長編小説 | ナノ



 Le monde de arc en ciel d'étoiles


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科学班員達と、リーバーの温情によって許可を得たコムイも共に、修練場三階へ訪れた。
どうやらそこに科学班で製作した置物が運び込まれており、それを的にイノセンスの力を試しても良いのだと言う。
私一人の力では徒に腕を痛めるだけに終わってしまうだろうが、貰い受けた剣とイノセンスの能力を掛け合わせた時、如何程の威力を発揮するのか。期待で気が逸って仕方がない。
しかし、その高揚は場内に入って奥に眼を向けた一瞬で彼方に飛んで行ってしまった。

「何これ……」
私とコムイの声が重なる。背後に居る一班の面々を見遣ると、皆苦々しい笑みを浮かべている。
場内の最奥には鎮座するように大人の背丈以上あり、私が両手を広げても足りない位の幅を持つ大きな像があった。
それだけなら対して特異な感情は抱かなかっただろう。問題は像の様相だ。
それは人型でもなく球や四角のような単調な形状でもなく、人の頭部を大分簡素に模したものだ。
鉄か合金のような物で作られているので曲線は一切無く、非常に抽象的な顔立ちとなっているものの、眼鏡や帽子等、所々特徴が捉えられているので、誰が雛形とされているのかは瞭然であった。

「あの。何て言うんすかね。俺たち、室長の事は九十九パーセント信頼してますけど、一パーセントは誰もが殺意を抱いてまして。……この像を作った時は、一が二になりそうで。つい」
「つまり憂さ晴らしに僕の顔面をぼっこぼこにしようと言う魂胆なんだね」
その場の誰もが口を噤んだまま沈黙で肯定を示したのだった。
「皆酷いよ!僕の知らない所でこんなことをしようとするなんて!」
「室長が妙な薬をその辺に放置したり無許可で風呂に投入したりするからいけないんですよ!」
「僕は人の為になるであろう薬を日々開発してるだけだよ」
「邪な考えで作ってる物もあるじゃないですか!」

急き立てながら口論の応酬を始めるコムイと班員達を尻目に、リーバーは呆れながら私の肩を叩く。
「……アリス。こいつらは気にしなくていいから、やっちまってくれ」
「わ、分かった」
正直コムイを目の前にしてこの顔面に斬りかかるのはかなり気が引ける。しかし、折角用意してくれたのだから何もせずには終われない。
思案の末、正面ではなく背面に回って試すことにした。どちらにせよ斬りかかる対象は変わらず罪悪感は拭えないが、それでも真っ向より多少はましだろう。やけに迫力のある顔の真横を通ろうとした瞬間、巨大な顔から物音がした。触れてもいないのに突如像が音を立てて揺れ動く。
慌てて後退しながら様子を伺うと、なんと顔の背丈が倍近く高さを増して尚且つ私の方向を向いたのだった。像の底面を見遣ると、鉄板を突き破って金属製の野太い足らしき形の柱が二本生えて巨躯を支えていた。

「どうなってんだ!?」
「なんで急に足が……!」
「…………。あれ? もしかして、その像」
皆の驚嘆の最中、コムイが言いかけた言葉に全員が集中する。
「廃棄場にあった箱、使った?」
「つ、使いました。土台にするのに丁度いい大きさだったんで……」
「それ、僕が作った戦闘訓練用機の本体だよ。いくつか欠陥があったから、後で解体しようと思って置いといたんだ」
「って事は……」
彼等の会話で覚った。この機体は何らかの形で襲い掛かって来る可能性が高い。早急に距離を取ってイノセンスを発動させなくては。

「アリス気を付けてね。中身は塗料だけど、撃ってくるから」
「うん、分かっ……撃ってくる?」
不穏な発言が聞こえた矢庭、大きな顔の口に当たる部分が開かれた。その奥から黒々として長く太い銃身が伸び、私を見下ろす。
反射的に真横に飛び退くと、細かい発射音と共に私が立っていた位置に色取り取りの塗料が撒き散らされた。悲鳴じみた声援が後方から聞こえる。
見た限り当たったとしても大怪我をすることはなさそうだが、撃ち込む軌跡の鋭さは中身が塗料とは思えない。
頓狂な顔面に似合わず、かなり実践に近い訓練になりそうだ。
尚且つこれは私の予感に過ぎないが、塗料の連射以外にも機能が隠されている。そんな緊張が脳髄を冴え冴えと冷やしていた。きっと一筋縄では行かない。
起動直後故か像の反応が少々鈍いので、その隙に唄を口に出しながら剣を鞘から抜く。
すると私の動向を感知したのか、剣に力を宿す間も無く素早く顔面が此方を向いた。激しく振動しながら大きな機械音を上げ、のし掛かるように傾いて来る。
巨躯から眼を離さず地を強く蹴って避けると、石の床が砕ける音が響く。
しかし、地面に激突したのは巨大な顔面ではなかった。石の欠片を散らしながら誇示する、予想と大幅に異なった像の姿に眼を見開いた。

