夢と現の狭間で






 風渡る草原では、青々とした草や色とりどりの花達が楽しそうに揺れていた。花の季節はいつ見ても良いもので、やっと訪れた色付く季節に浮き立つ心は何年経とうと変わる事は無いようだ。いつまで眺めていても飽きるという事がない。
 丘の上にある大樹の根本に腰を下ろし、悪戯な風にその身を存分に晒しながら、オリオンは嬉しそうに口元を綻ばせた。振り注ぐ光は生きとし生けるもの全てにその存在が必要不可欠であることを見せ付けるかのように、全てを明るく照らしていて。それはまるで命の輝きそのものの様にも見えた。
 光と土がなくては、人は生きてはいけないと言ったのは誰だったか、まったくその通りであると改めて感じる。
 存分に景色を堪能したオリオンは、己の傍らへと視線を落とす。そこには穏やかな顔で微酔む乙女の姿が。
 様子を伺うようにその顔を覗き込めば、先程までくっきりと刻まれていた眉間の皺は影も形も無くなっている。オリオンは、それを確かめると心の底から安堵の息を吐いた。

『あ、のね、オリオン』

 思いつめた顔でやって来たアルテミシア。その目の下にはくっきりと隈が出来ており。己の傍らに腰を下ろした彼女は何度も躊躇いながら教えてくれた、夜毎に見る夢のおとないが恐いのだと。
 幸せなのにどうしてこんな夢を見てしまうのかと、堪えきれずに溢れ出した涙を拭う事もせずに。まるでそんな夢を見る自分が罪人であるかのような独白。
 オリオンはそんなアルテミシアの傍らに寄り添い、その涙を拭いながら彼女の血を吐くような叫びを聞いた。そしてその凄惨な夢が、アルテミシアの心にどれ程の傷を残したのかと想像し、胸を痛めた。

 ずっと誰にも言えずにいた事を吐き出したことで少しは落ち着いたのだろうか。話が終わりに近付くにつれ、アルテミシアの声が徐々に途切れ始めた。それが眠りに落ちる前兆だと感じ取ったオリオンはその背を支え、そっと眠りを促がした。夢の所為で碌に眠れていなかったのだろう事は彼女の様子から察しはついていたので、彼女の状態を考えれば少しでも眠った方が良い事は明白。だが、既に意識が落ちかけているにも関わらず、彼女は何とか睡魔を振り払おうと抗う。だからオリオンはその手を握り、眠っている間はずっと傍にいる事、何かアルテミシアに異変が見られた時はちゃんと起こす事を伝えた。すると少しは安心したのか、アルテミシアは何度もオリオンに約束ね、と言いながらやがて完全に瞼を下ろしたのだった。
 オリオンは、アルテミシアが眼を覚まさないよう気を付けながらその身体を柔らかな下草の上に横たえ。そして約束通り、その傍らで彼女を見守っていた。


 オリオンの手を両手で握り、夢から身を守るかのように身体を丸めて眠るアルテミシアの頬にかかる髪をそっと払いながら、オリオンは痛ましげに顔を歪めた。アルテミシアが夜毎苛まれている悪夢は確実に彼女の精神を疲弊させている。一人では眠る事すら儘ならにほどに。アルテミシアから話を聞いただけのオリオンですら思わず眉を顰めてしまった。それがよりによって彼等が殺しあう夢だなどと。


 命を奪い奪われる光景は、それを経験した事の無いアルテミシアに多大なる衝撃を与えた。しかもその場で各々武器を構えて対峙していたのは、大好きな双子の兄、エレフセウスと敬愛して止まない兄、レオンティウス。お互い兄弟だと気付いていないのか、それとも知っていながら敵対する事を選んだのか。どちらなのかはアルテミシアにも分からない。ただ、相手に対して抱く負の感情ははっきりと感じ取れた。
 何故そんな状況に陥ってしまったのか。そして恐らく唯一この場を収める事が出来るであろうもう一人の姿も見付からず。ならば自分がと二人の下に駆け寄ろうとするも、隔てる壁にそれも儘ならない。だがアルテミシアはそれでも諦めるなんて出来ず、せめて彼等に聞こえるようにと必死に声を張り上げる。だがいくらアルテミシアが叫んだところで、二人は全くこちらを見ようとしない。どころか、二人の間に漂う空気は刻一刻とその緊張感を増していく。
 アルテミシアは自分と彼等を隔てる壁を強く叩いた。最初は確かめるように手の平で。次いで拳を握り、どうにか破れないかと何度も。が、そんなアルテミシアの必死な思いを嘲笑うかのように、その透明な隔たりは決して彼女をその内に招き入れようとはしなかった。一切の手ごたえを感じられない――例えるなら垂らした布を叩いているかのように――無駄とも思える行為を、アルテミシアは繰り返す。いつかこの思いが届く事を願って。

