艶めく花の香に酔う






 砦内に響く子供の笑い声に、誰もが顔を綻ばせる。日々の殺伐とした日常を一時でも忘れたい、そんな気持ちも確かにあるのだが、ただ純粋に子供達の楽しそうな様子を見られる事を嬉しく思う気持ちの方が強かった。
 戦闘に参加出来る力を持たなくても、砦に留まり少しでも何か出来ないかと思い手助けをしてくれる人々の心は、日々の戦いを生き抜く戦士達の力となる。
 だが、今日ばかりは穏やかなその光景すらフラウの心を和らげる要素にはなり得ないらしい。

 何だろう、酷く苛々する。
 いつものように日が出る前に起き出して、朝の稽古を済ませ朝食を摂ったところまでは本当にいつも通りといって差し支えないものだった。今日は敵側にも目立った動きはなく、よって遠征に出る必要のない、久しぶりにのんびりとした時間を過ごせる日となる筈だったのに。
 漸く理想の魔石が出来たとはしゃぐジーノの話を聞いていた時もそんなに気分は悪くなくて、それどころかまるで自分の事のように嬉しかった。だが、ほんの数分前まで全く問題なかったのに、今は隣にジーノがいる事すら機嫌降下を辿る一因になっているのだった。
 ここに至るまでの全てを思い返してみても、その理由に思い当たらない。そしてその事が、更なる苛立ちを生むのだった。が、

「リュセリって足白いよな」
「っ!?」

 ジーノの何気ない一言に、フラウの中で何かがかちりとはまった音がする。そう、答えは至極簡単な事だったのだ。
 フラウは俯くと口元に手を当てた。すると指の隙間から堪え切れなかった笑い声がくくくっ、と漏れる。

「フラウ?」

 隣にいたジーノが訝しげに見るも、フラウは自分の辿り着いた答えにただ肩を震わせ笑い続けた。どうして、なんて考えるまでも無かったじゃないか、と。これが自室だったら腹を抱えて笑い転げていた事だろう。寧ろ何故思い至らなかったのかと自分の思考に呆れさえ浮かぶ。

 ひとしきり笑ったフラウは、息が整うなり立ち上がる。そして、先程からフラウの奇行に意味が分からず目を白黒させているジーノを見下ろし。

「あんまりデレデレしてると、フォルネに言い付けるよ?」

 にっこりと笑って釘を刺せば、あからさまに慌て出すジーノに「分かり易いなあ」と止めを刺して身を翻した。

「あ、あいつは関係ないだろ!?」

 最初の衝撃から立ち直ったジーノが、土を蹴立てて立ち上がり叫ぶ。フラウは追いかけて来たその声にひらりと手を振るだけで、振り返る事はしなかった。
 ジーノがまだ何事か言っている声はするが、残念ながらフラウの意識はすでに前にのみ向けられていて、その瞳に映っているのはたった一人。
 彼女はいつもと同じ丈の長い上着を纏い、だがいつもと違い下には膝までのブーツではなく恐らく誰かから借りたのであろう靴を履き、脛当ても付けていない随分とラフな格好だった。彼女の生まれた雪深い土地とは違い、ここは随分と暖かく。きっとそれでも暑い位ではないだろうかとも思えたが、スカートを穿いているようにも見えるその恰好は、如何せん短すぎて非常に目のやり場に困る。しかも普段ない恰好の所為か、道行く男共の視線がちらちらとそちらに向いているのすら気に食わない。
 フラウの瞳に暗い影が揺らめき、すぐにそれを隠すように穏やかな笑みを浮かべた。

「楽しそうなところごめん。リュセリ、ちょっと良いかな?」

 華やかな一団にさり気なく割って入り、困ったように眉を下げる。と、

「いきなりどうしたんだフラウ、何かあったのか?」

 フラウの心中など知りもしないミュラが、不思議そうに小首を傾げる。同じくその隣にいたイリアも、声こそ上げなかったものの笑顔の中に疑問を浮かべているのが見て取れた。
 そんな彼女等の問いかけを曖昧な笑みを浮かべて誤魔化すと、リュセリを促し時代樹の方へと足を向ける。すると戸惑いは一瞬、すぐに後ろを付いて来るリュセリの気配を背中に感じ、フラウはそっとほくそ笑んだ。

 かつては何がしかの建物の入り口だったであろう石垣をくぐると、光を纏う時代樹の全貌が姿を現す。いつもならそこに秘められた力に圧倒され思わず見入ってしまうのだが、今のフラウにはそんな事をしている余裕はない。少し遅れてやって来たリュセリが習うように立ち止まったのを感じ取り、振り向きざまその腕を取った。