「腕も……あったんだね」
顔の側面から私の背丈の倍以上の長さの腕が伸び、岩塊のような拳が石の床を叩き割って穴を開けていた。しっかりと肘らしき節も設けられているそれは、かなり可動域が広いと見受けられる。
この攻撃を受けたら怪我どころか再起不能だ。反対側からもう一つの腕が生えるのと同時に、力の限り叫んだ。
「皆、すぐに離れて!」

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幸い、皆は私よりも入り口の近くにいる。彼等の逃げ場だけでも確保しなければ。
コムイが慌てたように何かを呼びかける声と、慌ただしく足音が遠ざかるのを聞きながら、大きな顔の真横を擦り抜ける。生えたばかりの腕を慣らすように振り回す機体を自身に引き付けながら奥へ向かって駆けた。
きっとこの暴走状態がコムイの言っていた欠陥の一つだったのだろう。
――……運が悪い。
此方にとって好都合な不具合もあっただろうに。コムイの焦りようからして、これは未確認の挙動に違いない。

「アリス! 誰か呼んでくるから無理に戦わないで!」
ジョニーが大声を飛ばしてくるが、私は振り返らずに声を張り上げ「大丈夫」と返す。強がりでも無鉄砲でもなく、この機械と単身で戦わなくてはならないと判断したからだ。
冷静に対処し勝利を収めるか、ひとつも攻撃を当てられずに燃料切れまで凌ぐか。そのどちらかを為し得ない限り、アクマとの戦闘では到底生き残れない。訓練用の……しかも欠陥のある機体に慄いているようでは確実に。
――ユウよりずっと遅いし、威圧感もない。
巨大な顔面は暴れる内に己の機能に慣れ始めたのか、次第に地を殴る動作に交えて塗料も打ち込んでくるようになった。
しかし、此方も落ち着いて攻撃を避けていく内に分かった事がある。
この顔面の像には直線的且つ追撃する以外の法則がない。遠ければ銃、近ければ腕、と攻撃方法も短調だ。私の動向を予期した挙動や陽動の気配が全く無いので、主導を得るのは容易い。
まだ余裕がある内に試しておきたい事が幾つか思い浮かんだ。攻略法を模索しつつ実践しない手は無い。
追い掛けてくる機体を確認しながら拳や塗料の弾を躱し、場内の隅に迫る。
壁が近づいて来たが速度と勢いを保ったまま、やや身体を真横に傾けて跳ぶ。そのまま壁に沿って走るように一歩蹴り上げ、続け様もう一辺の壁を足場として顔面の方へ向かうように身体の中心を捻りながらニ段階の跳躍をする。
初めて実践したが、想像の通りに動いた私の足は目当ての頭頂部に着地した。

これなら木や建物を利用してアクマも撹乱できるかも知れない。その時に隙が生じれば、反撃の好機を作り出せる。
そんな分析をしながら、顔面の次の反応を見極めるべく腕に注意を向けた時、俄かに高々と振り上げられた腕が頭上から迫ってきた。
私を振り払うか、捕まえようとする、或いは振り落とそうと暴れる……といった対処を先読みしていたのだが、何故かその手は固く握られている。あたかも私を殴り潰そうとするように。
「嘘……」
予期しない反応にただ頭頂から降りて避ける事しか出来ない。無慈悲に振り下ろされた大きな拳は、標的のいない頭頂部で鈍く重い音を立てて叩き潰した。巨体は意識を失ったように力なく天井を仰ぎながらその場に倒れ込んだのだった。
剣を振るう事なく呆気なく相手の自滅で幕を引いた戦闘訓練に、落胆のような安堵のような複雑な心境で言葉が出なかった。
――確かにこれは欠陥だ……。

