だが断る!






 このところ遠征続きで疲れていた彼にとって、少し身体を休める時間が出来た事は幸運だった。柔らかな陽光降り注ぐ砦の一角、噴水が吹き上げる水しぶきが光を受けてキラキラと輝く様を眺めながら縁に腰を下ろし石畳に足を投げ出してのんびりしていると、今が戦時下である事を忘れてしまいそうになる。
 勿論何かあればすぐさま戦場に立つ覚悟は持っているし、だからこそ休める時には休むようにと軍師に言われここにいるのだ。部屋で休もうかとも思ったのだが、折角良い天気なのだからと追い出されてしまって。結果的にこれで良かったのだと両腕を伸ばし、深呼吸を一つ。
 目の前の通りでは、楽しそうに駆け回る子供達の姿が。彼等にとって、戦などただ怖いだけのものだろう。でも、こうして今子供達が笑っているのなら、日々の戦いも無駄では無いと思えた。本当は一番安全なようで、その実この団を壊滅させるには格好の標的となるだろうここに子供がいるのは決して良い事とは思えなかったが、彼等のその笑顔を見れる状況は実はとても大事なことで。そのお蔭で、日々戦いに身を投じている自分達がともすれば忘れてしまいそうになる、人間として一番大切な部分を失わずに済んでいるのかも知れない。

 その時、一際強い風が木々を揺らし自分の、そして子供達の服の裾をはためかせた。風に煽られて、子供達が口々に歓声を上げる。そんな様子すら目に楽しくて、ルセルは一層嬉しそうに目を眇める。

「よお、ルセルじゃん」

 不意に肩を叩かれ驚いて顎を上げると、そこには快活に笑うジーノが立っていて。ルセルと視線が合うなり片手を上げた。

「やあ、ジーノ。珍しいね、今は休憩?」

 この頃、フォルネと共に昼夜問わず新しい魔石の研究に没頭しているジーノが食事時でもないのに外にいるのは珍しく、ルセルは素直に驚きを露わにする。

「何だよ人の顔見るなり。俺だって息抜き位するっての」

 ジーノはふて腐れたように唇を尖らせ、ルセルの隣にどかりと腰を下ろした。一見すると不用意な一言で機嫌を損ねてしまったとも取れる態度だが、そんな事でどうこうなる程二人の関係は脆くはないのでルセルは全く慌てた様子もなく、そして実際ジーノの表情はすぐに笑顔に変わる。
 ジーノは先程のルセルと同じように思い切り伸び上がりながら、気持ち良さそうにあくびを一つ。足をだらしなく投げ出して、一瞬にして場の空気に溶け込んでしまう。肘を立て、その上に顎を置き、前方をぼんやりと眺める姿に、僅かにルセルの表情が曇る。

「だいぶ疲れてるみたいだね」
「あー…うん。もう少しだと思うんだけどなー、なんっか足りないんだよ」

 片手でぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜながら、口の中でああだこうだと呟いている。自分の思考に沈んでいるのか、ルセルに対してもどこか生返事で。だがルセルはそんな事は気にも留めていないように、嬉しそうにその様子を眺めている。
 これは、もしかしたらもう二度と見られなかったかも知れない光景で。目の前で息絶えたジーノや、屍となった里人達の姿は、いつまでも脳裏にこびり付いて離れない。だからこそ、今ここにある光景が宝物のように思えるのだ。
 己の幸運を噛み締めるルセルの横でジーノは暫く自分の考えに没頭していたが、不意に何かを思い立ったのか顔を上げた。

「っと、忘れるとこだった」

 勢いよく立ちあがったジーノは、そんな彼に小首を傾げているルセルの様子に気付いているのかいないのか。勢い良く立ち上がるとルセルの目の前に立ち、目を輝かせて口を開いた。

「なあルセル、最近遠征ばっかで疲れてるだろ?」
「え?あ…うん。まあ…」

 ジーノの脈絡の無い質問に戸惑いながらも、ルセルはまあ事実だからと頷いて見せた。すると、ジーノがにんまりと口元を引き上げたので、その様子に嫌な予感しかしなくてルセルは僅かに身を引く。だがジーノにとってはそんなもの何の意思表示にもならなくて、我が意を得たりとばかりにルセルの両肩を掴むと、ずいと顔を血被けた。