 だがそんな彼女の願いも空しく、更なる悲劇はあっさりとその正体を晒す。何が切っ掛けだったのか、唐突に二人の距離が縮まる。
 それはエレフセウスが両手の剣を、レオンティウスが自分の背よりも長い槍を振りかざし、同時に地面を蹴ったのだ。
 そこからは、まるで時間の流れが酷く遅くなったかのように感じた。剣と槍が互いの命を奪う目的で振るわれ、その攻防が一度止んだかと思えばすぐさま同じように繰り返される。アルテミシアは叫んだ、声を限りに何度も、何度も。この叫びが届くのなら声よ枯れよと言わんばかりに。だがそんな彼女の思いは遂に届く事はなく、やがて二人の諍いを止めようと飛び出した母親。そして崩れ落ちる母と兄。一人取り残されたエレフセウスが血に濡れた剣を手に歪んだ笑みを浮かべ、そして…

 もう止めて、と叫んだ声は音にならずに消えてしまった。とめどなく溢れる涙に視界が滲む。目の前で起きた惨劇から目を逸らす事も出来ず、子供のように泣きじゃくった。どうしてこんな事になったのかと、考えても答えは見付からない。あんな冷たい眼をした二人は知らない。いつだって彼等は喧嘩する事はあれど決してその仲は悪くなかった筈なのに。
 アルテミシアはとうとう膝から崩れ落ちた。どうしようもなく震える身体を抱きしめても、いっかな治まる様子はない。目の前で繰り広げられた血の惨劇に、繊細な少女の心が耐え切れなかったのだと、端から見ていたら思うだろう。だが彼女の中に恐怖は欠片もなく、あったのは見ていながら止められなかった不甲斐なさと、何より悲しみであった。
 アルテミシアの声なき声が、二人の兄の名を呼ぶ、何度も何度も。答える者は既にいないと知りながら、それでもそれはいっかな止まる様子は見せない。
 暫くそんな状態が続いていた彼女の唇が、ふと別の名を紡ぐ。それはこの場にいないもう一人の兄、そしていつだって笑ってくれる人の名。それが悲劇を呼ぶ事も知らずに、彼女は彼等に助けを求めるのだった。
 やがて目の前の映像が切り替わる。一瞬前までの光景はどこへやら、あの戦場の風景は室内のそれへと変わり。そこに立つ二人の姿に彼女は僅かに安堵の表情を覗かせる。だがそれも束の間、すぐさまその瞳に絶望の色が浮かぶのだった。


 話すと本当になるような気がして今まで言えなかったのだとアルテミシアは言った。だからオリオンは、ならば自分がそれが決して正夢になどならないのだと証明しようと決意した。そして出来れば、アルテミシアの背負う痛みを半分分けて欲しいと切に願う。それで彼女の負担が減るのなら、これ程喜ばしい事はないと本気で思うのだった。
 その時、眠るアルテミシアに考慮してなのだろう、静かな足音が聞こえ、オリオンは顔を上げた。するとそこには不機嫌そうに眼を眇めるエレフセウスの姿が。何をそんなにと思ってはいけない。彼はアルテミシアの事に関してはいかようにも心が狭くなるのだから。
 エレフセウスは不機嫌丸出しの表情で、それでも余り音を立てないようにオリオン達の方へとやってくると、オリオンの傍ら、アルテミシアが眠るのとは反対側に腰を下ろし、だらしなく足を投げ出して木の根元に背を預けた。何か話したい事があるのだろうと察しはつくが――そして十中八九アルテミシアの事だろうが――話の方向がどちらなのか分からないオリオンは、エレフセウスの顔を覗き込んだ。

「エレフ?」
「ミーシャが何かを悩んでいたのは知っている。俺はそんなミーシャの力になりたいだけなのに、ミーシャはちっとも俺を頼りにしてくれない。いつだって、オリオンの方に行くんだ」

 唐突に口を開いたエレフセウスは、拗ねたように下唇を突き出して憮然とした表情で俯いた。やはり双子だけあって、不安の気持ちが伝播したのだろうと思う。がオリオンはそれより何より彼の様子がまるで幼い子供のように思えて、おかしくて笑いそうになるのを必死に堪えていた。滅多に他人に対して弱味を見せようとしないエレフセウスが、時折己にのみ感情を曝け出すのを知っているだけに何とか咳払いをして誤魔化すも、どうやらエレフセウスにはその意味が分かってしまったようで。

