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 どれ位の時間が経過したのか、スコルピウスにはもう分からない。今の彼の精神状態は、既に限界を超えていた。刷り込まれた暗示は、アカキオスに促されるまま頷けと言っているのに、どうしても是と答えることが出来ない。それは正常な思考が出来たから、という意味では決してなく。反射的に首を縦に振ろうとしても、何かがそれを押し止めるのだ。それが何なのかは分からないし、それについて考えるだけの思考力は最早残されていない。だがそれに逆らってまでもアカキオスの言葉に頷くことはなかった。
 カラカラになった喉が僅かに動く。口元から洩れる掠れた音は意味を成さず、その様子から恐らく彼自身何を言おうとしたのか分かってはいないだろう。虚ろな瞳は何処を見るとも無くゆらゆらとさ迷い、時折思い出したように瞬きする以外は意志を宿して何かを見ようとはしていなかった。


 不意にスコルピウスの意識が浮上したのは、どんなきっかけがあったからなのか、彼自身気付いてはいなかった。ただ、頭の中にかかっていた靄が一瞬にして晴れたような感覚と共に、今までせき止められていた情報が溢れ出してきた。
 生理的な涙が頬を伝いそれがやけに熱を持っているように感じ、そこで漸く己の身体が随分と冷え切っていると知る。己の置かれている状態に理解が追い付かず軽い混乱状態にありながら、スコルピウスは何とか最後の記憶を辿り現状把握に努めようとしながら身体を起こそうとした。だが、すっかり衰えてしまった筋肉はその役割を果たせず、口から洩れた呻き声以外、その状態に変化はおきない。
 何度足掻いても結果は同じで、スコルピウスは一旦身体を起こすことを諦めて全身の力を抜くと、乱れてしまった息を整えようと浅く呼吸を繰り返した。目まぐるしく回る思考と視界に入る天井、そして半ば慣れてしまった匂いに、漸く現状に至る原因を思い出した。多勢に無勢とはいえ、あのような者達に良いようにされてしまったことが悔しくてならなかった。それに拘束こそ解かれているものの、今の自分の状態から危機は去っていないのがありありと分かる。
 確認していないから確かなことは分からないが、身体が凝り固まって容易に動かせなくなっていることから随分と長い間ここで過ごしたのだろう。恐らく筋肉は削げ、今の自分は下手をすると女性よりも非力になっているのかも知れない。随分と情けない話だと思いながら、何とか目を盗んで少しでも体力の回復を図らねばと考えていると、厚布の向こうから微かに足音が聞こえてきた。
 片足を引き摺るような特徴のあるその音は、アカキオスのものに違いない。人目を憚る必要もないのか、やけに堂々とした足取りでこちらに向かっているようだ。
 スコルピウスはどうするべきかと室内に視線を投げ、目に留まった香炉が未だ盛んに煙を吐き出しているのを見て止めると、全身の力を抜いて瞼を下した。
 暗示などに使うあの草の効能から考えて、恐らく自分は先程まで自我が崩壊する寸前だったと推察できる。記憶に欠けた部分があることからそれは確かだろう。ならば何故そういう状況に置かれなければならなかったのかと考えてみると、非常に曖昧ではあるが、アカキオスがしきりと何かを促していたように思う。そしてそれはスコルピウスが正気であれば確実に反発する内容であるのは間違いない。そう答えを導き出せば、やることは自然と見えてくる。少しでも逃げる算段に役立つのならば、情報を収集する意味でも正気でない振りをした方が得策だろう。
 そんな事を考えている内に、アカキオスの足音は部屋の前まで来ていた。
 部屋の中と外を遮る布を捲る音と、纏う衣装が擦れる音が聞こえる。と、

「お加減は如何ですかな、殿下」

 知っていたとはいえ歓迎したくない声に、スコルピウスの眉が僅かに寄る。だが幸い、視界の効かない室内では見咎められることはなかった。
 スコルピウスに聞こえていないと知りながら、その口調はやけに丁寧だが、誠意の欠片もないのは頭を垂れようとしない時点で明白。最早期待などしていなかったとはいえ、その傍若無人ぶりにはただただ不快さを増すばかりだ。
 そんなスコルピウスの心中など知らず、アカキオスはいつものように寝台の傍らに立つと、その顔を覗き込む。そして、