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入り口の方から大笑いと共に激励が飛んでくる。振り向くと駆け寄ろうと皆が此方に向かって走り出していたが、俄かに高く細い機械音が耳に入ってきた。
急いで彼等に向かって制止の声を上げてその場に留まってもらい、横転している顔面に向かい剣を構えながらもう一つの唄を紡ぐ。
黒の剣は、内から色が滲み出すようにして白銀に変色し始めた。不思議な光景に驚くのも束の間、大きな顔は鈍くも腕を使って起き上がる。
すると忽ち激しく金属の接触音を上げて空気を震わせながら、足の形状を組み替え出した。二本足を一本の支柱として合体させ、更に円錐を逆さにした形に変化させる。細い先端は上手く均衡を保ちながら巨躯を支えていた。
意図を判断する間も無く、機体は素早く腕を横薙ぎに振り回し始めたので、急いで後方に退がって距離を取った。

下手に動けば腕に巻き込まれて不要な傷を負いかねない。先ほどの自滅から、後手に回っても対処できるだろうという自負で観察に徹していると、徐々に遠心力が働き、細い先端を軸に大きな顔面は回転を始める。次第に回転は勢い付いて速度を増していく。
間も無くして機体は見境なく駆け回り出した。しかも明後日の方向に向かいながら、腕を振り回しあたり構わず銃を乱射する始末だ。その狂乱の姿は右往左往しながら徐々に壁際に近付いているので、下手に手を出さず壁に衝突し再び自滅するのを待つのが妥当だろうと、半ば呆れながら眺めていた。

しかしその折柄、顔面が突如方向転換し入り口に向かい一直線に猛進し出した。
――しまった……!
この巨像が予測不可能な奇行に走った場合の危険性を私は見落としていた。敵は私だと認識されている内は、問題無い。しかし今は誰彼構わず破壊する暴走状態なのだ。策は無いが後を追って駆け出した。
――何でもいい、兎に角皆を守らなきゃ。
自身の判断の甘さを悔やんでいる暇はない。全速力で走り、銃弾を躱しながら機体を抜き去る。
数秒で入り口間際まで疾走し、停止しないまま素早く半回転して進行方向と逆を向く。姿勢を限りなく低く落としながら片足を後ろに伸ばして爪先を地面に擦り付ける。前足で姿勢を維持しつつ退がっていく勢いを相殺した。
後退が止まるまでの一瞬に、顔面との距離を目測すると、思ったよりも対象の速度が遅いのが解った。
焦りが急速に失せて思考が鮮明になる。此処に到達するまではまだ距離があるので、どうにかして食い止めるか方向転換させれば皆に危害を加えられずに済む。
後ろ足を曲げ身体を縮こめた。瞬発的に弾くようにして飛び出し、顔面の支柱に向かって真っ直ぐに走った。

――軸の回転は時計回り、だから。
体躯を前傾に保ちながら右側へ逸れ、回転と相反するように力の限り剣を横薙ぎに振るう。同時に強く踏み込んで、巻き込みの反動に備えた。
支柱に剣が当たり、更に重い手応えが腕にのし掛かる。驚く事に剣は鉄製の軸に食い込み巨像の回転と前進を停止させたのだ。しかし剣は支柱の半分も斬れてはおらず、完全に嵌まり込んでいる。これでは拘束状態とさして変わらない。腕を振り回されたら弾き飛ばされてしまうだろう。だからと言って剣を手放すのは可能性の放棄に等しい。

細身の剣では折れてしまう危惧があったが、ここまで来たら最早賭けだ。短く息を吸い込み、吐く瞬間に両手で剣を握り締め腰を内に入れて一瞬の力を込めた。
――……此処で止める!
ふと剣身に乗る重みが軽くなった。その途端、甲高い風切り音と共に剣が振り抜かれた。
顔面から距離を取り、向かって構え直す。
――何となく、掴めた。……反対側も同じ様に斬れば、支柱を分断できるかも……。
静止している巨躯に近づこうとすると、直立していた顔面が徐々に傾き始めた。岩が削れているような音を立て、支柱と顔面の中心がずれていく。
支えを失った顔面と指示の伝達を失った支柱が、其々反対方向に地面を砕き地鳴りと共に倒れていった。
支柱を断ち斬るには明らかに剣の長さが足りていなかったのに、一体何が起こったというのだろう。一連の自身の動作が齎した結果が信じられなくて目を瞬かせた。
しかし動揺は直ぐに振り払い、強く張った緊迫を解かずに神経を今以上に研ぎ澄ます。