「何だ」

 案の定、険しい眼差しを向けてくるエレフセウスに、オリオンは溜まらずその頭を撫でた。

「あーもう、ほんっとお前は素直だよな」

 突然の暴挙に身を捩って逃げるエレフセウス。アルテミシアに片手を預けたままな事もあり、オリオンは深追いする事無くその手を離した。

「ミーシャがさ…」

 逃げの体制のまま、肩で息をするエレフセウスの背に向けて、ポツリと呟いたオリオンは、エレフセウスがそれを聞きつけ振り向くのを待って再び口を開いた。

「エレフじゃなくて俺のところに来るのは、何もお前を頼りなく思ってるからじゃないよ」

 寧ろその逆だ。エレフセウスがアルテミシアを大切に想っているのを充分に理解していて、己もエレフセウスが大切だと想っているからこそ、言えないのだ。
 アルテミシアは怖がっているのだと、オリオンは気付いていた。双子故の感応で、アルテミシアが見る不吉な夢がエレフセウスに伝わってしまったら。そのせいで、己以上の苦しみをエレフセウスが背負うようになってしまったらと、そう思っているのだ。

「お前はミーシャが大事で、ミーシャもお前が大事で。だからこそ言えない事もあるんじゃないか。特にお前はミーシャの事になると何もかもすっ飛ばすからな。それじゃ、ミーシャだって心配でそうそう悩みなんか相談できるかって」

 事実と虚偽を織り交ぜて、オリオンは慎重に言葉を選ぶ。アルテミシアが話さないと決めた事を間違っても口にする事がないように。エレフセウスが少しでも傷付かないように。

「安心しろよ。ミーシャはエレフやスコルピウス兄やレオンティウスの兄貴の事だってちゃんと大事に思ってるって。俺は所詮他人だからな。だから家族には言えない事だって言いやすいんだと思うぞ」

 ただそれだけの事なのだ。と、オリオンは笑う。自分で言っておきながら胸の奥に生じた微かな痛みを綺麗に無視しながら。
 どうしたって己が敵う相手ではない、それは充分理解していて。だからだろうか、妬ましく思う気持ちは湧いて来ない。アルテミシアを想う気持ちは誰にも負けないという自負がある。でも同時にエレフセウスもまた、想いの形こそ違えど自分にとってかけがえの無い存在だと知っているから。大切な者達が笑ってくれるのなら、己の痛みなどどれ程のものだというのか。
 しかしからりとした態度のオリオンに対し、エレフの機嫌は益々下降したようで。まあどんな状況であれ、誰よりも自分と近しい者が自分以外を頼る事自体が気に入らないのだろうとあたりを付け、仕方ないといったように肩を竦めた。
 昔から妹に関してだけは独占欲を丸出しにしていたエレフセウスだからな、とひとりごちていると、急にエレフセウスが立ち上がった。

 オリオンに背を向けたエレフセウスの背は、明らかに怒気を放っていて。己の感情に気付かれた事が恥ずかしかったのか、僅かにもこちらを見ようとせず、そのまま荒々しい足取りで丘を下って行こうとする。

「おい、エレフ」

 いくら逃げ出したいからといって、アルテミシアをオリオンの元に置いて去るなど彼らしくないと感じたオリオンは、首を傾げながら声を投げた。

「………」

 オリオンの声が届いたのか、エレフセウスの足が止まる。が、そのまま何を言うでもなく立っている彼が何かを言いたがっているように感じたオリオンは、ただ黙ってエレフセウスが口を開くのを待った。

「………だ…」
「は?」

 小鳥のさえずりよりも小さな声は、生憎とオリオンの耳には届かなかった。故に出た疑問符に、エレフセウスの肩が跳ねる。拳を堅く握り締めている様子から、聞き取れなかったことに苛立っているようで。だがしかし、余程聴力に自信がある者だとて聞き取れないだろうと思われるくらいの声量だったのだ。よって普通の聴力しか有していないオリオンが聞こえる筈も無いというものではないだろうか。
 いっかな動こうとも声を上げようともしないエレフセウスに、オリオンが小首を傾げ、その名を呼ぼうと口を開いたその時、エレフセウスが勢い良く振り向いた。その頬は怒りの為か僅かに赤く染まっていて、瞳は鋭利な光を放っている。

「…っ何が他人だ!俺達にとって、お前がそんなに軽い存在だとでも思っているのか!?馬鹿にするのもいい加減にしろ!!」
「……へ?」

 呆けるオリオンを残し、エレフセウスは弾かれたように身を翻すと脇目も振らず駆け出した。一方あっという間に草花の中に紛れてしまったその背を見つめるしか出来なかったオリオンの口からは、間の抜けた音が漏れるだけで。
 結局エレフセウスを追いかける事も出来ずにただ呆然と固まっているオリオンの脳内で、エレフセウスの言葉が繰り返し響いている。つまり、彼が何を言いたかったのかというと…

「あー…」

 深々と溜息を吐き、立てた膝への間に顔を沈める。その頬は、傍目に判るほど朱色に染まっていて。完全なる不意打ちに、冷静な切り替えなど出来ようもなく。ただただ、湧き上がる気恥ずかしさに熱が下がるのを待つしか出来ない。
 ああ、何という事だろう。親に捨てられ、一時はまっとうな人間としての扱いすらされなかった己が、今こうして幸せを感じられる奇跡のような日常を過ごしているなんて。