某氏の優雅な非日常






 カーテンの隙間から差し込む朝の光に照らされて、微睡んでいた意識が浮上する。寝具から伝わって来る筈の最早慣れ親しんだ振動が感じられない事に抱いた違和感は、僅かに持ち上げた瞼の間から覗くやけに華やかな色調の布が何であるかを認識すると同時に霧散する。
 うっそりと頭を持ち上げれば案の定、そこには波打つブルネットの髪を散らし、シーツに身を包み横たわる女の姿が。
 健やかな寝息をたてるその様子はとても穏やかで、うっすらと笑みを浮かべて眠るその姿につられ、自らの口元が緩むのを感じた。 寝入る女性を無理矢理起こすなどという考えは端から無かったが、折角の寝顔を遮る無粋な髪を避けるべく、そっと手を伸ばした。が、

「………」

 己の手が視界に入った瞬間、動きが不自然に止まる。
 まだ寝ぼけているのだろうかと何度も瞬きしてみるも、視界に映るそれに変化の兆しが訪れる様子はない。

「………」

 試しに眼前へと掲げてみれば、それは従順に目の前へと移動する。自らの意志で動かす事が出来るそれは、確かに己のものであるらしい。

『……犬……いや、猫…?』

 呟く声は意味を持たないか細い音で。先程までの眠気など何処へやら。零れんばかりに見開かれた眼差しの先、金の毛に覆われた猫の手が、そこにあった。
 確かめるように頭上へと手(前足?)を伸ばせば、触れる柔らかな感触。掠めるように触れた耳が反射的に震える。
 現実に有り得ない事象に、流れ出る冷や汗を不快と感じる余裕もなく。身を起こし、恐る恐るといった体で振り向けば、手と同色の己自身から伸びた靱かな長い尻尾が、パタリとシーツを叩いた。

『一体何が…』

 宿の一室に響いたのは、まごう事なき猫の鳴き声。そこに込められた物悲しい響きに、気付いた者は果たしていたのか。


 半ば放心状態で見上げた視線の先では、そんな彼、イドルフリードの心情を慮る事無く。彼に一瞥も向けず歩き去る、人々の姿があった。
 いつも通りの日常を過ごしているだろう彼等の姿が無償に羨ましく感じられ、イドルフリードは視線を逸らした。

 どういう手段で外へと抜け出したのかは覚えていなかったが、見付かって追い出されるなどというみっともない状況になるのは避けたかった。
 必死で外に出て見れば、常と変わらぬ営みに身を置く人々の姿が目に止まり、ぼやける視界は、意識的に知らない振りをする。

 このまま戻れなかった場合、街の中に身を埋めるしか無いのだろうか。よしんば船に戻れたとして、猫の身で待っているのは鼠を取る日々。幾日も経たぬ内に音を上げるのは、目に見えていた。
 いつもなら余計な程によく回る思考が全く働かないのは、それだけショックを受けているからだろう。

 イドルフリードは溜息を一つ落とすと、意識を切り換えるように頭を勢い良く振る。
 いくら考えたところで、解決の糸口が見つかる可能性は極めて低く。ならばまず現状と向き合うべきと判断し、改めて己の姿を見下ろした。
 随分と近くなった地面の上、猫なのだから当たり前だが器用に足を折り畳んで座っている。

『ふむ…』

 洩れた呟きは「にゅっ」という奇妙な音に取って変わった。前足を持ち上げ肉球を見つめる。凹凸のないつるりとした表面は、肌とはまた違った様相で。触れてみようと反対の前足も上げてしまったせいで、バランスを崩した身体が後方に転がった。
 慌てて身を起こそうとするも、両前足を使おうとすれば同じ事の繰り返しになるのは明白。
 それに、今の姿から元のイドルフリードを連想出来る者などいない。ならばと半ば開き直ったイドルフリードは、仰向けに寝転がったまま改めて肉球の検分に取り組む事にした。
 触れた感触は乾いていて、さらりとした感触が心地好い。手の平に力を入れてみれば鋭い爪が顔を覗かせ、力を抜けばあっという間に毛の中に埋没する。
 イドルフリードは、人間であった時には出来なかったそれが妙に面白く、何度も爪の出し入れを繰り返した。

『猫という生き物は、中々器用じゃあないか』

 気を良くしたイドルフリードは、次に柔軟性の検分へと移行する事にした。
 骨が折れるのではと懸念する程に曲がる身体の仕組みには多少の興味があったのだ。
 頭を持ち上げて、そのまま身体を折り曲げれば、易々と口が腹に付く。無理矢理ではないそれに痛みが伴う様子は全くない。
 さて次はと顔を上げたイドルフリードは、女性が2人こちらを見ている事に気が付いた。

『何かご用かな、御婦人方』

 向けられていた眼差しが好意的な事もあり、イドルフリードは女性達に向かって声をかけた。端から聞けば、鳴き声でしかなかったが。
 イドルフリードが逃げないと悟ったのか、2人の女性は顔を見合わせ、数歩の距離を縮めると、イドルフリードの目の前にしゃがむ。
 そろりと伸ばされた手を迎え入れるべく、イドルフリードは身を乗り出した。
 悪い事ばかりではないのかも知れない。至福の時を終えたイドルフリードは、そんな事を思った。惜しくらむべきは、発展途上であったところか。

 猫となった事による変化。その中でも最上と言っても差し支えのない利点に、イドルフリードの瞳が、怪しく光る。
 イドルフリードは、真に己が埋没すべき場所がどこであるかを悟ったのだ。