案の定、横転した顔面が腕を使い起き上がろうとする初動が見えた。すかさず床に触れる腕に向かい剣を掲げ、まずは片腕を切り落とす。中途半端に浮いた巨躯が均衡を保てず転がった瞬間、もう片方の腕も切断した。
まだ機体の中に何らかの機能を隠しているのか、重く硬い物同士が接触する音が立つ。反射的に下げた剣身を対角に振り上げた。
支柱と化した足を斬った時と同様、忽ち剣筋を境として大きな顔面がずれ始める。
上半分は重力のまま滑っていき床を削りながら落ち、巨大な顔面は大破したのであった。

本体にもある程度の傷をつけることは可能だろうと思っていたが、まさかあの巨体を斜めに真っ二つに出来るとは思わなかった。
きっとイノセンスの力は風圧さえも鋭い刃に変化させられるのかも知れない。
――それより……。ボコボコにするより酷い事をしてしまった。
見るも無残な姿になった機体を見遣り剣を鞘に収めた時、焦りを胚胎した叫声が背後から飛んできた。

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「走れ!」と言う声と同じくして、両断された機体の内部で電気回路が小さく火花を散らした。目を向けると芳しくない事に燃料らしき濃茶の液体が大量に流れ出て白い石床に広がっていく。
このままでは確実に引火し、良くても火災、悪ければ爆発が起こる。かなり広い空間とはいえ、その規模は計り知れない。
振り返ると班員達は既に出入り口から廊下に出て、壁の向こうに身体を隠しつつも顔を覗かせて叫んでいる。私もそちらに向かって全力で走った。
あと数歩で出られる。しかし突如、安堵と焦りからか足元が縺れを引き起こす。踏み止まりたいが両足は痺れたように動かない。
――こんな時に……!

沈む視界の中で、入り口からこちらに向かって来る誰かの足元が見えた。間も無くして胸元を支えられ、転倒を免れた。直ぐに引き起こされるがその勢いが強くて今度は仰け反ってしまう。しかし身体を地面に打ち付けることなく、背と膝裏を支えられ浮き上がった。
一瞬の間で視界が二転し、何が起きたのか分からずに身体を固めて成り行きに任せる事しか出来なかった。けれど支えられている感覚と、視界に自分の両膝が映った事で、誰かに抱え上げられているのだと理解した。一月前のことになるが、似通った状況の体験をまだこの身体も心も確と覚えていた。だから直ぐに分かった。……私を救ってくれたのは誰かという事が。

視線だけで見上げると、彼の隻眼は私を見る事なく、一心に正面を見据え、切迫した鋭い色を湛えていた。
廊下に飛び出して私を抱え込んだまま左へ曲がると、私を抱えているとは思えない程軽やかに跳躍し、その一歩で階段を数段飛ばしに降りる。
着地すると階上へ背を向けたまましゃがみ込んで、横抱きの状態から向かい合うようにして私を抱き直した。更に彼自身の身体を盾にするように身を屈めた。後頭部に回された手が、目の前の胸元に私の顔を引き寄せる。
一方の私は触れても良いものか、そもそもどうしたら良いのかも分からず、大人しく身を縮こめ自身の鼓動の逸る音を聞く事しか出来ない。

鼓動を高鳴らせている原因は焦りと必死に足を動かした事に由る。けれど、ほんの僅かに潜む別の理由がある。それは今抱く理由としては余りにも不躾な感情だ。
私に反して彼にとっては不本意な状況だろう。きっと偶然居合わせてこの騒動に巻き込まれ、私を助けてやらざるを得なくなってしまったに違いないのだから。理解はしていても、心が事実を受け入れてくれない。
だから、これ以上疎まれないようにするためにも、聡い彼の感覚にこの心緒が見つかってはならない。
――どうか、伝わらないで。

身を強張らせた直後、轟音と共に金属片が壁に打ち付けられて散らばる音が数多に響く。
もしも彼に助けられずにあのまま転倒していたら、きっと逃げ切れずに飛散する破片を背中に受けていただろう。それを想像すると背の血液が凍り付きそうだった。

