内に抱く覚悟






 それは幾度目かの夢の中、飽きずに繰り返される心を抉るような光景。惨たらしい場に立つ己に、ほの暗い喜びを抱えた心中に浮かんだ言葉はまたか、の一言。
 掲げられた愛用のクシポスと、それを握る手を染める血は鮮烈な赤。数瞬前まで確かに生きた証として人の体内を巡っていたであろう粘度を持ったそれは、どこか現実味のないまま視界に広がっている。
 剣の持ち主である男は、それが何かの証でもあるかのように恍惚とした表情でそれを見ている。
 そんな男の犠牲となった巫女は、まだ子供の域を出ていないであろう無垢な乙女。唐突に刈り取られた身体はまるで時が止まったかのように、その場に留まっていた。
 かと思えば華奢なその身体がぐらりと傾ぎ、水中へと誘う手に引き寄せられるように盛大な水飛沫と共に泉へと没する。その様を見つめる男の眼差しは冷たく、一切の温度を持たない。そして、そんな男の背後には全てを覆い尽くすような黒が揺らぐ。言葉こそないものの満足気に嗤うその姿に、男の中からただ見ることしか出来ずにいる男と同一の存在である彼は、忌々しげに舌を打つ。反発できることに安堵を抱きながら、いつもより深い闇に不安が過ぎる。恐らくそこが付け入る隙だったのかも知れない。
 狂気にも似た歓喜、それはいといけな少女の命を奪ったことによるものか。それとも、渇望して止まない未来への足がかりを得たことか。そんなものは望んでいないと抵抗するも、真っ黒な喜びはそれを否定する心さえも侵食し飲み込もうとしている。己の中の衝動に突き動かされるままの行動は、故に男の中の何かを酷く刺激した。
 熟しきった果実のように重く甘い誘惑に、込み上げる笑いを堪えるのはとてつもない労力を有することで。特に男と半ば同化している今の状況では、抗おうとする意思よりも、飲み込もうとする闇の方が強いのは道理であろう。
 欠片も望んでいない状況なのに、まるで最初からこうしたかったのだというように心が勝手に騒ぎ出す。
 ああ、漸くこれで。嬉しい、あの忌々しい雷神の化身を廃し、私が世界の王になるのだ。全てを壊し、蹂躙尽くせば誰も文句など言わない。否、言うものなど初めから存在しなければいい。そうだ、何を迷うことがある。裏切るものなど消してしまえ。世界をそこに生きるもの全てを生贄に、ただ一人の王になるのだ。そして、そして……

 スコルピウスの脳裏に、人々の恐怖と絶望に染まる様が浮かぶ。希望など欠片も抱かせてなどやらない。嘆き悲しみながら倒れ付す人々が、すぐそこにいるような錯覚を覚えた。ああ心地良い、口元に弑逆的な笑みが浮かぶ。
 嘗て、次代の王と持ち上げておきながらレオンティウスの存在にあっさりと手の平を返した者達が、何も成せぬまま無様に転がっている。自分を廃そうとした者達の最期に、込み上げる笑みを抑える術などないのは当然で。
 優越に顔を歪ませたまま、更なる喜びを求めて周囲を見回した時だった。不意に飛び込んできたものに視線が引き寄せられる。
 そこにあったのは、無数に転がるものと何ら変わりないもの。ただ珍しいことに、それは揃いの二つだった。
 彼等の頬を濡らす涙は、潰えた命をして尚枯れることなく湧き続けている。絶望に歪んだ顔に生気はなく、見開かれた瞳は濁りきった硝子玉のようで、そこに僅かな光も見出すことは叶わない。力なく投げ出された肢体は、小さく頼りない幼子のもの。他の情景から切り取られたかのように浮かび上がるのは、見覚えのある二人の子供。いつも一緒にいた二人はこんな時でも共にあるのかと、どこか他人事のような思考が過ぎる。こちらに向かって伸ばされた二つの手は、何を掴もうとしていたのだろうか。
 考えたところで仕方がないと視線を逸らそうとするも、何故か引き剥がすことが出来ないまま、気付けば足を踏み出していた。
 ゆっくりと近付いてくる器のみとなったそれに、どうして触れたいと思ったのだろう。地面を染める赤は未だ乾いた様子はなく、触れられる距離まで近付けば、確実にその足元を濡らすだろう。だが、それを厭う気持ちは不思議と湧かず、その傍らに躊躇うこともなく膝を付いて手を伸ばした。
 生きた人ではありえない冷たさに止まったのは一瞬、小さな手を包み込むように握れば、既に固くなった手に二人に拒絶されたような気がして。
 何故、と動いた唇に驚いたのは自分自身。自分ではない自分がそんなことは気にする必要はないと言う。だが、それもそうだと思うのにどうしてもその想いを切り捨てることが出来ない。
 この子供達は何だったろうかと、勝手に記憶が遡り、程なくして零れる二つの名。

「エ、レフ、ミー…シャ……っ!」

 違う!求めているのは、この手に掴み取りたいのは、こんなものではない!
 脳裏を占める血を吐くような自身の叫びに、咄嗟に離した小さな手が地面に落ちる。いけないと思いもう一度伸ばした指先が二つの手に触れた瞬間、唐突に響く大切な子供達が自分を呼ぶ、声。
 身の内を襲う衝撃に、音の鳴るほどに噛み締められた唇。ぬるりとした感触に噛み切ってしまったことを知るも、それにかかずらっている余裕はない。
 すると、いきなり身体の主導権を取り戻したかのように感覚が戻ってくる。と同時に、景色が戻る。
 手を伝う液体の感触に、背中を虫が這い上っているような錯覚を覚え、不快を訴える感覚が脳天まで駆け抜けた。そしてこれが夢と知りながら、それでもと男、スコルピウスは手に馴染んだ愛用の剣を投げ捨てた。
 スコルピウスはこの夢の意味を知っている。そして、人とは次元の違う存在がこの夢を齎しているということも。何度見ても変わらない、神を祭る神殿と、水を象徴とする神を表すかのような泉。何度見ても変わらない、ただの夢ではないせいかやけに現実を帯びた情景。ただ、音だけがない。
 スコルピウスの眼差しが、眼前の泉へと落ちる。そこに捧げられた乙女の姿はもう見えず、供物としての役割を滞りなく果たしたことを告げている。それでも、スコルピウスは躊躇うことなく己が身を泉へと投じた。音のない世界の中、やけに鋭敏になった感覚の所為か、途端に肌を刺す冷たさにスコルピウスの表情が歪む。日の恵みを感じられない泉の中は暗く、水を掻く指の先すら曖昧で。まるでスコルピウスを拒絶しているかのように、水の冷たさは痛みとなってその身を襲う。諦めを促すかのように肺を圧迫され、堪える間もなく漏れ出る空気。限界が近いのは明らかだ。だが、ぐっと口元を引き締めて、スコルピウスは躊躇うことなく闇色の水を掻いて先へと進む。この先にいる存在を諦めるなど、出来る筈がないと言わんばかりに力を振り絞りながら。








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