「何故瞼が下りている」

 スコルピウスの心臓が、どくりと跳ねた。やけに目が乾くと思っていたが、まさかそこまでだったとは思わなかった。だが、今更どうすることも出来ない。アカキオスが気付かぬよう祈るしかない。

「よもや命を違えたのではあるまいな」

 アカキオスは怒りを滲ませた声を、後ろに控える影へと向けた。

「眼球は乾き過ぎると失明する恐れがあります。ですから危機を感じとり、時折瞬きをするのです。ですがこの部屋は香の所為で他よりも乾燥していますので、長く目を閉じることも必要になるのです。眠っているのではありません」

 淡々と返された言葉に、アカキオスは納得出来かねるというように唸り、やがてまあ良いと首を振った。ここで多少意識を失っていたところで、計画に然程の支障はないだろうと。
 アカキオスは改めてスコルピウスへと向き直ると、いつものように耳元で手を叩く。
 唐突に鳴った音に、スコルピウスの身体が驚きに跳ねる。緊張に吹き出す汗を感じながら殊更ゆっくりと瞼を持ち上げれば、満足そうに口元を引き上げるアカキオスの顔が目に留まり、どうやら間違ってはいないようだと細く息を吐いた。

「殿下、そろそろ色好いお答えを聞かせてはいただけませんか。私とて、次代の王たる貴方にあまり酷いことはしたくないのですよ。ですがこれ以上強情を張られますと、こちらとしても残念なのですが貴方を手放さざるを得ないのです。貴方が王家に仇なすことがないよう、あの忌み児と同じよう奴隷に身をやつしていただく他なくなってしまいます」

 忌み児、の一言にスコルピウスは思わず声を上げそうになった。その言葉が示すのは、子供達のことに違いないと。何とか声を出さずにはいられたものの、子供達を奴隷にしたアカキオスに対する憎しみが膨れ上がる。同時に、あれだけ霞がかっていた思考がすっきりと晴れ、正常に動き出したような気がした。
 暗示の類はそれ以上の強い感情で解ける場合があると聞いたことがあったが、それを自ら体験するとは思わなかった。
 そんなスコルピウスの胸中など知る筈もないアカキオスは、尚もスコルピウスに囁き続ける。

「どんなに抗おうとも無駄なのですよ。既に殿下は私の手の内にあるのですから。貴方が私の傀儡となり、あの忌々しき雷神の子を葬り去るのは最早時間の問題なのです。そうして殿下は殿下の思うまま、私の望むような王になってくれれば良いのですから」

 熱に浮かされたようなアカキオスの声を聴きながら、スコルピウスは心の内で彼を嗤った。彼がどれだけ自分を下に見ているのかがよくわかる。どんなに耳触りの良いことを言おうと、全てはアカキオスの都合で回っている。こちらの都合など端から考慮する気はないのだ。
 だったらこちらとて遠慮する必要はないというもの。暗示にかかったふりをして、彼の理想をめちゃくちゃにしてやればいい。折角手に入れた穏やかな日々も、やっと手に入れた大切な家族も奪われて、こちらが望んでいない場所に無理矢理引き摺りだされるのだ。全てこちらの良いようにして何が悪い。
 そしてどんな手を使っても子供達を取り戻して見せる。幸い命まで奪われていないことは分かった。悪辣な環境に二人を放り込んだアカキオスをすぐにでも縊り殺してやりたいが、手掛かりを無くすわけにはいかない。

 スコルピウスがアカキオスを亡き者に出来ないこと以外に悔しいと思ったのは、欺くためとはいえアカキオスの言葉に頷かなければならないことだろうか。
 スコルピウスが了承して初めて、この暗示は完成するのだろう。だから、アカキオスは強引に事を進めた割に、こうしてスコルピウスの言質を取ろうと躍起になっているのだ。
 だからスコルピウスが頷かなければ、監禁生活は続く。子供達を探しださなければならないのに、これ以上時間を無駄にする訳にはいかなかった。


 スコルピウスが多大な労力を使い頷いた瞬間のアカキオスの顔は、それまでの厭らしい笑みとは全く違っていた。じりじりと待たされた分、その喜びはひとしおだったようで。これで漸く次の段階に移ることが出来るのだと、顔にそう書いてあった。
 もうその脳裏では次にやるべきことの算段をしているのだろう。挨拶もそこそこに辞する姿は何とも浅ましいものだった。