「アリス、平気か?」
呼び掛けに直ぐ顔を上げる。彼の端正な顔立ちに不安げな陰りが差し掛かっていた。
幸い入口から吹き出した爆風が廊下にまで伸びることはなく、避難した全員が無事だったらしい。他の人々が早々に動き出す足音と何かを指示する声、そして床を打つ水音に気が付いた。
私だけが思考の渦に飲み込まれ、微動もせずに停止していたのだ。
……足をくじいただとかそれらしい嘘を吐けば、傍にもう少しだけいられるだろうか。まだ抜け出せない渦の中からそんな我意が湧く。
「……縺れてつまづいただけだから、大丈夫だよ。ちょっと吃驚してて……。ごめんね」
認めてほしいのに足手まといを強調するのは本意ではない。我意を振り切ってどうにか笑うと、彼は見惚れる程端正な笑みを返し、身体を離した。

すると私達を囲むようにして科学班員たちが集まって来る。ジョニーが真っ先に私達に言った。
「アリス、無事でよかった……! ラビも、飯の途中だったのにありがとね!」
「真っ青な顔してすっ飛んできたから何かと思ったけど、間に合って良かったさ」
……やはり彼を巻き込んでしまっていた。しかも食事の手を止めさせて駆けつけて貰ったなんて。私が非力でなければ彼に限らず皆に心配を掛けずに……危険に晒さずに済んだのに。

「ごめんね」と誰の顔も見れないまま俯いて呟こうとした。すると額に私の肌より少し冷たい何かが触れて、押し上げられた。
二回目だ。汽車の時と同じように、顔を伏せるのを正された。正面を見遣ると、彼は嫋やかな微笑を見せた折柄、何かに気付いたように慌てて立ち上がる。
「やべぇ。そろそろ戻んねーとジェリーにどやされるかも」
私は上手く表情を作れず呆気にとられたままだ。けれど、咄嗟に彼の袖に手を伸ばして僅かに触れる。
「あ……の、ラビ。……ありがとう」
あれだけ気落ちしていたにも関わらず、何故彼を引き留め自然にその言葉が出せたのか、自身でもよく分からない。
しかし視線を交える彼はもう一度笑い掛けてくれる。ほんの一瞬見せたその笑い方は何処か稚く純朴で眼を奪われた。あの町で、何度か見せてくれた笑顔だ。
――今のは、作り笑いじゃない……?
気を取られている内に、ラビは背を向け軽快に走り去っていく。皆が其々に礼を飛ばしながら見送った。
私はその声に紛れ込ませて、もう一度「ありがとう」と呟いた。

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「いやー、コムリンが暴走して突っ込んできた時はどうなるかと思ったけど、アリスのお陰で誰も怪我が無くて良かった!」
消火活動が収束し危険が無くなった修練場内で、件の機体を前にしてコムイが高らかに言い放った。
「コムリン?」
「あの顔面に愛着と新しい発想を見出してね。あれはコムリンプロトタイプとして、今後の開発の参考にさせてもらう事にしたよ」
「なんか、余計なことしちゃった気がするなー……オレ達」

呆れた調子でタップが息を吐いた。その背をリーバーが軽く叩き私に向かって穏やかに笑んだ。
「まあそれはそれとして。ありがとな、アリス」
一瞬何に対してなのか、或いは聞き違いではないのかと眼を丸くした。私は感謝されるようなことを何もしていない。
「どうしたんだよ、そんな顔して。コムリンが突っ込んで来そうになった時、助けてくれただろ?」
「でも、あれは私が油断した所為で……」と小さな声で否定しようと口を開いたが、眼鏡の奥で真摯な眼を向けているような語気でジョニーが続く言葉を制止する。
「そんな事ないよ!元はと言えば室長のヘンテコなロボを使っちゃったオレ達が悪いんだから」
危うく大怪我をしかねない状況を作ったのは私だと言うのに、彼は心優しく気遣ってくれている。
繁忙の中、心身を擦り減らして団服や武器を仕上げてくれたのに、なんだか彼らの気苦労を増やしているようで、申し訳が立たない。
「ヘンテコとはなんだい!」
再び口に出そうとした「ごめんね」を告げるよりも早く、コムイが抗議の声を上げた。
じきにコムイと科学班員達が壊れた機体を囲ってあれこれと問答し始めた。私が余計な口論の端緒を作ってしまったのだろうかと狼狽する。諌めようにも誰に声を掛けたらいいのか迷いながら見つめていると、不意に何かが肩に触れて顔を向けた。

