長編小説 | ナノ



 In Paradisum



T

突き刺さるような朝陽だ。
そう思ったのは、暗に夜通し地下の書庫に籠もっていた所為ではない。
明るく照らされるのを拒むのは、煌々として爽々しい光に自分の情緒がつり合わないからだろう。

メレクの世界が崩壊した後、森の中に広がるアクマとの交戦の跡を辿り、オレ達はアリスを見つけた。
結果だけで言えば町の怪異は解決し、ニアールを始めとした子供達は後遺症も無く全員目を覚ました。更にイノセンスの回収も出来、任務は成功と言っても相違ない。
けれども、それは一人の命の犠牲で手にした成功だ。
教団にやって来て、任務中に殉職する人間は数多く見て来た。この組織に於いてはイノセンスの回収に伴う任にて死亡者が一人という結果は悪い意味では捉えない。

もっと広い視野で言えば、ここでの殉職者の方がまだましかも知れない。世界にはもっと理不尽でもっと凄惨な仕打ちを受けた挙句、死を迎える人間が数え切れない程ひしめいている。

昨日から延々とそう自分に言い聞かせているのに、少しも情緒が割り切れない。
この思考を止めると否応なしに思い出すのは、エマティットの亡骸を抱きかかえ亡失とするアリスの姿、次いで温度を失った肌と開かれたままの虚の眼、血濡れたまま重なる二人の手、だ。

U

アリスは町の近くに戻るまでは殆ど放心状態で、会話もままならなかった。しかし、町の景観が見えて来た頃には、明朗とは行かないが、何らかの意思を持ったように目に光を戻していた。
けれども、その光は決して希望に満ちただとか、確たる意思を持ったとは形容出来ない。何かを懸命に寄せ集めてどうにか形を保てているような、朧げで脆そうな光だった。

町に到着しても、彼女はニアール達には会わず調子が優れないと言って教会で待機していた。
事実、アリスのイノセンスが何らかの支障をきたしているのか、首元から左の頬にかけて皮膚の下で植物が無数の根を張っているようにその肌を波立たせていた。

それを伝え、他に身体に異変はないかと問うと、アリスは物悲しそうに睫毛を伏せて頬の細かい起伏を確かめ、そしてすぐに緩く笑みを浮かべて「大丈夫。教団に戻ったら、ヘブラスカに見てもらうね」と言った。
その時に悟った。アリスの言葉と笑みは、真意を覆い隠してしまっているのだと。

晩刻、教団に帰還すると、事前に報告を受けていた科学班員達がオレ達を出迎えたが、そこでアリスは真摯な面持ちで任務での反省と、エマティットへの痛恨を述べた。
アリスの精神状態を憂慮し控えめに声を掛ける彼等だったが、彼女は笑みを返すとまた「大丈夫」と告げて「でも少しだけ休みたいから、報告は明日必ず」と、自室へ戻ってしまったのだった。
間違いなくその様子は、幼い頃、そして家族達を失い町を出て教団へ向かう最中、彼女が本心を隠していた時の振る舞いと同じだ。やはりアリスは己を責め、その心までを誰にも見せずに閉ざそうとしている違いない。

しかし、そんな推察を立てて、それが正しかったとして。自分に何が出来ると言うのか。
あの時、アリスの手を取れていたのなら、エマティットが犠牲にならずに済んだ。
それ以前に強く彼女を支えようと意志を持っていたなら。あの手は届いたかも知れない。どちらも為せずにいるオレが、これ以上出来ることはない。
エマティットを失った責任はオレにあるだなんて慰めをしたところで逆効果だ。本人の意思が変わらない限り、アリスは立ち直れないだろう。

そんな自責と、これ以上中途半端に関わるのはもうやめるべきだという諦観がこの胸中を占めている。

――犠牲はあった。けど、任務前に誓った通り任務は成功、アリスはほぼ無事に教団へ帰ってきた。

――だから、後はその心に触れられる誰かに任せればいい。

ブックマン後継者としての正答はもう出ている。
それなのに切り替えて行動に移せないのは、それがオレにとっての正しさだと受け入れられない我意が邪魔をしているからだった。
教団に戻ってから体の疲れは感じていたが、眠りには就けそうになかった。その為少しでも気を紛らわせようと地下の書庫に閉じこもっていたという次第だ。
五時間程過ごして得たのは、どこにいてもこの後ろ向きな情緒は対して変わらないということだけだった。