「だよなあ、やっぱこう、ゆっくり身体を休めたりしたいよな!」
「いや、だから今日はこうして…」

 ルセルの返答などまるで意に介していないのか、ジーノは一人何度も頷くと。唐突に屈んでいた身を起き上がらせ、妙案を思い付いたとでもいうように、自らの手の平を拳で打つ。

「そういやさ、知ってるかルセル。最近近くに温泉が出来たらしいぞ!」

 その態度に、ジーノははじめからこれが言いたかったのだと気付いたルセルの顔に、生温い笑みを浮かぶ。伊達に幼なじみと言っても差し支えない程の年月を共に過ごしてはいない。

「で?ジーノは行きたいんだ?」

 ルセルの一言に、待ってましたとばかりに頷くジーノ。素直すぎるその態度に、ルセルは呆れの混じった溜息を吐いた。すると、それが気に障ったのか、ジーノは僅かに顔を顰め、次いで思いついた何かに口の端を引き上げた。

「しかもなあルセル。噂だと、その温泉…混浴らしいぞ!」
「なっ!」

 予想だにしない方向からの一言にルセルは言葉につまり、その顔が見る間に赤くなっていく。
 その反応に気を良くしたジーノは、ルセルの肩を軽快に叩く。

「やっぱ何だかんだ言ってもお前だって男だし、混浴だなんて言われたら興味あるだろ!?」
「きょ、興味があるとかそういう問題じゃなくて!」
「じゃあ、どういう問題だって?」
「だからっ、それは…!」

 的確な表現が出て来ず言葉に詰まり俯くルセルに対し、ジーノは意地悪気に笑う。そしてふたたびルセルの隣へと腰を下ろすと、肩に手を置きその顔を覗き込んだ。

「たまには素直になれって。それに別に悪い事じゃないだろ?健康な男子なら当然じゃん。なあ?」

 反論すればするほど墓穴を掘るルセル。それがジーノの思う壺だと気付く余裕は無い。羞恥に染まる顔がやけに熱く感じる。混乱した頭ではこの場を上手く切り抜ける妙案など思いつく筈も無く、そんな状態でジーノにここぞとばかりに捲くし立てられれば、判断力すら鈍ってくるというもので。

「そ、そりゃあ…僕だって…」

 とうとう真っ赤に染まった顔を更に俯かせながら、促がされるまま口を開いた。ジーノがそんなルセルをしたり顔で見ている事など気付く余裕は無く。思考を埋めるのは、ルセルがただ一人想いを寄せる彼女の事。
 男なら当然考えるそれを、ルセルとて考えた事が無い筈はなく。だが、それ以上に今置かれている状況と、何より彼女を大切にしたいと思う気持ちの前で己の欲望を押し通す事など出来ない。自分の想いで彼女を傷付けるなど、きっと自分で自分が許せなくなるから。

「やっぱりお前だって見たい…よ…っ!」
「…まあ、興味が無いとは言えないけど……」

 ジーノの言葉が不自然に途切れた事など、今のルセルに気付く余裕はない。そして気付かなかった己の迂闊さを、すぐに死ぬほど後悔する事となるのだ。

「っちょ…なあ、ルセル…」

 尚も言い募ろうとするルセルを、ジーノがあからさまに遮る。肘で押される感触に話せといったのに何故遮るのかと僅かに顔を顰めて視線を上げ。固まった。

 先程まで遊んでいた筈の子供達の姿はどこにも無く。代わりに立っていたのは、ミュラやイリア、そして…

「リュ、セ…リ…!?」
「っ最低ね!」

 咄嗟に伸ばした手は空を切り、彼女は羞恥に染まった顔に怒気を滲ませ、一言吐き捨てると身を翻して駆け去ってしまった。余りにも突然の出来事に、これ以上無いほど目を見開いたまま固まってしまい、ただ小さくなっていくその後姿を見送るしか出来ない。酷く混乱した状態では、追いかけるという考えも弁解する余裕も無くて。数瞬前まで赤く染まっていた顔からは完全に血の気が引いており、眩暈すらする始末。
 がっくりとうな垂れたルセルを前に流石のジーノも拙いと思ったのか。腰を上げてルセルの前に回り込むと、何とかこの場を誤魔化す術は無いものかと意味も無く両手を振る。