声の先を見上げると、リーバーが柔らかに笑んで盛り上がる皆を見つめている。
「……気持ちだけじゃ守ってやれねぇけど、団服や武器は多少なりとも助けになれるって皆思ってんだ。だから今日のアリスを見て、自分達が役に立ててる実感でテンションが上がっちまってんだよな。煩くて悪いけど、許してやってくれ」
「煩いなんて少しも思ってないよ。それに、私が一番皆に感謝してるの。服や、剣だけじゃなくて。自信と勇気もくれたから」
「そう言って貰えるなら本望だな。……。必ず、帰ってきてくれよ」
「うん……!」

「あー! リーバー君ちゃっかり良いとこ取りしてる!」
「うわっ、いつの間に! て言うか聞いてたんすか」
唐突に私の間近に現れたコムイが指差しながら茶化すような動きで高々と声を発する。すると口々に意見を唱えながら他の班員達も集まってきた。
周りの温かな笑顔に囲まれ、釣られて私も頬が緩む。何だかそれが無性に嬉しくて隣に立つコムイを見上げた。すると今度は、どこか気恥ずかしそうにはにかみながら優しくその大きな手を頭に乗せ、緩く撫でてくれたのだった。

]X

「おはよう。……あ、団服間に合ったんだ。アリスちゃんらしくて似合うね」
定刻丁度に地下水路にやって来たエマティットは、私と視線が交わるや否や、開口一番朗らかに言った。
「ねぇ?」と彼は続いて階段を降りてきたラビとブックマンの方へ振り向いて同意を求める。
ブックマンは当然関心が無さそうに無言を貫いている。それが普段通りだと理解しているので、無反応でも諦めがつく。
「オレ、もう昨日見たんだよなぁ」
しかし飄々とそう言ったラビは、昨日の最後に見た表情が幻だったかのように、何だかあまりこの話題を続けたくなくて誤魔化そうとしていると錯覚してしまう面持ちだった。勿論、自画自賛するつもりも褒められる自信があった訳ではないが、特に何の感想も抱かれなかったのだろうかと、彼の無関心にそこはかとない寂しさを覚えた。
「なに一人だけ抜け駆けしてんの」
「何だよ抜け駆けって」
笑いを交えたやりとりを見ながら、きっとラビに他意は無いのだと思った。否定も肯定もされていないのだから、気にしても仕方がない。それを表に出さないように、曖昧な笑みで私も特に気に留めていない風を装った。

「それよりアリス。乗れる?」
ラビが視線を向けた先にあるのは、羞恥の思い出がまだ脳裏に確と残っているあの小舟だ。
「うん。もう大丈夫だよ」
そうは言いつつも正直完全に克服できた訳ではない。
実は未だに深い水は恐怖でしかないが、毎日通い続けることで恐怖する事に慣れただけだ。内心では身が縮み上がりそうになっている。
しかしこんな簡単な事で周りに不要な心配をかけたくないので、普段通りの表情を保ちながら「見てて」と舟の縁に足を掛けた。
続いて極力軽やかに見えるように乗り込んでみせると、予期せず警備員の二人から歓声が上がり、思わず肩が飛び上がった。落ち着いて彼等に向き直る。
二人は途中からリナリー目当てだったとは言え、水に近づいては引き返す私の姿を何度も眺めては応援してくれていた。
ただ、これ程喜ばれるとは思ってもいなかったので、満面の笑みを向けてくれる彼等に対し、立ち上がったまま、礼を告げて手を振った。

奥に詰めて腰を下ろすと、エマティット達も続いて小舟に乗り込む。
「本当に大丈夫そうだ。頑張ったんだね」
「普通は出来て当然だけどね……」
褒められるのが少々気恥ずかしい。出来ない自分が普通ではないので、漸く周りと同じ立ち位置に到着したに過ぎない。それも出発位置にだ。
「そんなことないよ。な?」
「物にしがみ付いて嫌がってたのが嘘みてェさ」
ラビは相変わらず屈託無く笑っているが、やはり愛想笑いに見えて仕方がない。自分がもっと鈍感だったら良かったのに、と顔色ばかり伺おうとする性分に嫌気が差した。
一人で舟に乗れる程度では、まだこれから先に迷惑が掛からないと安心してもらう為の材料としては不十分なのだ。これからの行動で、信用に足る人間だと示さなければ。
――大丈夫。ちゃんと前を向けてる。
薄暗く同じ景色が続く暗渠を進む中、アイルランドは妖精が沢山いるらしいだとか、見飽きる程虹が見られるだとか、黒い発泡酒や蒸留酒の話など、エマティットとラビが広げる会話に交じりながらも、頭の中では己を奮い立たせる為の言葉を呪文のように唱え続けていたのだった。

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