 人通りの多い賑やかな一角に、その姿はあった。
 下町風の野良猫よりは品があり。だが、時折見せる仕種が愛らしい。
 誰も気付いてはいないだろうが、一言で言うと小賢しい猫。何をするでも無く呑気に座っている姿は、人々の気を引いた。その証拠に、皆吸い寄せられるように猫を構っている。
 皆猫が相手をえり好みし、態度を変えていることなど気付いていなかった。そう、こと女性となると執拗に擦り寄っているのだ。

『私の手にかかれば、造作もない事。おや、そこを行く御婦人方、見れば中々具合の宜しい様子。遠慮は無用。その豊潤な2つの果実の元に、私を導くがいい』

 愛らしい様相とは正反対の、欲望という名の歪んだオーラを纏った猫は、甲高い声を上げた。


「まあ、何て可愛らしい」
 頭上から降ってきた声に仰ぎ見れば、ポテンシャルが2つ、ではなく一人の女性が立っていた。ただし、顔は識別出来ない、何故なら遮られて見えないのだ。
 無防備に晒されるポテンシャルに、イドルフリードの視線は自然とそこに釘付けとなる。まったく見事としか言いようがない。
 女性が膝を折ればその距離は益々縮み。イドルフリードは内心ほくそ笑みながら、柔らかな鳴き声を上げその時を待った。

「見てくださいな。とっても可愛らしい猫ちゃんですわ」

 イドルフリード基準『良いポテンシャル』の女性は、唐突に撫でていた手を両脇へと回し、イドルフリードの身体を持ち上げると後ろを振り返ながらそこにいた連れの眼前へと掲げて見せた。自然とポテンシャルから視線を引き剥がされる恰好となり、まだ目的を果たしていないイドルフリードは物惜し気に後方へと顔を向けるも、いくら猫の体が柔らかいといっても限度があり、視界の隅に辛うじて引っ掛かるポテンシャルに、諦めて顔を戻し。そして、後悔した。

「ほう…」

 豊かに蓄えられた青色の髭に触れながら、言葉少なにイドルフリードへ不躾な眼差しを向ける巨漢。かの者を、人は畏怖の気持ちを込めて呼ぶ。青髭、と。

 何故気付かなかったのか。よくよく考えれば、あのポテンシャルには見覚えがあり。どこか掴み所のない妻の物言いに陥落される青髭の姿が見物だと思ったのは、遠い過去ではなかったのに。
 注意力散漫だった数刻前の己を悔やんだところで後の祭りというもので。
 眼前に迫る青髭の手に、イドルフリードは思わず身をよじる。

「まあ、私より貴方に抱っこして欲しいみたい」
『なっ!?』

 妬けちゃうわ。などと言いながらほわほわと笑う妻の言い分を真に受けた様子の青髭が、片手ではなく両手を伸ばした。爆弾発言に硬直していたイドルフリードは、抵抗する間もないまま、気が付けば青髭の腕の中へと収まっていて。

『離し給えよ低能が。私は顔と成りに似合わず猫好きなどという、お約束な設定は求めていないのだよ』

 我に返り、青髭の腕の中から何とか抜け出そうと試みるも、しっかりと抱えられあまつさえ胸板に押し付けられている状態では、思うように身体が動かせない状況に陥っていた。
 柔らかさの欠片もない胸板は、イドルフリードの求めるものではない。
 思ったより優しい手つきとて、普通の猫ならまだしもイドルフリードにとっては気持ちが悪いだけだ。
 女性を撫で回す趣味はあっても、男性に撫で回される趣味はない。

 よもやこのような事態に陥ろうとは予想だにしていなかったイドルフリードは、忙しなく見回した視界に写るポテンシャル、否、呑気に笑う妻に向かい、藁をも掴むような心情で手を伸ばした。

『くっ、何を素知らぬ顔で笑っているのだね。一刻も早く亭主の暴走を止め給え』

 そしてあわよくば…という思考にズレてしまうのは、彼故に仕方ないと諦めるしか無いというもので。
 イドルフリードの必死な願いが通じたのか。妻は小首を傾げしばしの逡巡の後、両手を伸ばした。
 やっと解放される。と喜んだのは一瞬、青髭が僅かに身を捻ることでイドルフリードを遠ざける。

『何を…』
「今は気が立っているようだ。落ち着くまで待ちなさい」
「あらそうなの?ふふふ、そんな事言って、猫ちゃんを離したく無いだけじゃない?」
「ふん」

 図星故なのか何なのか鼻を鳴らし視線を逸らす青髭に、対する妻は笑みを深めて青髭の腕に自らの腕を絡める。青髭もまんざらではないのか、甘えるように擦り寄る妻の身体を押し返す事無く、やがて2人は並んで歩きだした。
 足を止める前と同じように。だが先程とは違い、金色の猫を交えて。

『私を一体何処に連れて行こうと言うのだね。いい加減に離し給え、この鬼畜伯爵!』

 いくら暴れたところで、青髭の腕からは逃れられない。悲痛な叫びは誰の耳にも届かない。


 その後、イドルフリードはいつの間にか用意されていた数々の猫グッズに囲まれての暮らしを余儀なくされる事となる。己の為の豪奢な部屋に、うっかり猫である事を許容しかけたというエピソードもあった。
 だが、人生とはそう上手くはいかないもので。

 毎日のように青髭夫妻のイチャイチャを見せ付けられた上、青髭に愛でられるという苦行を強いられ、精神を限界まで削られたイドルフリードは、命からがら逃げ出す事に成功した。
 辿り着いた港にて慣れ親しんだ潮風を浴びながら、心の底から安堵の溜息が漏れる。
 やはりどんな姿になろうと、己が生きるべきは海の上なのだ。
 今なら鼠取りだろうが何だろうが喜んでやれそうな気がするのは、決して誇張ではないだろう。


 イドルフリードは、学んだ。女性のポテンシャルは何よりも尊いが、付属がある時点で折角の魅力もあっという間に水泡に帰す、と。











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