V

七時、科学班室へ赴くとアリスもその場にいた。
頃合いを図ったつもりだったが、どうにも彼女とオレの思考は似ているのか。未だ安定しない内心が揺らぎそうなので、出来れば出会いたくはなかった。
アリスは昨夜の宣言通り報告書を纏め、提出にやって来たらしい。医務室で施されたのか、昨日は無かったガーゼが左頬を大きく覆っている。根が張ったようなあの跡が悪化してしまったのかも知れない。

……気付けば彼女の事ばかりが頭に浮かぶ。しかし、それを聞くかどうかの答えは出せないまま、簡素な挨拶だけを交わすと早々に彼女は立ち去った。

側から見た様子は表立って他人を拒絶しているようには見えない。教団に戻ったばかりの時よりも笑顔が上手く表情に張り付いていたからだ。
けれども、オレは目に映るままには受け取れずただただその姿を痛々しく感じていた。
エマティットの死を重くも前向きに受け入れて切り替えようとしている。そんな姿を演じているとしか見受けられない。

アリスは、周囲や本人が感じている以上に脆い。気丈に振る舞えば振る舞う程、自身を追い詰めていく事に気付いていない。だから、このままでは不安定な心の上に固めた虚勢はじきに崩れてしまうだろう。

見えざる壁を作る彼女に、他の大人達はどう接するべきか当惑している。
唯一彼女に時間を掛けてその心を解きほぐせそうなのは、イエーガー元帥とリナリーの二人だろうか。ただしイエーガー元帥は切迫状態の戦場に居て連絡を取る事ができず、リナリーは任務からまだ戻っていない。
だが逆を言えばこの二人のどちらかさえ帰還すれば、自ずとこの状況は好転するだろうと、オレは期待を抱いていた。

班員にそれとなく何らかの報告が入っていないか確認した所、丁度リナリーから任務を終えて明朝には帰路につけそうだと連絡があったと聞いた。
早ければ明後日の朝には教団に戻って来るかも知れないという事だ。
彼女なら、今回のアイルランドでの任務の顛末を聞かずともアリスの異変に気づいてくれる筈。そう思えば僅かに気が安らぐかと期待していたのだが、どうも大して安心感は得られなかった。
理由は、分からない。

更にもう一つ聞かされた情報がある。オレ達とは別の便で此方に向かっていた棺が教団に到着したらしい。
昼前には葬儀をするのだという。
エマティットには何一つ言葉を掛けられずに別れる事となってしまった。今更祈った所で彼には何も伝わらないし救える訳でもないが、頃合いを見て日中聖堂に行く事にした。

W

一時過ぎに聖堂へ出向くが、その前に二階から階下を覗いてみると集まるその数は既に百を超えていそうだった。集うのは探索班員のみならず、エマティットの訃報を聞いた他の班員達も往来しているらしい。
人望の厚さだろう。こうして眺めている間にも人の群れが大きくなっているようだ。

どうにもあの輪の中には入るのは躊躇われる。あの空間に満ちている感情を飽きるほどに見知っているからだ。
しかし、全く顔を出さないのは体裁が悪い。同じ任務に赴いた人間として、遺憾は彼らにも示しておかないとならない。

階下へ降りて、広間へ踏み込むと、人々の嗚咽ばかりが広がる空間がそこにあった。

「どうしてエマティットが」
「こんな事って」
「信じられない」

棺に近づくほどに呻吟と嘆きは増えていく。間近で地に伏すようにして悲しみに耐えているのは、エマティットが所属していた部隊の班員達だ。
彼らにとっては最も身近で誰よりも才能のある人間が彼だったのだ。そんな人物が自分達よりも先に、こんなにも若くして突然殉職するなどとは、きっと思ってはいなかったのだろう。
彼らの側に歩み寄ると、不意にほんの一瞬辺りの音が落ち着き、背後からぽつりと声がした。

「誰かを庇ったんじゃないか」
まずい、と察したが、もう遅かった。
その呟きに反応するように誰かがオレの名を口にした。辺りを見回すまでもなく視線がオレに集中したのが分かった。更に運が悪いことに、丁度エマティットと同部隊の人間の間近に立ってしまっているので、当然ながら、彼らの内の一人と目が合ってしまった。その男は真っ赤な目で問うた。

