絡んだ糸の、その先






 今日も、夜は静かに訪れを告げた。まるで白い絵具を散らしたかのような星が空を埋め尽くし、揺れる大気に瞬きを繰り返している。そして夜の女神が空に残した爪痕のような細い月が、銀色の光を纏い浮かんでいた。満ち欠けこそ繰り返すものの、どれ位の歳月が経とうと、その姿は変わらずそこにあった。
 そんな夜空をぼんやりと眺める影が一つ。彼は何をするでもなくそこに佇んでいた。
 彼の姿からは、闇の顎門に身を晒しながら望むように染まる事の出来ない孤独を感じる。そして、彼の纏う白がより一層周囲との隔たりを感じさせた。闇の中にあってはこれほど目立つ色も無いだろうに。
 昼間は生活する人々で賑わうここも、夜になれば音のない場所へと変わる。人々は夢の中にその住処を移し、誰もが優しき微睡の腕に抱かれ暁が微笑むその時までゆっくりと新しい日が昇るのを待つのだ。そしていつも彼一人が現に取り残される。夜の女神から見放され、その手に縋る事を諦めてしまった彼は、どうしてと嘆いたところで何も変わらないと知っているから、もう考える事すらしなくなった。そして何度目か忘れてしまった孤独な夜を、一人まんじりともせず過ごすのだ。その心は、まるで何もない伽藍堂。求める事も委ねる事も酷く億劫で。結局彼は今宵も眠りの気配で満ち溢れた中、取り残された迷子の子供のようにそこに在り続けるのだった。
 耳に触れるのは風の音や木々が揺れる音。そして自然が紡ぐそれに混じるように自らの発する命の音がする。
 ふと己の手の平に視線を落とせば、そこには当たり前のように五本の指が並び、皮膚の表面には独特の線が縦横無尽に走っている。その皮膚の下には赤い血が流れ、それは胸の中央に座する命を奏でる器官へと繋がっているのだという。だが、本当に自分は生きているのだろうか。ふとそんな考えが過ぎる。
 人として、否生あるものとして当たり前の眠りという概念を持っていない自分は、命の循環から外れてしまった自分は、果たして今も『生きている』と言えるのだろうか。
 その口元が僅かに弧を描く、それは普段皆の前で浮かべてるそれより少しだけ感情のこもっているもので。だからだろうか、そこに寂寥の念が見え隠れしているのが良く分かる。
 なんだろう、久しぶりにまともにものを考えたような気がした。いつもと同じ夜なのに、この身はやはり人の理から外れたままなのに、何故今夜はこれ程までに心が騒ぐのだろう。
 考えても答えは見付からず。いや、背後から微かに聞こえた音に合点がいった。一瞬前の人らしさはどこへやら。振り向く彼、ゼフォンの顔には昼間常といっていい程浮かべている、感情のこもっていない笑顔が張り付いていた。

「どうしたの、お姉さん?」

 まさか気付かれているとは思わなかったのか、声をかけられた人物はぎくりと身を竦めて立ち止まり、だが直ぐに足を踏み出した。木の影から現れたのは予想通りの人物、ミュラだった。
 ミュラだと気付いてはいたが、普段から「眠い」を連発する彼女がこんな夜中に起きているのは珍しい。そんな事を思っていると、ミュラは僅かな躊躇いの様子を見せた後意を決して顔を上げる。

「何、やってるんだ。こんな遅くに」
「何って、お月見だよ。今夜の月は綺麗だからねえ」

 ミュラに向けていた視線を再び空へと向ければ、静かな夜に相応しい銀の輝きは地上のあれこれなど知らぬとでも言うようにそこにある。だがそんなゼフォンの態度が気に障ったのか、ミュラは下草を蹴立てるように歩を進めゼフォンの前へと回り込む。そして、ゼフォンの視線が再び己へと降りてきたのを確認し、一度強く首を振ると口を開いた。

