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 不意に襲ったざわりと肌が沸き立つ感覚に、慌てて森の方へと視線を切り替える。硝子越しに見えたのは、やはりいつも通りの緑が…。否、木々の間にざわめくものがある。それは不規則に揺れながら次第に大きくなっていく。ジーノはそれは何かがこちらに近付いているのだと気付き、それが何かを悟った。
 里にあれらが来るという事は…

 脳裏を過ぎる最悪の想像に、盛大に顔を顰めてくだらないと吐き捨てる。一瞬でもルセル達がやられたと考えるなど、我ながら極端に走ったものだと。そんな事は万に一つもあり得ない。きっと二人では対処し切れない数の100年目の怪物が現れただけなのだと。それが二人の眼を掻い潜ってこちらに来ただけなのだと、思考を切り替える。
 第一に考えなければならないのは里への被害をどう食い止めるかで。里への侵入を防いで、頭領達が戻るか100年目の怪物共が諦めるかすれば、こちらの勝ちだ。
 幸いにも、距離から見て化け物たちが里に到達するまではまだ多少の猶予がある。ほとんど作業を終えているように見える防柵の方はどうやら間に合いそうだ。

 ジーノは身を乗り出すと、下で作業中の面々に向かって声を張り上げた。
 一瞬にして、彼等の表情に緊張が走る。作業員の殆どが自警団という事もあり、里人達は内側の作業に切り替えるべく中へと戻り、外側の補強は武装をした自警団の面々が行う。防柵の手前で全て食い止めるのが理想だが、彼等が突破されないとも限らない。対百年目の怪物を想定しての訓練は欠かさず行っていたが、何せ初めて相対するのだ、緊張するのも当然というもので。
 ジーノの立つ見張り台の上にも、弓矢を携えた面々が足音高く駆け上がってくる。弓と矢筒がぶつかり合う音がやけに五月蝿くて、それだけ慌てているのだと分かる。それを見て取ったジーノは、彼等の邪魔にならないようにと見張り台を後にした。

 下に降りたジーノは暫しの逡巡の後、里の中心ではなく門の内側。丁度防柵の脇に位置する部分に陣取った。自分が武芸に秀でていないのは承知の上で、だが学んだのは少しの間といえ、他の里人よりその心得があるのは事実。自警団の面々を信用しているし信頼もしている。だからこそ、ここで彼等の助力が出来ればと思った。
 ここならば村の外には出ていないし、咎められる事もないだろう。万が一の場合は、影に身を隠していればこの混乱の中自分に気付く者はいないだろうと。
 ジーノの予想通り、彼等の妨げにならない位置にいた事が幸いし、脇をすり抜けて行く者達から声はかからなかった。否、それだけ彼等にも余裕がないという事かも知れない。誰一人として無駄話をする者はいない。彼等の瞳に宿る決意の色に、ジーノは知らず息をのんだ。
 脳裏に蘇ってくるのは、先程別れた二人の眼差し。大丈夫、きっと無事でいる筈だ。ここを守り切ったらすぐにでも応援に、否既に別経路で誰かが向かっているのかも知れないから、二人が帰って来るまでに事態の収拾を図らなければ。そう自分に言い聞かせて、ジーノは顔を上げ前方を睨んだ。と、見張り台の方から聞こえた声に、強く拳を握った。
 来る―――

 結果として、彼等は敵の力を過小評価していた事になるのか。だが過去の記録がない以上、全ては手探りでしかなく。それは誰の咎でもない。そして、今それを論じる余裕は誰にも無かった。
 痛みを感じている様子はあるのに、百年目の怪物はどんな攻撃にも怯む事無く向かって来た。自警団の振るう剣は急所を的確に狙い、上から放たれる矢は雨となって降り注ぐ。だが、怒りの咆哮を上げる怪物共の更には倒れたそばから新たな怪物がまるで沸いて出ているかのように現れ、一向に数が減る様子はない。
 剣を構え、油断無く100年目の怪物との距離を測っている自警団の一人が、不意にポツリと呟いた。化け物、と。
 囁くような呟きがやけにはっきり聞こえた気がして。ジーノはその自警団員を見、次いで今正に彼が相対している敵へと眼を向けた。
 そう、奴等は100年に一度どこからとも無く現れて、衝動のままに世界を蹂躙していく得体の知れない化け物。それが自分達が相対している敵なのだ。
 皆がいれば何とかなると思っていたのがそもそも甘かったという事か?だがだったらどうすれば良かったのか…

 目の前が真っ赤に染まり、ジーノは悔しさに唇を噛んだ。皆がいれば大丈夫だと思っていた、その考え自体が甘かったのだろうか。だが、得体の知れない脅威に対して里の皆が知恵を出し合い、出来うる限りの術を講じてきたのは紛れもない事実。それ以上に何をすれば良いのかなど、分かる筈がないではないか。
 一際高く上がる叫び声に、弾かれたように顔を上げれば、目の前に転がるのは数瞬前まで生きていた筈の仲間の死体。それを目の当たりにしたジーノの身体が小刻みに震える。内から込み上げるのは怒りか、それとも悲しみか。整理しきれない感情の渦に飲み込まれそうになりながら、叫び出したいのを必死に堪えた。次々と上がる仲間の断末魔に、気が狂いそうになる。
 今すぐ止めろと叫んでも、話が通じる相手でもなければ、たとえ通じたとしても敵として相対している以上、容赦などしないだろう。
 ジーノの悲痛な思いも空しく、次々と屠られていく仲間達。数刻としない内に、防柵の外にいた自警団員の中に動ける者は、誰一人としていなくなっていた。
 それを理解する前に、けたたましい音と共に防柵が揺れ始める。防柵の向こうに新たな獲物がいると悟った100年目の怪物共が、嬉々として防柵を取り壊さんと一斉に群がり始めたのだ。
 いくら急ごしらえとはいえ、入念な下準備の元組まれた防柵はそれなりの強度を保っている筈なのだが、化け物共の手にかかれば下手な玩具よりも脆いようで。数刻と経たぬ内、防柵は脆くも崩れ去り。破壊され尽くした残骸のみが無残な姿を晒していた。








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