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 ジーノは、これ以上奪われてなるものかと、一人100年目の怪物の前に立ち塞がる。どうしようもなく足が震えて、恐怖故だろう。自然と溢れ出る涙を拭う余裕もない。だが絶対通してなるものかという気迫だけは十分に、敵を睨みつける。戦闘能力的には自警団員に遠く及ばない。拳法も基礎しか学んでいないのだから、その力もたかが知れている。それでも、自分がここで踏ん張る事で一秒でも良いから時間を稼ぎ、里人を一人でも救いたい。誰に命令されるでもなく、己の中に沸いた想いのまま、ジーノはここに立っていた。
 だがそんなジーノの想いも、100年目の怪物にとっては歩みを止める一因にもならず。振り上げられた腕を何とか躱せば、別の腕が容赦なく襲いかかってくる。夥しい数の化け物を前に、ジーノの応戦も長くは保たなかった。
 防御が間に合わず吹き飛ばされた身体が、里を囲む塀に叩き付けられた。その衝撃に一瞬息が詰まり、次いで咳き込むと嫌な音と共に真紅の塊がせり上がってきて、胸元を赤く染める。ぼやける視界に映る赤に、ああ内臓がやられたかとどこか他人事のように思った。諦めたくなどないのに、動かそうとしても腕も足も既に感覚を失っているのか本当にあるのかどうか、それすら曖昧で。
 唐突に己の死を確信する。端から見れば今更と言われそうな程ボロボロの様相だったが、この瞬間まで己の生を諦める気など毛頭なかったのに。
 最後の障害が無くなって、悠々と里への侵入を果たす怪物の姿を視界に捉えているのに、だが僅かにも動いてくれない身体にそれを止める術はない。
 ジーノの唇が僅かに震える。風前の灯火となった己の命を前に、その胸中には悔しさが渦巻いていた。だがそれは、魔石職人として更なる高みを目指そうとする志が半ばで潰える事ではなく、里を守れない己の無力を、そして何より救援を連れてくると約束したのに、それを果たせず終わってしまう事が悔やまれてならなかった。こうしている間にも、里の中を我が物顔で歩き回る怪物たちは人を、物を好きなように蹂躙しているだろうし、ここら離れた森の中で二人が危機に瀕しているかも知れないのに。
 今すぐ駆けつけたいと思う気持ちは強いのに、それに反して瞼が重くなっていく。ごめんな、と呟いた声は音にはならず。次の瞬間、その頭が重力に従ってかくりと落ちた。


 ふと、聞き覚えのある声がした気がして、ジーノの意識が引き戻される。動かすのが酷く億劫ながら、何とか頭を持ち上げると里の入り口に二人の姿が。
 ああ無事だったんだと喜びが湧き上がるも、相変わらず身体は動かない。せめて今の状況を伝えなければと、最後の気力を振り絞って声を上げる。それは酷く掠れていて、平時なら聞き取る事も出来なかっただろうが、幸か不幸か今の里に声を発する者は、発せられる者はいない。予想通り、二人はその声を聞きつけて、声を上げた。
 紗がかかったようにぼやける視界に映りこむ二人に大きな怪我は見られなくて、良かったと笑う。力ないそれに二人が言葉に詰まる。
 肩に触れたルセルの手も、頬に添えられたミュラの手も、暖かくて。不覚にも涙が零れそうになる。だが残された時間は余りにも短くて、少しでも無駄には出来ないからと、短く息を吐く事でそれをやり過ごした。
 ミュラの声がこれ以上ない程に震えていて、ルセルの声も重く沈んでいるのが分かる。自分がどんなに悲惨な状態を晒しているかの自覚がある故に、体裁を取り繕う事が出来なくて申し訳ないと思うのだが、もしかしたらまだ敵が残っている可能性があると考えればそうのんびりもしていられない。
 出来るだけ簡潔に、今の状況を説明しているとミュラに言葉を遮られるが、それを無視して話し続ける。自分の時間が既に無い事は分かり切っているので、意識のある内に伝えなければならないのだ。
 今にも泣きそうなミュラを見、次いで痛ましげに表情を曇らせるルセルへと視線を向ける。
 口も態度も悪い、無茶ばっかり言っていつも自分を困らせてばかりいる姉だけど、大事な家族なんだ。誰よりも守りたい存在だから、誰よりも信頼しているルセルになら託せる。女らしさの欠片も無いくせに以外と泣き虫で、ルセルを困らせる事もあると思うけど、守ってやって欲しいんだ。

『なあ、ルセル…姉貴の事、頼…む…』

 身体から完全に力が抜け、その灯が完全に掻き消える。ミュラの悲痛な泣き声が、音の消えた里の中に一際大きく響く。泣き叫ぶミュラの姿も、必死に痛みを耐えるルセルの姿も、ジーノは知っていて。何故なら、ジーノはその情景を上から見下ろしていたから。勿論、自分が死んだのだという事はしっかりと自覚していた。何故なら死ぬのは初めてではないから…。
 視線の先にある光景は、まるで良く出来た記録映像を見せられているようで。自分がそこに関わっている事に、酷く違和感を覚える。と、

 唐突にその視界が、世界が回り始める。その現象は、やがて自身をも巻き込んで一所に集約を始めた。それはまるで砂時計のくびれ部分に集まる砂のようで。抵抗したところで無駄なのは、これも何度か経験している事だから知っている。まあ抵抗しようにも、周りの情景と自分が混ざり合っているように全ての境界が曖昧になってしまう時点で術など見出せる筈も無く。
 そして、時間の流れが急速に逆流を始める。ジーノの視界を横切るのは、自身の体験した流れが戻っていくような光景。それはミュラの涙から始まり、丁度ジーノが村に到達した地点で終わる。
 自分の死に様や仲間達の死などそう何度も見たい光景ではなかったが、それはジーノの心中など察する事もなく強制的に始まり終わる。気付けばジーノは里の入り口に立っていて。全力で走った反動で息は乱れ、足は疲労を訴えていて。荒い息が収まる前に頭領の家を目指して走り出し、扉に手をかける。そして、そして―――








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