しぬということについて考えてみた。それはつまりおとなになるということだろうか。でも、おとなにならずとも、それが外からの抑圧であれ自らの解放であれ、しぬということは十分に有り得ることなのだ。ならばいったい、しぬということはなんなのだろう。よくわからない。 では逆に、いきるということについて考えてみようか。いきる、こと。いきること。それっていったいなんだろう。サッカーをすること、いや違う、もっとそれより原始的で無意識的な。息をすること心臓が鼓動すること、それから、あたたかいこと。なるほどきっと、たぶんこれだ。 ならば、しぬということは。息をしないこと心臓が鼓動しないこと、それから、あたたかくないこと。そういうことになる。でもだって、それって違う。シュウは、息もしなければいくらぎゅうぎゅうに抱きついても心音なんて聞こえないし、なにより、ひやりと心地好く冷たい。でもだけどしかし、彼は、シュウはいきているのだ。息もしなければ心音なんて聞こえないしもちろんあたたかくなんてない。それでも彼は、俺といきている。だからやっぱり、さきほど辿り着いたしぬということの定義は間違いだらけということだ。ああなんだ、やっぱりしぬということは難しすぎてよくわからないな。 ∴しぬということ |