「ルセル。あ、あのさあ…」
「うん、分かってる。何もジーノ一人が悪いわけじゃないよね…」
「そ、そうだよな!」
「なあんて、言うと思った?」

 一瞬前の落ち込みようはどこへやら、顔を上げたルセルは満面の笑みを浮かべていて。だがその瞳が欠片も笑っていないのは、幸か不幸かはっきりと感じ取れてしまった。滲むように漏れ出しているルセルの周りに揺らめく怒気が見えるようで、ジーノの喉がごくりと鳴る。
 ああ、こんなところはシグニイさんにそっくりだな、などと場違いな事を考えてしまったのは感慨ではなく明らかな現実逃避で。その証拠に、少しでもルセルとの距離を取ろうと身体が無意識に後退を始めていた。
 唐突に、ルセルが音も無く立ち上がる。張り付いた笑顔はそのまま、だが感じる空気が冷え冷えとしていて、ジーノは背筋を冷たいものが流れるのを感じた。

「僕にもね、反省すべき点はあると思うんだ」
「だ、だろ!?」
「あるとは思うんだけどね、ジーノ」
「お、おう…」

 不意にルセルが纏う空気を和らげ、ジーノがつられるように気を抜いた、その一瞬。

「取りあえず、この怒りをどこかにぶつけないと、それも出来ない気がするよ!!」

 言うが早いか、目にも止まらぬ速さで抜き放たれた剣が日の光に照らされ凶暴な光を放っている。だが、視線の先にいた標的はルセルが腰に佩いた剣に手をかけた時点で脱兎の如く駆け出していて。
 普段の温厚な彼からは想像できない柄の悪い舌打ちを一つ。遠ざかる背中を睨みつけると、剣を構えた。

「蒼閃流二之型・波!!」
「っっっっぎゃああああぁぁぁぁぁぁ!!!!」

 裂帛の気合と共に振り下ろされた剣から迸る衝撃波が容赦なくジーノに襲い掛かる。が、流石は逃げ足には定評のあるジーノ。間一髪避けたものの、ルセルの本気に絶叫が響き渡る。

「逃げるなジーノ!!」

 抜き身の剣を手に、ルセルはジーノの背を追って駆け出した。

「ちょっ、おおおお落ち着けって!」
「僕はこの上も無く落ち着いてるよっ!!」

 再び放たれたそれも何とか避け、ジーノは再び悲鳴を上げる。
 逃げるジーノと追うルセル。今のところ両者共に然程の差は見られない。だがジーノとルセルでは根本的な体力に差が有り過ぎて。捕まるのは時間の問題だった。

「あらあら、止めなくて良いんですか?」

 たまたま現場に居合わせたイリアは、頬に手をあて小首を傾げる。このままじゃ、ジーノが大変な事になっちゃいますよ?と、隣にいるミュラに問いかけるも、おっとりと笑う顔には危機感の欠片も無く。イリア自身、止める気は無いようで。
 そんなイリアに、ミュラはただ面倒くさそうに肩を竦めた。

「どう考えても、悪いのはあの馬鹿弟の方だろ。しかもよりによって怒らせたら一番厄介な奴を怒らせたんだから、自分で何とかするべきだろ」

 本気で怒る事は滅多にない分、怒ったルセルは容赦が無くなる。触らない方が無難というもので。ただ理性までは飛ばしていないだろうから、本当に拙い事態にはならないだろうと確信している。
 ミュラはそう結論付けて、彼等の事は意識の外に放り出した。
 見上げた先には青い空が、何事も無くそこにあった。