きっとどこにもどこへも帰れない | ナノ

 黄瀬の部屋は、黄瀬以外の誰もかもを排除している。
 ポスターも、雑誌もない。シンプルな家具に囲まれた部屋だ。他の女の気配は、男の気配だって、これっぽっちもなく、他の要素が入りこむのを排除している。ただ、クローゼットを開けると別だ。小さな籠には可愛らしい柄の布が被せてある。その中には、東雲の着替えが入っているのだ。
 真っ白な清潔感溢れるシーツに横たわり、東雲は持ち込んだ雑誌を読んでいた。夏休み、あまり部活動もない東雲は暇を持て余していた。珍しくオフが連続すると言う話を黄瀬から聞いて、旅行と言うには質素な予定を立てたのだ。高校進学にあたり、少しの距離だが神奈川に引っ越した黄瀬の家に泊まり、鎌倉に行こうと思い立ったのだ。紫陽花の季節は過ぎているけれど、まあいいだろう。海に入らなくても、江ノ島水族館にいくのもいい。予め置いてあった着替えと、持ってきた着替えを自分の部屋のように乱雑に置いた。まずどこから回ろうか。ぺらりぺらりと雑誌をめくる。色とりどりの寺院の写真を次々と脳内にインプットしていく。何もかもを排除して、他人の気配を隠している部屋に、異質な東雲が当然のようにくつろぐのは、やはり違和感があるものの、長年の違和感は慣れへと変わってしまった。この部屋に存在することを許されているようで、少し優越感に浸っていた。
「いづろっち、あがったっス!」
「そういう報告要らないから」
 人様の家の一番風呂をいただいておいて、そっけない返事になったと、他人事のように思う。
 しっかりと乾かされた黄瀬の髪は、東雲と同じ香りがする。それもそうだ、今日は黄瀬の家のシャンプーを借りたのだから。勢いよくベッドに飛び込んだ黄瀬の体重は、東雲に襲いかかる。ギシっときしんだベッドの音とともに東雲の内臓も悲鳴をあげた。いつも暖かい黄瀬の温度は、風呂上りと言うこともあって更に暖かい。
「いづろっちも同じ匂いするっスね」
「そりゃあ、涼ちゃんの家のシャンプー使ったもん」
 東雲の少し短い髪をわざとらしく手にとって、匂いをかいでいる黄瀬はほんとうに趣味が悪い。いそいそと東雲のTシャツの中に、暖かいものが侵入してくる。当たり前のように東雲の肌を這いずり回り、すぐ解放感を与えることになる。諦観が東雲を包み込んだので、一度身体の力を抜いた。無理矢理仰向けにされた東雲の視界には天井が映る。端でひょこひょこと楽しそうな黄色。
「ここ涼ちゃんの家だよ」
「今日親がいないの知ってるでしょ?あの人たちも今旅行中だから」
 あっという間に脱がされた服はベッドの下へ、自分の家でもお風呂でもないのに裸になるというのは不思議な感覚だ。べろぉ、と生暖かいものが手の代わりに東雲の肌を蹂躙した。くすぐったさに顔を逸らせば、それは追いかけてくる。首筋から、耳へ。ぬめっとした感覚が、入口から中まで入ってくる。粘り気を帯びた音がダイレクトに鼓膜を震わせるのが、硬いもので耳を挟まれるのが、くすぐったくて心臓がはねた。
「いづろっちは耳感じるんスね」
 楽しそうに呟かれた言葉は、もうほとんど入ってこない。知らない、と代わりに首を振って答えれば、黄瀬の舌は顔の輪郭をなぞるように進んでいく。それから逃げるように、顔をそむけるものの、無駄な努力に終わる。
「今日はチューしてあげるっス」
 何を言っているんだ!と反論しようとした言葉はすぐに飲み込まれて消えてしまった。柔らかいものがぶつかったと思えば、唇を舐められる。苦しくなって口を開ければ、上唇を黄瀬の唇で挟まれ、舐められ、頭が真っ白になる。舌と言うのは、ざらざらしているのではなかったのか。それは猫か。つるつるしたものが、唇を、口内を、舌を、絡め取っていく。
 いとおしむように、暖かい掌が東雲の頬にそえられる。先ほどとは別のくすぐったさが心臓を擽る。
「涼ちゃん、おかしいよ。これ、おかしいよ」
「…いづろっち、オレのことそこそこ好きでしょ。オレもそこそこいづろっちのこと好きだよ」