 誰もいなくなった室内で、スコルピウスはひっそりと笑う。体力が落ちた今の状態で彼等から逃げ出すことは不可能だろう。だが彼の意に沿うよう行動すれば、恐らく以前の体力を取り戻すのはそう難しくはない。何せスコルピウスは少なくとも一人の命を奪わなくてはならないのだ。勿論そんなことをする気は毛頭ないが、欺く意味でもそれなりに鍛錬しておかなくてはならないだろう。どうせなら以前のスコルピウスでは歯が立たなかった相手と手合せしたいものだ。その者に勝てば、以前よりもっと強くなったということだから。漸く光を見出せたような気がして、僅かに身体のこわばりが抜ける。すると、図ったように今まで蓄積されてきた疲労が自己主張を始めた。
 恐らく暗示が成功したと思っている今ならば、眠っても咎められることはないだろうと、スコルピウスは瞼を下す。その脳裏に大切な人達の姿が映る。取り戻せない命と取り戻せる命、いつか神々の住まう庭に行ければ二人に会えるのだろうか。などと詮無いことを考えている内に、スコルピウスの意識は徐々に薄れていき、すぐさま静かな寝息が聞こえてきた。

 アカキオスは知らなかった。スコルピウスが王宮にいた時分、その身を守る為に何をしていたのかを。
 常に危険と隣り合わせの生活を強いられていたスコルピウスにとって、力ずくの手段以上に警戒していたのが、毒による暗殺だった。毒薬の中には、無味無臭の上眠るように死んでしまうようなものもあった。それこそ食事にでも混ぜられてしまえば、気付くことなく黄泉路を辿っていたことだろう。実際、幾度となくそういう危機は訪れていて。生きることに意味を見出せなくなっていたスコルピウスは、そんな最後もあるのかと一時はそれを受け入れようとした。だが、頭のどこかに理不尽な理由で生きることを諦めさせられたくないという想いもあって。もしもの時、自分を殺す権利があるのは王と、ポリュデウケスだけなのだという信念もあった。
 だからこそ、スコルピウスは誰にも、それこそポリュデウケスにすら教えることなく独自に毒に対する耐性を付けようと毎日少量の毒を摂取し続けた。
 毒草を集めるスコルピウスに向けられる警戒の目など気にも止めず、寧ろ自分に毒を差し向ける相手に対する牽制になるだろうと開き直って。
 それは結果として今のスコルピウスを救う結果となった。毒に耐性のある身体は、暗示の香さえ慣れさせてしまったらしい。
 だが今回は、絶対に計画を成し遂げたいアカキオスが通常では考えられぬ量の薬を使ったのだろう。お蔭で耐性が付くまで少々の時間を要してしまったらしい。
 己の行動が己を救う結果となった事に、スコルピウス自身は気付いていなかったことだろう。だが例えその事がなくとも、スコルピウスは例えどんなに時間がかかったとしても己を取りもどしていただろう。何故なら、彼の中で育まれ続けている光はそう易々と消し去る事はできないのだから。

 それから、スコルピウスは衰弱した身体を癒す為の薬と食事を取る時以外は、昏々と眠り続けた。アカキオスとしても言質を取った以上、スコルピウスに構うよりも、己の理想をより速やかに実現させる為の布石作りに忙しかった。
 その眠りは筋力が益々衰えるではないかと心配になる程だったが、この数日スコルピウスが強いられていた行為の傷を癒すには、もう少し時間がかかりそうだった。
 子供達の事を考えれば少しでも迅速な行動が求められたが、今の自分では何の役にも立たないと悔しさを耐えた。
 そんな夢か現か分からなくなるような時間の中、ふと意識が浮上した折に、誰もいない筈の室内に酷く懐かしい気配があったように思う。スコルピウスにはそれが何なのか分かっているのか、恐らく無意識下のことだろうが安心させるかのように笑いかけ、再び眠りへと落ちるのだった。
 意識が閉ざされる瞬間、僅かに動いた唇が二つの大事な名前をかたどっていた事を知る者はいない。










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