「お前、夜全然眠れてないだろう」

 心配そうな眼差しと声音にゼフォンの瞳が一瞬揺らぎ、それを誤魔化すかのように一層口の端を引き上げる。

「何でそんな事言うのかな?今日はたまたま―――」
「違う!あたしが気付いてないとでも思ったのか!?」

 ゼフォンの言葉を途中で遮り、ミュラは泣きそうに顔を歪めた。誤魔化すなと、その眼差しが語っている。ゼフォンはそんなミュラの視線を受け止めながらさてどうしたものかと考えあぐねる。きっと彼女は気付いているのだろう、自分が眠らない事に。だがきっとそれだけ
。その理由も、そこに繋がる真実も彼女は知らない。知らなくて、良い。だから、僅かに擡げた感情はしっかりと己の中にしまい込み、ゼフォンは小首を傾げて見せた。

「そうだねえ、君が知っていたのは予想外だった、かな?」

 はぐらかす様に笑うのはいつもの事。そうすればここでミュラが怒りを露にし、ゼフォンがそれを交わす。何度かその応酬を続けた後ミュラが捨て台詞と共に踵を返し終わり。それがいつもの展開だった。なのに今夜はどうした事だろう。ミュラはゼフォンの飄々とした態度に怒りもせず、それどころか泣きそうに顔を歪めていて。いつもと違うその様子に、ゼフォンの顔から笑顔が消える。

「あ、あたしはお前をちゃんと見てるから、だからお前がそうやっていつも夜一人でいるのも知ってるから、だからっ!」
「ミュラちゃんはストーカーだったのかな?」
「ち、違っ」
「でもボクの事見てたんでしょ?ボクが気付いてないところで。ああ、もしかしてボクがキミ達を裏切るかも知れないって思ってたの?だから監視してたのかな?」

 ミュラが二の句を継げないように畳みかけるゼフォン。案の定、ゼフォンの勝手な推測にミュラは悲しそうに顔を歪め、堪えきれなくなったのか何も言わずに踵を返すと駆け出した。引き止めるでもなく、去り行くミュラの背を言葉もなく見送るゼフォンの眼差しは、微かに揺れている。それは押し止めようとも無意識の内に漏れ出してしまった感情の発露。傷付けたくないと思っているのに、近付こうとする彼女をわざと傷付け突き放さなければならない事への贖罪。この状況を生み出した己の迂闊さに対する怒り。そして、それでも捨てる事が出来ない想い。色々な感情がゼフォンの身の内で暴れまわる。ゼフォンはミュラの駆け去った方角を見つめる視線を引き剥がし、身体を反転させる。俯いた顔は明らかに歪み、今にも泣き出しそうに見えた。ごめん、と音にならない声が漏れる。彼女を傷付けるのは本意ではない。だが、これ以上ミュラの気持ちがこちらに傾くようになっては困るのだ。自分から離れるのは至極簡単な事、だがそれと同時に彼女の気持ちも自分から離れるように仕向けなければ意味は無い。ミュラがああ見えて傷付きやすいのは知っている。でも、それでも傷付け無くてはいけないのは、自分がいずれ消える身だから。もしこの戦いがゼフォンの望む終わりに辿り着かなかったとしても、自分の先にある未来に光はなくて。それを死って尚彼女を巻き込む事なんて出来ない。
 正直、彼女がこちらに踏み込んでくれた事が嬉しくない筈はなくて、歓喜に震える心のまま彼女を手に入れる事だって出来た。だが、それは単なる自己満足。それでは自分の心は満たされず、それ以上に彼女を傷付ける事になるだろう。でも、あれだけ酷い言い方をしたのだから、彼女が進んで自分に会いに来る事はもう無いだろう。一抹の寂しさが過ぎるのを感じながら、ゼフォンは想いを振り切るように天を仰いだ。ゼフォンの視線の先、その心情を表すかのように瞬く無数の星たちの間、小さな星が一つ弧を描いた。
 だが、ゼフォンは一つだけ思い違いをしていて、それは程なく知れる事となる。



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