「こっち」
「えっ!?ちょっフラウ!」

 抗議の声をさらりと無視し、すぐ横にある塀の間へと身を滑り込ませる。突然の事にリュセリがつんのめるが、構わず歩き続けた。


 戸惑うリュセリの腕を掴んだまま、やって来たのは建物と塀の間。丁度死角になっているここなら、リュセリの姿を誰の目にも触れさせなくて済む。

「ねえフラウ、どうしたの?」

 フラウが漸く立ち止まって振り向けば、彼の行動の意味が分からないリュセリは小首を傾げている。

「本当に、分かってない」
「え?」

 そんな何気ない仕草が余計に煽っているのだと何故気付かないのか。少し強めに肩を押せば、油断していたリュセリの身体は簡単に傾ぎ。狙い通り後ろにある壁に背を預ける恰好になる。抗議しようと口を開いたリュセリの声が音になるより早く、フラウは一気に間を詰めると、音を立てて壁に左手の平を打ち付ける。そこはリュセリの顔のすぐ横。突然の事に、リュセリは驚き目を瞬いている。
 リュセリに警戒する様子がないのは男として意識されていないからなのか。フラウは自らの考えに軽く舌打ちをするとスッと目を細めた。
 その様子にただならぬものを感じたのかリュセリがそこで漸く身を硬くするも、最早それは手遅れというもので。

「そんな無防備な恰好を僕以外の男の人に見せたりして…僕がどんな思いでいるか分かってる?」

 覆い被さるように身を屈めると耳に触れるぎりぎりまで顔を近づけ、吐息と共に普段より低い声を落とせば、リュセリの息を呑む音がやけに大きく聞こえる。フラウが怒っていると感じたのだろう事は、容易に想像が付いた。
 そう、確かにフラウは怒っている。それはリュセリに対しても勿論―――男はみんな狼だと、何故気付かないのだろうか―――だが彼女の恰好を少しでも見た者に対してはそれ以上の怒りを覚えていた。それがどれだけ理不尽なのかは重々承知している。しかしそれでも、湧き上がる黒い感情を抑えることなど出来ない。

 フラウの中の葛藤など気付く余裕もなく、壁際に追い詰められたリュセリはただ怯えていた。今までの優しいフラウからは考えられない暴挙に。そしてまるで人が変わったかのようなその雰囲気に。だが、どうしてか心が騒ぐのは何故だろうか。優しいフラウがこんなにも激しいものを持っていた事に、自分の中の不可解な気持ちに、リュセリの思考は混乱していた。その所為で逃げるタイミングを逃してしまった事は、フラウにとっては幸運だったのだろう。
 普段とは明らかに違う光を宿した瞳に射竦められ、リュセリの身体が無意識に震える。それを見たフラウの顔には恍惚とした笑みが浮かぶのだった。

 君が僕に向ける感情全てが―――それが例え恐怖に似たものだとしても―――僕にとっては甘美な誘惑に過ぎず、僕の心は益々掻き立てられるんだ。
 だってそれだけ僕を意識しているって事でしょう?
 いっそこのまま誰の手も及ばぬ所に閉じ込めてしまおうか。そんな物騒な考えが首を擡げ、思わず苦笑が漏れる。でも言い返せばそれだけ彼女に心を奪われ、溺れているという事。ならばこの気持ちはきっと正しいのだろう。
 同意を求めるように小首を傾げて顔を覗き込めば、必死に平静を装うとして、でも全く成功出来ていないリュセリの戸惑いを含んだ眼差しとぶつかる。緊張の為だろうか、瞳は熱く潤み唇は僅かに震えている。それを目の当たりにして、背筋がぞくりと震えた。ああ、これ以上誘惑してどうしようと言うのか。
 固まっているリュセリの頬を右手の指で撫でれば、面白い位に肩が跳ねた。無意識なのだろう、身体が逃げようとするのを頬に手を滑らせる事で押し止める。益々赤くなった顔が可愛らしくて、見上げてくる瞳に理性などどこかへ行ってしまった。
 そっと顎を持ち上げれば、息を呑むリュセリ。それを見るフラウの口元には怪しい笑みが浮かんでいる。
 そんな反応すら嬉しいと思う僕は、どこかおかしいのかも知れないね。でも、

『君が悪いんだよ、僕をこんなに夢中にさせて』

 瞳の中に彼女の姿を捕らえたまま、零れた吐息すら惜しむようにその唇を己のそれで塞いだ。全てを貪り尽くしても、この飢えは満たされないのかも知れない。そんな事を思いながら。


 啄ばむそれの深き事、伝わりし熱は尚熱く。秘めたる心曝け出し、かの人への想いを託す。その情熱が辿りしは、情念という名の呪縛の糸。さあ、その花を手折るに足るや如何に。