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 肉の焼ける匂いに、ローランサンの口元が思わずと言ったように綻んだ。
 いつもより実入りが良かった事もあり、久しぶりに豪勢な食事をしたいと騒いだのはローランサン。いつもなら無駄遣いだと眉を顰めるイヴェールも、今回ばかりは反応が違った。いつもとは桁違いだった事で、イヴェールもそれなりに高揚していたのかもしれない。
 本当なら、どこか店にでも入って祝杯を挙げたいところだが、堅苦しい店は性にあわないと言い出したローランサンの提案で、いつもより上等な食材を購入し、イヴェールが調理するということで話が纏まった。
 肉料理と騒ぐローランサンに呆れた眼差しを向けながら、そういえば最後にまともな肉料理を食べたのはいつだろうと思いを巡らせてみれば、それはかなり前の事で。ローランサンの希望も最もかも知れないと、胸の内でそっと考えた。

「出来たぞ」

 料理が出来るのが待ち遠しいのか、まるで犬の様に周りをうろちょろするローランサンを一喝し別室に追い出していたイヴェールが、盛り付けをしながら隣の部屋に聞こえるように声を張れば待ってましたとばかりにやって来たローランサンは、いつもは渋る食器類の用意も率先してやり始める。
 そんなローランサンに胡乱気な眼差しを向けたのは一瞬、すぐにイヴェールは手元の作業へと戻った。

「ほら」
「おっしゃ!いっただきー…って。おい、何だよこれ」

 既に着席していたローランサンの前に皿を置き、その前に腰掛けながらいつものようにナプキンを付け、ナイフとフォークを握る。
 その間にも、ローランサンは素早くナプキンを付け軽く手を合わせたかと思えば、待ちに待ったステーキへとナイフを滑らせた。すると、手に伝わってくる感触が何かおかしい。首を傾げ、行儀悪く断面を覗き込めば、まだ血の滴る最早レアというより完全な生であった。焼き過ぎて硬くなってしまった肉もごめんだったが、これはやり過ぎというものではないか。

「何って、お前がリクエストしたんじゃないか」

 思わず出た素っ頓狂な声に、しかしイヴェールは実に淡白な反応で。もしやこれは嫌がらせの一種だろうかと考えたのは一瞬。普段、食べ物を粗末にするなと言っているイヴェールがこんな事をするのもおかしいと顔を上げれば、イヴェールはこちらを見てすらいなかった。

「おい、イヴェール?」

 恐る恐る声をかけてみるも、イヴェールの視線は目の前のステーキに注がれていて、いっかな反応する様子は無い。殆ど火が通っていないステーキにフォークを突き刺し、ナイフを一心不乱に動かしている。余程の力が加わっているのか、肉を通り過ぎ皿に到達したナイフが嫌な音を立てている。それでもナイフを動かし続けていた。
 いくらなんでもおかしいと、ローランサンは立ち上がると、伸び上がってイヴェールの肩を掴み、揺すぶる。

「おい、どうした。なあ」

 何度目かの呼びかけに漸くナイフを止め、顔を上げるイヴェール。ローランサンがほっとしたのも束の間、ぞくりと怖気が走る。
 イヴェールの瞳には何も映ってはいなかった。がらんどうの眼差しはまるでただの濁った硝子球が嵌っているだけだった。その視線はローランサンを見ておらず、そこにありながらまるで存在を感じる事ができない。
 ローランサンは、思わず肩に置いた手を振り抜き、イヴェールの頬を打った。
 ローランサンが固唾を呑んで見守る中、打たれるままに逸れた顔が、暫しの沈黙の後、再び元の位置へと戻される。

「いきなり何をするんだ」

 盛大に顔を顰めたイヴェールの不機嫌そうな声色に、ローランサンはつめていた息を吐いた。どうやら、上手く彼の意識を引き戻す事に成功したようだ。
 咄嗟の事で手加減など出来なかったにも関わらず、それほど酷く叩かずに済んだようで、だがそんな事は関係ないとばかりに突然のローランサンによる暴挙に腹を立てて小言を始めたイヴェールの、余りにいつも通りの様子にローランサンはそっと胸を撫で下ろした。


 まだ朝靄の漂う中、賑わう市場にローランサンの姿はあった。店先に並ぶ品々を物色しながら、目当てのものを捜す。
 最近のイヴェールは明らかに変だった。ぼんやりしている時間が日増しに多くなり、気付けば空虚な眼差しでどこかを見つめている。流石のローランサンもそんなイヴェールの様子を心配し、無理矢理医者に連れて行ったりもしたのだが、どこにも異常は見られないとあっさり言われてしまい。ならばと大家の老婦人に相談すれば、疲れているのではないのかと言われ、身体に良い料理を教えてもらった。その材料を集めに、市場へやって来たというわけだ。


