの抵抗もだんだんと吐息に変わっていく。銜えられた指先から伝わる熱は、次第に正常な思考を削り取っていった。 「君は照れてばかりだね……愛おしさのあまり本当に食べてしまいたくなる」 「っん、ぁ……う……!」 ――でも美しい君の肢体が欠けるのも嫌だからね、今は止めておくよ。 指の腹をきつく吸われ自然と身体がびくつく。 そんなこちらの反応を窺っては愉しそうに囁くこの男が、心底憎らしかった。 11.02.09 [ back ]theme:確かに恋だった |