まだ見ぬ光、届かぬは闇の僕






 一瞬にして凍りついた空気、非難の色を含んだ視線が背中に突き刺さる。だが男はその表情を一切変えず、寧ろ周りなど初めから視界に入っていないかのように握っていた刀を無造作に払った。すると刀身を染めていた粘着質な赤が、遠心力に耐え切れなくなったのか、既にこと切れた身体の上に散らばる。白い衣装の上、それはまるで花を散らしたかのように。
 何の感慨もわかぬ眼差しをした男は、目にも鮮やかなそれを確認するでもなく身を翻した。すると、それまで射殺さんばかりに向けられていた視線が一斉に背けられ、人々は男と一定の距離を保つように身を引くのだった。どんなに男のした事を許せなくても、自分に火の粉が降り掛かるのは回避したい。彼等の態度はそう語っていた。
 人の本質はどうあっても変わらない。そう箱庭の管理者なら言ったのだろうが、生憎と男はかの人ではなく。そしてそこまで人というものに執着出来る程の、強い想いも持ち合わせてはいなかった。
 人の波が割れた事で出来た道を、男は抜き身のそれを持ったまま進む。別段命の危険を感じたわけでは無かったが―――この中で男に危害を加えられるような実力を持った者はいない―――うっかり刀身を拭うものを持って来なかった、ただそれだけの事。
 人体の構成を熟知している男は、どこをどう刺せば的確に相手の命を奪い一滴の血も流す事も無くそれを為せるか位理解していたが、どうしてか手元が狂った。男は戻りの道を歩みながら、その原因について考える。周りの人間など既に意識の端にも上らない。何故ならそれは男にとって不要なものでしか無かったから。
 だが、男の思考は後ろから響いてきた声により中断を余儀なくされた。
 ひしめき合う人々の群れ。その中から飛び出して来た年若い青年。まだあどけなさの残る顔を、抱く感情を写したかのように盛大に歪め、周りの静止にも耳を貸さず瞳には炎のような怒りを宿し。こちらに欠片も意識を向ける様子のない男の背を睨みつける。そして、

『あいつはあんたを信じてた、なのに何で!!』

 血を吐くような叫びが辺りに響き渡る。
 男はその声に足を止め、ゆっくりと振り返った。視線の先、途端あらぬ方向へと視線を散らす人々とは違い、悔しさと怒りの入り混じった表情の青年がこちらを真っ直ぐに睨んでいて。何の感情も湧かないまま男はその視線を受け止め、そして口を開いた。




 男が瞼を開けた時、そこは先程見た光景とはかけ離れた誰もいない自室であった。自分の状況を確認しようと視線を彷徨わせれば、そこはベッドではなく長椅子の上。しかも腰かけたまま寝入ってしまったようだ。眠っている内に少しずり落ちたようで、不自然な体勢でいたせいか身体が固まっているのを感じる。
 既に日は地平線の彼方に沈んでしまったのだろう。開けられたカーテンの向こうは、黒一色に塗りつぶされている。書き物用のランプがぼんやりと室内を照らしているものの、辛うじて物を判別出来る程度でしかない。だが、男はその訓練された体質から夜目が利く。よって薄闇の支配する中にありながら、室内の様子を日が出ている時と何ら変わりなく認識する事が出来るのだった。

 男の脳裏には、先程までの光景がこびり付いている。それは余りにも鮮明で、暫し今の状況との齟齬に思考が定まらない。だが、それもすぐにまるで初めからそうであったかのようにきっちりと整理されていく。
 視界を塞ぐ髪を掻き上げようと腕を持ち上げる。するとその腕は僅かに痺れを訴えていた。男は痺れを解そうと腕を動かしながら、首をゆっくりと回す。と、軽いものが床にパサパサと落ちる音が聞こえた。音の正体は自分の膝の上に広げていた書類の束。本来ならしない失態に、男は僅かに息を漏らした。紙は上手く床を滑ったのか、手を伸ばしても届かない所に落ちている。
 仕方ないと身体全体を解すように立ち上がり、男は屈み込み落ちた書類を拾い集めて行く。いつも通り、何事も無かったかのように。
 だが最後の一枚に手を伸ばした時、ふと脳裏にあの声が響いた。その所為で、紙に触れる瞬間指が不自然に跳ねる。と、
 ピッ―――
 指に感じた僅かな痛み。眼前へと腕を引き戻せば、指の先に先程までは無かった線が描かれていた。と思えば、その線を辿るように鮮やかな赤が滲んでくる。薄闇の中、それはやけに強く存在を主張しているようだ。
 これは、あの時と同じ赤なのだろうか。何気なく、そんな考えが頭を過ぎる。いつもの思考はそれを詮無い事と切り捨てた。だが何故だろう、今日はやけにあの夢を気にしている自分がいて。男は堪えきれずに零れだした一滴を、感慨もなく見つめる。その瞳にちらつくのは周囲の闇より尚暗く重いそれ。
 かつてこの手で屠った命、それこそ今とは比べ物にならない程多くの。ただ命じられるままに自分の意思は関係なく、相手の置かれている状況も鑑みる事は無かった。それを非人道的と感じる者もいるだろう。だがあの時の自分にとってはあれが『仕事』で、息をするより当たり前の事だったのだ。



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