 家に戻ったローランサンは、薄暗いダイニングに人影を認めて思わず声を上げそうになったが、それがイヴェールだと判明した途端、安堵の息を吐いた。

「ったく、驚かせんなっての…」

 常より随分と早い時間に起き出していたイヴェールに珍しい事もあるものだとは思ったものの、起こす手間が省けて助かったと思い直したローランサンは、いつものようにテーブルに着いたイヴェールの前に水で満たしたコップを置く。
 何も言わず沈黙を貫くイヴェールに、まあいつもの事だと気にも留めず、ローランサンは朝食の準備に取り掛かかるべくそんなイヴェールに背を向けた。
 水の流れる音と、食器のこすれあう音。何の事はない、朝の風景。ローランサンは、手馴れた手つきでフライパンに卵を割り入れた。フライパンに落ちた卵が食欲をそそる音を奏でるのに思わず口元を緩めながら、鼻歌交じりに蓋をする。
 折角新鮮な野菜が手に入ったのだから、サラダでも作ろうか。そんな事を考えながら作業をしていたせいだろう、パンの入ったバスケットに手を伸ばした拍子に肘が触れ、包丁がまな板の上から滑り落ちた。

「っと!」

 考えるよりも先に咄嗟に右足を引くと、正にその位置に包丁が落下し、派手な音を立てる。

「…あっぶねー」

 難を逃れた右足の甲に視線を投げ、ローランサンは安堵の息を吐いた。あと少し反応が遅れれば、朝から流血沙汰になるところだった。前回の仕事の報酬はまだ残っていたので当分生活には困らないとはいえ、望んで不自由な生活を送りたいわけではない。

 背後に気配を感じ、ローランサンはイヴェールがすぐ傍まで来ている事を知る。いつの間に、と思わないでもなかったが、元々気配の薄いイヴェールの事だ。別段不審にも思わない。
 ローランサンは、イヴェールの行動の理由に中りをつけ、背を向けたままひょいと肩を竦める。

「朝っぱらから説教なんて聞かねえぞ。大体、お前が朝ちゃんと目ぇ冷めてさえいたら、俺だってこんなしち面倒くさいことしなくて済むんだ。多少は大目に見ろよ。寝ぼけたお前に刃物なんか持たせたら、危なくてしょうがねえからな。ほら、良いから…」

 座ってろ。そう言いかけた声は、ドンッ!という衝撃に遮られ中途半端に途切れる。どうやら首元に何かがぶつかったようだ。ローランサンはその正体を探るべく右手を首へと宛がう。と、

「…え?」

 指先が触れたのは、生温い何か。ぬるりとした感触は決して心地良いものではなく。引き戻した右手に視線を向ければ、手の平を染める深紅の液体。それはまごう事なき己の…
 刃物を突き立てられたという状況を理解すると同時に、灼熱の塊を押し当てられたような凄まじい痛みが全身を駆け巡った。
 床に転がってのた打ち回りたいのを何とか堪え、未だに勢い良く噴き出している血を止めようと、咄嗟に手を宛がう。だが、そんな行為は焼け石に水とばかりにだくだくと流れ続ける血。これはマズい、そう思っても後の祭り。急速に失われていく膨大な血のせいで、既に意識が朦朧としてきた。最後の力を振り絞り、このような事態を招いた張本人へと向き直る。

 ローランサンの真後ろに立っていたイヴェールは、力なく垂れた右手に凶器である包丁を握り、ローランサンの血で全身を染め上げながらそこにあった。
 茫洋とした眼差しでローランサンを見返している。その意識がここにない事は一目で見て取れた。
 だが、頬にかかる生暖かい感触が、イヴェールの意識を急速に引き戻し、同時に目の前の現実を突き付けた。

 ローランサンと、意識を取り戻したイヴェールの視線が交差する。片や呆然と、片や驚愕と混乱の入り混じった眼差しでお互いを認識していた。

「「何…で………」」

 異なる口から同じ音が漏れる。込められた意味に差異はあるが、最早それを論議する時間は残されていないようだ。
 同時にローランサンの瞳から急速に光が失われ、その身体は力尽きたように崩れ落ちた。血溜まりの中に沈んだ身体。僅かにも動かないローランサンが、既に生きてはいないだろう事は誰の目にも明らかだ。

 イヴェールは己の引き起こした事実が信じられないのか、呆然と最早唯の肉の塊と成り果てた、ローランサンだったものを見下ろしていた。
 信じられない、信じたくない。揺れる眼差しが雄弁にその心情を物語っていた。視界に入った己の右手、その中におさまっている包丁が自分が何をしたのかをまざまざと見せ付ける。そう、殺したのだ。幼馴染で、相棒で、親友だった彼を。己の行動原理など判りようもないし、判りたくも無い。

「…う、あ……」

 不明瞭な声を上げながら、彷徨うように持ち上げられた右手が己の前髪を掻き上げた。僅かに乾きかけの血が常とは違う固い感触を齎したが、そんなことは意識の端にも上らず。イヴェールの思考は、今正に目の前で起こった事実を認識するので手一杯だった。
 反対の手が口元を覆う。手に触れた頬に付くぬちゃりとした感触と、今更ながら感じる濃い鉄錆の臭いに込み上げて来るものを感じながら。
 泣き叫びたい感情と己に対する怒り。そしてその先にあるのは、ほの暗い喜び。相反する感情に、しかしイヴェールは気付かない。ローランサンが死んでしまった悲しみと、手を下した自分への怒り。そして、肉を切り裂き、血に塗れた事で湧き上がる喜び。底に堕ちていくような、感覚。

「会いたかったわ、愛しい子≪イヴェール≫」

 血よりもなお濃い深紅が視界を覆う。耳元に落された女の艶めいた囁きに、イヴェールは嗤った。






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