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「…懲りないよねえ……」

 その日もゼフォンは部屋にいてもやる事が無いからと、周りに気付かれないよう外へと出ていた。いつもの場所にやってくると、そういえば今日は満月だったか。常の儚さはどこへやら、煌々と輝く月が辺りを明るく照らしていた。今更感慨に浸りたい訳でもない無かったが、この明かりは今の彼には強過ぎる。

 結局あの夜の出来事があってから、ミュラは微妙にゼフォンを避けるようになっていた。
 遠征に行く時も、何やかやと理由をつけてはゼフォンと一緒に出る事が無いようにしているのは察せられ、それで良いのだと一人頷いていた。但し、ルセルに迷惑をかけているのは少し心苦しかったが。
 ゼフォンの脳裏に夕食の席での光景がよみがえって来る。たまたま同じテーブルになったゼフォンと目を合わせないように、ミュラは不自然なまでに視線をさ迷わせていた。自分がそうなるよう仕向けたくせに、小さな針が刺さったかのように痛む胸に苦笑を浮かべる。
 不意に、乾いた音が聞こえた。断続的に続くそれは足音で、ゼフォンは明らかに女性のものと思えるそれに目を見開き、まさかという思いで振り返る。するとそこには思い描いていた通りの人物が、真っ直ぐにこちらへと向かって来た。
 ゼフォンの数歩手前で立ち止まったミュラは、余程緊張しているのか強張った顔をしていて、握り締めた拳は僅かに震えていた。自分の前に立つがそんなに勇気のいる事なのかと、ゼフォンは心中でそっと溜息を吐いた。結果としては望ましい事なのに、儘ならない心にもう呆れすら沸かない。
 そんなゼフォンの心中など知る術も無いミュラの、今から戦闘開始だとでもいうのかのような緊張を孕んだ表情に、ああとうとう完璧に拒絶されるのだろうかとゼフォンは一人覚悟を決めてその視線を真っ直ぐに受け止めた。だが、

「あたしは、あんたを監視なんかしてないからな!」
「へ?」

 ゼフォンの口から間の抜けた声が漏れる。それは
 つまり、ミュラがゼフォンを避けていたのはゼフォンの意図とは全く関係なく、ただ彼女がゼフォンを監視などしていないと証明しようとしたが為の行動で…
 完全なる不意打ちにゼフォンは目を瞬き、次いで声を上げて笑いだした。身体をくの字に曲げ、今が深夜だという事への考慮も忘れたまま。
 漸く収まった時、笑い過ぎて目尻には涙が溜まり腹部が酷く痛んだ。ゼフォンは上体を起こすと、溜まった涙を指で払い珍しい光景に呆けたように固まっているミュラに向かって、参ったと両手を顔の横に上げ手の平を見せた。
 だが、ミュラは我に返るなりゼフォンの態度を馬鹿にしていると取ったのか悔しげに顔を歪め、その顔色がより赤みを増した。そして悔しさからだろうか、瞳からは大量の雫が溢れ出す。

「あたしは、あんたが…っ、あんたを…!」

 高ぶった感情のままでは上手く言葉を紡げなくて。やがて堪えきれなくなったミュラは、両の手の平に強く顔を押し付けた。その唇から嗚咽が漏れるまでそう長くはかからず、震える肩が酷く頼りなく見える。
 とうとう泣き出してしまったミュラを前にして、ゼフォンの表情に焦りの色が浮かぶ。こんな時どうして良いのかなど知らない。長い歳月を生きてきたが、こんな風に目の前で泣かれた経験は皆無。それはゼフォン自身が常に人と距離を取り続けて来たから、そこまで踏み込む関係になった人もいなかったのだ。なのに気付けばミュラはゼフォンの心に深く入り込んしまっていて。

 今やゼフォンの仮面は完全に剥がれ、困惑の色を載せた表情は彼の心中を如実に表していた。
 本当は、このまま彼女を放っておいて立ち去ってしまうのが自分の行動としては正解だと分かっている。ここで自分から動いてしまえばこの気持ちに気付かれてしまうかも知れない。そうしたら、もう誤魔化しなど効きそうに無くて。でも何故だろう、どうしても足が動かない。それどどころか、心とは裏腹にせっかく開いている距離を自ら縮めてしまっていた。
 ゼフォンの伸ばした手がミュラの腕に触れる。だがそれはすぐにミュラの手によって弾かれ、指先に痺れるような痛みを感じた。
 同時に、ほんの少し。小さな棘が胸に刺さったかのような痛みが走る。きっとこれが身を引く最後のチャンスだ。この一線を越えてしまったら、自分がどうなるか分からない。それなのに、込み上げる衝動を抑える事など出来ず。
 ゼフォンは素早く手を延ばし乱暴に扱えば折れてしまいそうに細いミュラの手首を掴むと、勢い良く自分の方へと引き寄せた。突然の暴挙に抵抗など無いに等しく。あっさりと倒れ込んできた、決して逞しいとは言えない己の身より更に小さく華奢な身体を腕の中に閉じ込める。僅かにたたらを踏むも、プライドにかけて倒れるような醜態は晒さない。
 一方、突然の暴挙に呆気に取られていたミュラは、数瞬で我に返るとその腕から逃れようと抵抗を始めた。

「は…なせっ!」

 だが、身を捩るミュラの抵抗など意に介さないように、ゼフォンは抱き締める腕に力を込めてその首下に顔を埋める。頬に触れるミュラの髪は完全には乾いておらず、しっとりと濡れていた。女性らしい甘い香りが鼻腔を擽り、胸いっぱいに吸い込めば頭の芯がくらりとする。まるで麻薬のようだ、とひとりごちてゼフォンはくすりと笑った。

「っ!ゼ、フォ…ン!」

 笑った拍子に漏れた息が首筋を擽ったらしく、ミュラの肩がぴくりと跳ね唇からは多大に困惑を含んだ声が漏れる。普段お前としか呼ばない彼女の唇から紡がれたのは、まごう事無き己の名。
 ゼフォンは俄かに騒がしくなる心臓も歓喜に震えそうになる身体も今だけだからと誤魔化して、腕に込めた力はそのままそっと眼を閉じた。
 外界との繋がりである視覚を遮ってしまえばゼフォンが感じられるのはミュラだけ。
 耳が捉えたミュラの息遣いや心臓の音。肌で感じるミュラの熱。体温が上がっている所為か、匂い立つ香りに一層引き込まれて。
 これが最初で最後だからと自分に言い訳しながら、ゼフォンはミュラの全てを己の中に刻みつける。
 でも、

(このまま朝が来なければ良いのに…)

 そんな事を考えてしまう自分に驚きながら、だがそれも何だか悪くないとも思えて、口端をより一層引き上げるゼフォンだった。