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(あれはなんだ?)

 器に中身が伴っていない、そんなことを感じた瞬間だった。王の姿が僅かに揺らいだように見え、同時にその背後に揺らぐ天井にも届きそうなほど高い影が出現した。いや、きっと見えていなかっただけで元々そこに影はあったのかも知れない。あからさまに異様な光景に半ば呆然としながら、スコルピウスは王からその影へと視線を移した。
 すると、単なる黒い影だったものが急速に形を取り始めた。それはものの数秒とかからぬ内に、人のような形を取った。
 スコルピウスの喉がこくりと鳴る。明らかに生者とは違う空気を纏い、全てを覆う程の巨躯を持つ闇色の影。辛うじて人に似た形をしていたが、本能で感じた。これは人あらざる者だ、と。しかも、誰もその異質な存在を気に留めていないことが、スコルピウスに確証を持たせた。
 スコルピウスが影の正体を探るべくその姿をさり気なく観察していると、不意に影と視線が合う。途端、足元から無数の蟲が這い上がって来るようなおぞましい感覚が全身を襲い、スコルピウスは一瞬顔を顰めてしまう。反射的に鳥肌で覆われているだろう腕に触れそうになったが、寸でのところで理性が勝ち、表情もすぐに取り繕うことができた。

『我ガ見ェルカ人ノ仔』

 一方、スコルピウスの反応をつぶさに見ていた影の口元が、ニィと笑みの形に引き上げられる。と同時に、頭の中で響く正体不明の声。スコルピウスは、それが影の発したものだと何の疑いも無く確信を持った。

(貴様、何者だ)

 眉間に皺を寄せそうになるのを堪えながら、スコルピウスは頭の中で影に語りかける。それで通じるという保証は無かったがどうやら間違いではないようで、影が一層笑みを深めた。そして、

『我コソハ死ダ』

 得体の知れない影の言に、スコルピウスが思い浮かべたのは死者の魂を運ぶという冥府の使者のこと。勿論その姿を見たことは無かったが、正にそれはこのような姿をしているのではないだろうかと思わせた。だが、その存在の意味するところを考えると、その憶測は正しいものではないような気もしてくる。
 単純に考えれば、王の死期が迫っているからと考えるのが妥当だろう。しかし、どうもそうではないような気がするのだ。王の様子に生気が感じられないのは分かるのだが、それが死を示唆しているのかといえばそうではないと思えて。
 己の中にある憶測の、その根拠は何なのだろう。それを考えた時、唐突に違和感の正体に気が付いた。
 王のことは勿論だが、その前に影の正体が単なる冥府の使者というには余りにも存在そのものが強大過ぎるのではないかと思えたのだ。

(冥府の主とも言える柱神が、このようなところで何をなさっているのか)
『ホゥ』

 どうやらスコルピウスの予想は当たっていたらしく。影、冥府の主はどこか面白そうな声を上げた。それは馬鹿にしたようなものではなく、純粋にスコルピウスが言い当てたのが意外だったのだろう。
 スコルピウスとて今まで相対したことのない自分達とは違う次元の存在を、こうも簡単に認められるとは思っていなかった。だが、たかが幻覚と切って捨てるにはかの存在は強烈な存在感を放っていて。但し、何故自分に見えるのかは分からないのだが。

『不遇ナ人ノ仔、ォ前ノ―――』

 スコルピウスは神託の如き神の声を、訝しげな感情を隠しもせず聞いた。それが何を齎すのか、理解できないが故に。
 そんな神との対話も長くは続かず、その後すぐにスコルピウスの名が呼ばれて現実と隔絶された意識が引き戻された。
 事前に申し合わせていたように、促されるまま今回の出奔についての非礼を詫び、アカキオスへの感謝と信頼を語る。今後の扱いについてもどんなものであろうと全て受け入れると言えば、アカキオスが視界の端で満足気に口元を歪めているのが見えた。演技などできる筈もないので随分と平坦な声になっている自覚はあるのだが、それでも自ら言葉にするだけで良いのか、咎めるような視線は感じない。いや、寧ろ人形らしくて良いと思われているのかも知れない。自分に許された発言の時間が過ぎ、スコルピウスは再び繰り広げられる茶番を再び冷めた目で見つめる。
 その際に、王が言葉を発する度に冥府の主より伸びた影が王の口元を包むのが見え、王がもう意思の無い人形であるのを改めて認識した。

