迦具土の制裁






 太陽の支配から解放された夜の女神が空を覆い、その僕達が闊歩する中で、人々は今日もその浸食から逃れるように急ぎ足で夢という名の楽園に向かう。そうして訪れた静寂という彩りを添え、夜は一層の輝きを増すのだった。
 今日という一日を終え、明日を越えたその先にある希望を思い描きながら眠りに落ちる城の中、まるでそんなものは所詮夢幻に過ぎないとでもいうように、煌々と明かりが灯る部屋があった。

 部屋の主は静かに閉まる扉の音と、扉によって隔たれた所為でくぐもった靴音を背中で聞きながら、机の上に視線を落とす。
 置いた者の几帳面さを窺い知る事が出来る程整然と並べられたカードには、全く同じ文様が描かれている。だが、

「火…か…」

 零れ落ちた声が示すように、一枚だけ並びから外れて置かれたカードには『火』の文字が鮮やかに踊っていた。
 思わずといったように男の口元が笑みの形に引き上げられ、その脳裏には数刻前までここにいた妹弟子の姿が浮かぶ。

『シュウ兄さん、これは一体?』

 あの娘は、自らが選び取ったカードに書かれた文字の意味に何か不吉なものを感じたのだろう、不安げにこちらを見上げてこれはなんなのだと何度も聞いてきた。明日の作戦に必要なものだとだけは伝えたが、具体的な事は一つとして教える気は無い。もし伝えてしまえばあの娘の事だ、絶対に反対するだろうし下手をすれば自らその役を買って出そうな気すらする。彼女は自分には無理であった師、マッシュ・シルバーバーグの教えを吸収し、その性質を受け継いでいた。
 だが、はっきり言ってしまえば彼女では役不足なのだ。何故ならこの作戦の最大の目的は、他でもないあの男、レオン・シルバーバーグをおびき出し、あまつさえ追い詰める事。マッシュを鼻にもかけていないあの男を誘き出すのに、その弟子の筆頭である彼女が十分な役割を果たせるとは思えない。レオンにとって目障りなのはアップルでは無く自分。それは自分がマッシュと真逆の思想を持ち、故に破門されてしまった身であるからだ。そして、それはつまり奴と同じ思考をしているという意味にも繋がっていて。認めるのは非常に癪だがだからこそ、あの男の心情が手に取るように分かる。それが果たして良い事なのかどうなのかは別として、明日の作戦に役立っているのはある意味皮肉としか言いようがない。
 あの男なら軍師が自ら危険を冒すのは愚の骨頂だと思っているだろうし、何より地の利は自分達にあるのだから長引けばこちらが焦るであろうと思っているだろう。確かに、軍師は頭脳戦が主であり、自ら武器を手に前線に立つとは考えた事は無かった。だからこそ、それを逆手に取れればあの男の命すら手中に収める事も不可能ではない。あの男は自分の才覚を驕る余り軍師は軍の要と思っている節がある。だからこそ、こちらが少しでも腹を見せれば嬉々としてそこを突きに来るに違いない。
 これがもしマッシュを相手取ってのものならばこうはいかないだろう。例え自らの命が危機に瀕しようとも決して慌てず、何があろうとも心を乱さず一歩引いて物事を見る事の出来るあの人なら。
 己では決して越える事は叶わない、経験では埋められない溝がそこにあった。
 だが、今回の相手は己が師と仰いだかの人では無く、彼とは対極の位置にあるようなあの男。だからこそ、予想もし易いというもの。
 ふと窓の方へと視線を転じれば、外に設置されている篝火が風に煽られゆらりと揺れる。全てを飲み込み浄化する鮮烈な朱を前に、知らず背筋が震えた。
 脳内で明日の手順を再現してみれば、目の前のそれとイメージがぴたりと重なり合う。明日、己が解き放つであろう炎。今の季節はきっと緑で溢れているであろう森の中に落とされた異質な朱は、木々を嘗め上げ草を呑み込み青い空すら歪ませて、全てを蹂躙するのだろう。脳裏で展開されるその光景は、正に壮絶の一言に尽きる。
 その中心に己自身を置いてみれば、対峙する相手の視線さえ感じるような気がする。逆巻く炎を背に相対した時、あの男は何を思うのだろう。内心の焦りなど億尾にも出さず、ただこちらの愚かさを詰るのだろうか。それとも極限の状況に置かれれば、少しは顔色も変わるのだろうか。どちらにせよ、全ては明日分かる事で。前者であれば全く面白くもないが予想通りとし、後者であれば内心嘲笑ってやれば良い。今まで散々辛酸を舐めさせられたのだ、これで少しは溜飲も下がるというもの。
 これが最期と思えばこそ、このような奇策も浮かぶのだろうかと思うと知らず漏れる苦笑。生きる為の策では無い事が、こんなにも思考の幅を広げるというのは初めて知った事で。だが、それも結局一生に一度しか使えないのでは意味がないが。
 明日の作戦で必ずやあの男の隙を突き、そして今まで必死に頑張ってきた彼の望みを叶えてやらなければ。シュウは視線を天井へと投げ、その向こうにいるであろう少年に思いを馳せた。
 自分にとって最初で最後の主、リオウは今頃明日の事を考えながら眠っているのだろうか。それとも…

 不意に聞こえてきた静かで軽やかな音に、シュウの視線が引き寄せられるように扉へと向けられる。次第にはっきりと聞こえてきたそれは、扉の前に差し掛かるなり急に音を潜めた。部屋の主がまだ起きていると気付いたからなのだろうが、そういうところはまだまだ子供で。シュウはこっそりと通り過ぎる姿を想像して渋面を作る。が、それがどこか笑っているように見えたのは、足音の主が他ならぬリオウだからだろうか。
 最終決戦の前夜であるというのに夜更かしとは、そう苦言を呈するのは簡単な事。だが、ここに本拠地を構えた頃の彼ならまだしも、軍主としての心構えを身に着けた今ならば間違っても明日に支障をきたすような真似はしないだろう。
 扉の前を無事通過し、再び軽快に走り出す足音はあっという間に遠ざかって行った。シュウはその足音に耳をそばだてながら、眼差しに憂いを浮かべる。

『ありがとうシュウ』

 昼間、作戦の説明をしていた時ふと向けられた真っ直ぐな眼差しに、思わず視線を逸らしてしまった。どうやら自分にも人並みに罪悪感というものがあったようだ。感謝されるべき人間ではないと知っているだけに、その言葉を素直に受け取る事も出来ない。
 自分がそうなるよう仕向けたとはいえ、彼は余りにも早く大人になってしまった。端から見れば無邪気な少年にしか見えなかったが、その中に拭い去れない闇が広がっているのは今まで傍で見ていたからこそ分かる。
 少年兵として軍に属していた経験はあるといっても、それはあくまでも一時的な、しかも経緯から察するに最初から殺される為だけに存在していた部隊。つまりリオウは戦場というものを知らない守られるべき子供なのだ。
 そしてそんな守られるべき子供を、よりによって軍の旗頭として担ぎ出したのは他ならぬシュウ自身。リオウの持つ紋章と、その養父であるゲンカク老師が要因とはいえ、それをした事でリオウがいかに傷付いたかを知りながらリオウに対する配慮などは一切考えなかった。
 関わるからには勝つ、あの時シュウの脳裏を占めていたのはただそれだけだった。勿論その中には自分を破門した師を見返したいという気持ちがあった事は否めない事実。そして、自分の実力を試してみたいという好奇心。そんな大人のエゴの犠牲になったリオウは、だが驚く程柔軟な思考をした少年だった。




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