 嫌いなわけがない。「嫌だったら、抵抗していいよ。殴ってもいい」そんなことを、東雲ができるはずもないことは黄瀬は分かっていた。迷いのない言葉の羅列に、東雲は眩暈すら覚える。好きだよ。明確な関係がないままこれでいいのかと何度も自分に問いかける。流されているのではないか。いくら幼馴染みだと言っても、これは幼馴染みの範疇を超えているのではないか。
「でも、これは、これ以上は」
 黄瀬から送られる刺激に、うまく呼吸ができない。力を抜いて、そんな言葉さえも東雲の身体を強張らせる呪文になった。
 アイスクリームを舐めるみたいに、舌を這わす黄瀬を、ぼんやりした視界で見る。男にしては白い、思ったよりも薄い身体。シーツに縫いつけられた手を、すがりつくように力を込めると、確かめるように力強く返される。
「こんなこと、好きな人にしかしないっス」
「でも、こういうのは、付き合ってる人同士がするんだよ…涼ちゃん」
「好きじゃないのに付き合ってる人だっているっス。そういうのはいいんスか?オレは、難しいこと分かんないスけど、愛とか恋とか、よく分かんないけど。それでも、いづろが好きだよ」
 色んな事を、すっとばしている。階段を、段飛ばしで駆け上がっている。何があるかも分からないところへ、東雲と黄瀬は向かっているのだ。きっと、どこに辿り着くかは、知っているのかもしれない。夜明け前の薄暗い、何もない、障害など無いまっすぐな道を、ふたりは目隠しで進んでいるのだ。まっすぐな瞳が、東雲を見ている。
 わたしの眼は、何を映しているのだろう。
 黄瀬はこんなにもまっすぐわたしを見てくれていると言うのに。
 背筋をのぼる何かの感覚に怯えながら、黄瀬の肩に手をまわす。黄瀬はそれに応えるように、東雲と肌を合わせるようにくっついて、至る所に口付け、しゃぶり尽くす。
 こころの目隠しを外して、東雲は小さく黄瀬の名前を紡いだ。それに気付いた黄瀬は、喰い尽すように東雲の唇を食んだ。
「いづろ」
 吐息とともに漏れる自分の名前が、とてもうつくしく聞こえる。東雲にとって、黄瀬から紡がれる自身の名前がとてもうつくしいように、黄瀬にとって東雲から紡がれる彼自身の名前が魔法の言葉になるように、丁寧に黄瀬の名前を呼ぶ。名前を呼ばれた黄瀬は、迷子から解放された子供のように、顔を安心や歓喜やぬるま湯のような温度でくしゃくしゃにした顔で口付けを落としていく。首元や胸に顔をうずめる黄瀬の顔はもう見えないけれど、生暖かいぬるりとした舌とは違う水分がいづろの肌に落ちて伝っていく。
「りょうた」
 肌をぴったり合わせたまま、すこし震える黄瀬の頭を、縫い付けられていない方の手でゆっくりと撫でる。繋がれた手に力が入ったと思うと、黄瀬は静かになった。
「わたしも、すき」
 東雲は瞼を閉じる。じんわりと暖かい水が溢れて零れていく。肌と肌がくっついたところから、温かさが広がっていく。このまま暖かく、舌の上でチョコレートを溶かすように蕩けていけたらいいのに。まっすぐな道を、ちゃんと前を見据えて歩いていくためにふたりはお互いの名前を呼び合った。
 くしゃくしゃに、赤い目を潤ませた子供のような黄瀬の顔が上がる。鼻を啜る音。頭に置いてあった手を、黄瀬の頬にそえた。東雲はさっきまで黄瀬がしていたように、黄瀬の唇に口づけた。更に泣きそうな顔になった黄瀬の顔が可笑しくて、東雲は耐えきれず笑ってしまう。
「ごめんね、やったことがないから涼ちゃんの真似してみたんだけど」
「…こういうことはオレがするから、いづろっちはオレの名前を呼んで、好きって言ってくれたら、それだけで十分っスよ」
 何度も繰り返される口付けは、そこから段々と熱をもっていくようだった。幸せをコップに注いで、溢れだしてしまうような感覚。
「いつかテクニシャンになって涼ちゃんの腰を抜かして見せるから」
「…練習台はオレだけにしてよ」
 東雲は、この感情を黄瀬以外に向ける方法を知らないし、知りたくもない。もう一度黄瀬に口づけて笑って見せた。黄瀬も、困ったような、でも嬉しそうに笑って眼のふちに溜まった涙を零した。
 ふたりの世界の夜は、もうすぐ終わるようだ。

20120823
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