2






『あの子は君を信じていたのに』

 思考の外から滑り込んできたのはごく静かな、だが明らかに非難の混じった声音。それは昼間、この砦の主である団長が自分に向けて発したもの。向けられた視線には嫌悪こそ無かったものの、困惑の二文字が浮かんでいた。
 団長、ルセルの目には己が善良な一般人―――しかもまだ成人の域を越えていない、守るべき子供―――を無情にも切り捨てたかのように見えていたに違いない。いや、それはルセルだけでなく他の者達も同様で。鋭すぎる神経は、隠しきれない疑心の眼差しを正確に感じ取っていた。だがそれを咎めようとは思わない。あの子供が何者であったかは調べればわかる事だろうが、それをわざわざ説明しなかった自分にもきっと非はあるのだから。

 そうか、男はゆっくりと息を吐いた。あの時の名も知らぬ青年とルセルの言葉が似通っていた為、脳が勝手に昔の記憶を引っ張り出したらしい。無意識とはいえ、随分と昔の事を覚えていたものだ。どうやら昼間の事は、珍しく己の感情を揺さぶるに至ったらしい。どうという事はない、自分が影の存在であった時は、あのような非難は日常茶飯事。いちいち意識する事すらない出来事の筈だ。そして、あの時の自分に『個』は必要無かった。己の感情を乗せない発言が記憶に残らないのも無理はないというもの。
 結局いくら考えてもあの時自分が何を言ったかは思い出せない。きっとあの状況を鑑みれば決していい結果にはなっていないだろう。だが何もかもが今更で、例え時代樹の力を使ってあの時間に戻れたとしても何も変わる事は無いし、そこまで変えたいと思う過去ではない。何故なら、あの時の自分にとってあれはきっと必要な事だったのだから。そしてそれは昼間の件にもいえる事だ。
 ただ、今後この団における自分の立場がどのようになるのかという部分に関しては、少し思うところがあった。それが自分だけであれば追い出されたところで別にどうという事はないのだが、問題は自分の養い児の存在。彼は、自分が砦から去ると言ったら何を置いても着いて来るだろう。それは、彼と行動を共にするようになってからずっと変わらない事で。だが此処には彼の同族がいて、彼を傷付ける者は一人もいない。それに、彼も珍しく今までとは違い警戒を解いているようで。ここが彼にとって住み良い環境なのは目に見えていた。
 彼だけでもここに止める事は出来ないだろうかと考えてみるも、肝心の彼本人が望まなくては意味がない。ならば自分に出来るのは、自らも共に残れるよう策を講じる事だろう。
 場所に執着した覚えのない男にとって、それは途方もない難題のように感じられた。本当は、自分の行動の理由を正直に話してしまえば済むことなのだが。

 結局、男がその結論に至ったのは暫し時間が経過してからだった。世界の真理を追い求める為、知識を貪欲に吸収していた男だったが、社交性という点にその知識は欠片ほども役に立っていないのだった。
 まあ時間がかかったとはいえ、男がそこに辿り着けたのであればその後は簡単。後は日が出てからそれを実行するのみだ。
 思考に一応の決着を見た事で、男は再び書類を拾おうと手を伸ばす、書類が汚れないよう先程とは反対の手を。だが、その指は再び書類を掴む事無く止まる。何故なら部屋の出入り口にあたる扉を隔てた向こう側に、一つの気配が生じたからだ。
 警戒したのは一瞬。すぐにその正体を知り、僅かに固くした身体から力を抜く。それは、自分が今の今まで考えていた人物。

「どうしたのですか?団長」

 その声に、扉の向こうの人物があからさまに動揺しているのを感じる。まさか気付かれているとは思っていなかったのだろう。いつもの彼なら、本気で気配を殺そうと思えば自分でも注意しなければ気付けなかっただろう。だが今のルセルは―――恐らく昼間の事もあり―――気配が漏れ出てしまっている。

「どうぞ、鍵は開いています」

 それが自分への不信感からなのかはまた別の話だと、男は取りあえず声をかける。だがいくら待っても躊躇する気配は感じるのだが、ルセルが扉を開いて入って来る事はなかった。
 暫く待ってみたものの、事態が動く様子は見られない。このまま無為に時間が過ぎるのを待っていても仕方が無いと、レギウスは腰を上げる。ルセルの用件は見当が付いている。昼間の件で何か言い足りない事でもあるのだろう。
 元々こちらから出向く予定だったし、なにより今が何時なのかは分からないが、夜であるのは明らか。ならば団長である彼をいつまでもここに止めておくのは得策ではない。話を手早く終え、少しでも彼を休ませなければ。

「レギウス…あの、昼間はごめん」

 唐突な一言に、扉を開けようと伸ばした手が止まる。レギウスが扉の前にいる事など気付いていないだろうルセルは、返事を待つでもなく再び口を開いた。

「あの後、ちゃんと調べたんだ。そしたら、暗器って言うんだってデューカスが教えてくれたんだけど、それを持ってるのが見付かって。きっと地蟲の一味だろうって…」

 声がどんどん尻すぼみになっていくのを聞きながら、レギウスは珍しくはっきりと表情を変えた。それは怒りとか悲しみとはまた別のもの。どうやら彼の言葉が謝罪であった事に、自分でも不思議な程驚いているらしい。

「僕の勘違いで、レギウスを傷付けたんじゃないかって思って…。こんな夜中にごめん」

 布同士が擦れる音と、続いて響く靴音。それがルセルの駆け去る音だと気付いたのは、その音も気配も完全に消えてしまってから。
 レギウスは目の前の扉を意味も無く見つめながら沈黙していた。その脳内では先程のルセルの言葉が谺のように繰り返されている。
 彼が何を言いたかったのか、それはレギウスにはしっかりと伝わっていた。だが、それをちゃんと理解し受け入れているかというのはまた別の話だ。どうしてか引っかかりを感じる。その意味するところが何なのか、突き詰めようと思考は処理を始める。無意識に持ち上げた右手の指で、自身の顎をなぞる。と、指先に感じる痛み。
 見れば傷は相変わらずそこにあり、乾いた血が色を変えこびり付いている。
 それを見たレギウスの脳裏に閃く一つの答え。それは自分が過去の思考に囚われているという事実。
 ルセルは、この砦に集う仲間達はあの時の者達とは違うという事にやっと気付けたレギウスは、ふっと息を吐いた。闇に紛れてはっきりとは視認出来なかったが、その顔が笑っていたように見えたのはきっと気のせいではないのだろう。