「なあ、ラビ」
「……エマティットは、もしかして。新人のあの子を守ろうとして……?」
恐らく集団心理の元、もう彼らの共通認識は「運悪くアクマの攻撃を受けて殉職した」ではなく「誰かを身を挺して守らねばならない状況で失命した」として固定されている。

しかしその問いにそうだと言える訳がない。アリス本人は自分の所為だと言っていたが、実際見ていないオレが無責任に発言出来ない。
何よりこの状況で口にした言葉がどんな波紋をもたらすか分からないからだ。

特に彼らは悲哀と行き場のない怒りで情緒が不安定だ。
どこへ向けたらいいか分からない感情の矛先を探している状態だと言っても過言ではない。
その感情が共感や同調ではなく攻撃となる可能性がある。それがアリスに向くのだけは避けたい。

実に厄介な状況に巻き込まれた。「レベル2に運悪く遭遇した」「実は見ていないから真偽は分からない」幾つか掻い潜る回答はあるものの、彼らが欲しい情報は「エマティットは“誰“の為に犠牲となったのか」なのだ。
曖昧に答えて邪推されるくらいなら、と口を開いた。

「違う。オレが――……」
その時、オレの声を遮って別の声が低く響いた。

「みんなやめよう。今それを明らかにして何になる」
周囲に広がる疑念の空気を一瞬で振り払ったのは、四十六番隊隊長のゴルトだ。
「彼だって皆と同じように、エマティットを偲び、弔う為に来てくれたんだぞ」

すると、オレに集中していた視線が一斉に逸れて、皆各々改めて下を向いたりエマティットの棺に向いた。どうやら彼らの悲嘆から解放されたらしい。

「……ラビ君、すまなかったね。エマティットは俺達にとっての光みたいな奴だったから。皆どうしても現実を受け止められずに混乱しているんだ」
オレの肩に手を置いたゴルトの目は、他の面々のように涙を湛えてはいなくとも、赤く腫れていた。

……肯定も、否定も共感さえも。何も返せなかった。オレには彼らに同情する事もまして謝る資格すらない。
ただ少しの間だけ、その場に留まって無機質な棺を眺めて人々の嘆きの音を聞いていた。

X

どれ程夜が深くなっても寝付けない。オレはもう一度聖堂に足を運んでいた。日中は人々が耐えることなく出入りしていたようだが、この時間ならきっと誰もいないだろう。
階段を降りる度に纏わり付く空気が冷え込む感覚がした。進む先には全く人の気配がないのが既に分かる。
念の為にと二階の回廊から広間を見下ろす。やはり人は全くいない。そう思った時、巨大な十字架の元で一つ寂しげに安置される棺の傍で、誰かが寄り添っているのが目に映った。
同時に少し高めの音が階下で響いている事に気付く。

――歌声。…………アリス。

その瞬間「戻れ」という脳の指摘に反して、この場から動くことが出来なくなった。
耳を澄ましてその音に聞き入っていた。小さな反響を携えて流れる旋律が紡いでいるのは、あの日、彼女の町から遠ざかる汽車で聞いたものと同じ歌だ。

「Que les anges te conduisent au paradis
qu'à ton arrivée les martyrs te reçoivent
et t'introduisent dans la cité sainte, Jérusalem」

死者に向けて永遠の安息への導きを願う鎮魂歌。
その意味や歌調は、穏やかな未来への願いと祈りが内在している筈なのに、それを歌う彼女の声は悔恨と嘆きに満ちている。まるで懺悔の歌のようだった。
この目で直接見なくとも、アリスの瞳は涙に濡れているのだと分かる程に。

欄干に置いた手を強く握る。そうでもしないとこの体は階段を駆け降りるか、悪ければこのまま階下へ飛び降りて傍に行ってしまいそうだった。
長く重い息を静かについて、何とか歌声に背を向け階段を登って行く。
足が酷く重い。遠ざかっている筈なのに、頭の中であの歌が流れている。

――歌が終わったら。……それともあの時と同じように、歌い切る前に苦悩に溺れた悲痛の涙を流すのだろうか。

――それから、何度も何度も「ごめんね」と謝り続けるのだろうか。

心が、訴え掛けてくる。「役立てずとも、傷を癒せずとも、あの日のように傍に行きたい」と。
しかしそんな我意に従うつもりはない。
「……問題無い。近い内に他の誰かがアリスに寄り添ってくれる」そう脳に刷り込むように繰り返し自分に言い聞かせながら一歩ずつ、歌声から遠ざかる。

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