 その後は特に何も起こらず王との謁見は終わりを迎え、決して短くはない時間だったがこんなものかと。スコルピウスは冥府の主と対峙した時の重圧より余程あっさりした空気に、少々の味気なさを感じながら形式にのっとった礼を取った。

 広間を辞する前にさりげなく度冥府の主を振り仰げば、何がおかしいのかその表情は確かに笑みを浮かべていて。スコルピウスはあえて熱のない視線を向けた後、向けられる視線全てを意識的に遮断して広間を後にした。問題は山積みだったが、不思議と気分は悪くないなと、そんなことを思いながら。


 王の前を辞するスコルピウスの表情に、迷いは無かった。それどころか、どこか吹っ切れたような顔をしていて。レオンティウスの傍に控えていたカストルは、そんなスコルピウスの変貌ぶりに息を呑んだ。
 彼が宮殿を抜け出してから誰と行動を共にしていたのか、カストルは知っていた。破滅の御子が生まれ落ちた夜、双子を連れ出奔するポリュデウケスが唯一全てを話したのは、唯一の肉親であった自分。王妃の望みとはいえ、王を裏切ることを悔いている様子はなく。その所為で自分の身が危険に晒されるのではないかとひたすらに危惧していたものだった。だが、だからと言ってカストルが共に行く選択肢は端から無く。それはポリュデウケスとて承知の上だった。それは例え立場が逆転していたとしても同じことだったろう。
 だからこそ、ポリュデウケスが更なる厄介ごとを自ら負おうとするのを聞いて流石に苦言を呈したものだった。だが自分より遥かに頑固者である彼の考えを変えるには至らず、結果その試みは成功した。否、成功したと思っていた。

 スコルピウスが現れた時、カストルは少なからず衝撃を受けていた。兄ポリュデウケスの思いを受けて只人となることを受け入れた彼が、どうしてここにいるのか、と。しかも、カストルにとって唯一の主であるレオンティウスの前に立ちはだかる障害のように。
 上辺だけの忠誠を口にする忠臣とは口が裂けても言えないアカキオスは、王家に忠誠を誓う者にとっては要注意人物だ。その口の上手さに誤魔化されている者も多々いるが、それが外見を取り繕っただけのものと気付いている者も多い。そして、そんな者達は総じてレオンティウスの元に集まっている。最早彼の影響力を完全に削ぐことは出来ないが、次代の王をその考えで染めることを甘受できないと思ったからだ。
 そんなアカキオスと共に戻ったスコルピオウに、警戒心を抱くなという方が無理なことで。特に言及した訳ではないが、己の後見としてアカキオスをと考えているような発言は見られた。それはつまり、再び次期王としての権力を取り戻すという宣言に他ならない。そうでなければ、あの権力に固執するアカキオスが後見など引き受ける訳がない。負わされた権力よりも一個人としての彼を尊重すべきだと言っていたポリュデウケスの想いは、届かなかったのだろうか。
 カストルはそっと己の主の様子を窺った。見たところ特に動揺は見られなかったが、付き合いの長いカストルには、レオンティウスの心の内が荒れ狂っていることが良く分かる。一方的とは言え肉親の情を抱いていた兄が生きていたと知ったレオンティウスの喜びを知っていただけに、何の感情も無くレオンティウスを見るスコルピウスの眼差しに衝撃を受けたであろうことは想像に難くない。
 レオンティウスは、たとえそれが憎しみであっても、兄と慕うスコルピウスの意識が自分に向いているだけで良いのだと、視界に入っている内はいつか和解出来るかも知れないと、そう思っていた。それなのに、先程のスコルピウスは、その憎しみすら感じられない無関心さで、まるでその姿を視界に収めている認識すらないようにも見えて。
 それとも、綺麗に押し隠していただけで、人の感情の機微に聡いレオンティウスには彼の底に潜む感情を読み取れたのだろうか。ふとそんなことを思ったが、今のレオンティウスの様子ではその可能性は限りなく低いと思われた。
 一度、その真意を問うべきなのだろう。たとえそれで、己の立場が悪くなろうとも。もう既に見えなくなったスコルピウスの姿を思い描きながら、カストルは一人決意した。









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