そんなはなし。


 突然聞こえてきた笑い声に私は目を見張った。
 音源は右隣りからで、彼は携帯を弄っていたわけでも、誰かを見ていたわけでもなく、ただ空を見て嘲り笑っていた。

 一度白い息を吐き出して、私は息を詰めた。
 今日はあまり付いている日とは言えない一日だった。
 先生に雑用を命令されてクタクタになって、授業が長引いたせいで学食販売のパンは全部売り切れで、掃除当番を押し付けられて、しまいにはこれか。
 けれど、今日起こった中で一番酷い。
 いわゆる変質者というやつだ。

 関わりたくないな、と思ったのだが、どうして世の中は間逆の方向へ進んで行ってしまうのだろう。
 私は見なかったこととして突き通したかったが、彼の視線が私を捕まえる。
 どっと、汗が噴き出した。

 なんだろう、何が起きるんだろう。
 私はどうするのが最善だろうか。走るか。走ってここから逃げ出すか。

「いやぁ、今日もいい天気ですね」

 右隣りから声がする。
 ちらりと隣を見ると、私の方を見てニコニコと笑っている。
 視線だけで辺りの様子を見るが、秋風に吹かれて歩いているのは私と隣を行く彼だけである。
 他人との接触を極力避けたがる現代日本ではあまり考えられない事態だ。
 私は明らかに挙動不審になっているのをまじまじと感じた。

「は、はぁ…」
「今日みたいな日には、誰かを橋から突き落とすのが一番なんですよ」
 ニコニコと続けられて、私は濁した返事さえもできなかった。
 マフラーで埋もれた顔をなるべくそちらへ向けないように気をつけながら、目を丸くして、隣の男を見つめる。
 どうしよう。これは殺人犯なんじゃないだろうか。
 しかも殺すのを楽しむような特殊な方なのではないか。
 警察呼んだ方がいいかもしれない。
 というか何故私に話しかけた。
 アレか、お前を殺してやるという殺人予告か。

「そう…なんですか?」
「おや。貴方は唐芋はお嫌いですか?」
「…へ?」

 今度は不思議そうにこちらを見ながら彼は問いてくる。
「え…は?」
「いえだから。貴方は唐芋はお嫌いなのかとお聞きしたのです」

 話が飛びすぎて付いていけない。
 しかし問われた内容を少しだけ考える。
 唐芋とはアレか。
 サツマイモのことか。
 飛びすぎだろう、いくらなんでも。
 話の主旨が全く読めず、首をかしげつつ答える。

「好き…なのは好きですが」
「ならば何故突き落とさないのですか。絶好のチャンスではないですか」
 少しだけ馬鹿にしたような雰囲気に、視線を足元に落とした。
 何のチャンスだ。
 殺人とサツマイモの関係性を教えてくれ。

 こんな意味のわからない話をずっと聞いている必要などなかったのだ。
 今すぐにイヤホンを取り出して、お気に入りの音楽で頭を一杯にしながら帰宅するのが一番だと片隅の私は言う。
 けれど、彼の指さす先が気になって私はそうはしなかった。


「ほら、あのように」
 彼はまた笑う。
 彼が指さしたのは右側だ。
 桜並木の向こう側に続く土手の方だと思う。
 土手には一面を覆うほどのススキが穂を付けていて、太陽の光を浴びて輝いていた。
 河の水は少なすぎて見えないが、桜の隙間から、ススキが光って溢れださんばかりだった。
 向こう岸さえも、ぼんやりとした光に包まれて見ることは出来ない。


 その洪水の中で、橋が見えた。

 丸太を何本も連ねて、向こう岸へとかけている。
 住宅地、とまでは言わないが、私の住んでいる街にこんな古風な橋はあるはずが無い。
 いや、あって堪るか。
 何かの間違いではないかと瞬きを繰り返すが、一向に消えることなく丸太は存在する。

「…何あれ」
「橋ですよ。他に何に見えるのです?まさか鯨の肋骨なんてことはありませんよね」
 面白そうに彼は笑う。
 その口が三日月のようで眉にしわが寄った。

 鯨のあばら骨を見た事はないが、あんなに古ぼけて小さいはずはない。
 鯨の肋骨ならば美しいカーブを描いて、空まで届きそうなくらいのアーチになるはずだ。
 その少し黄ばんだ白はなめらかで、軽く叩けば透き通った音を立てるだろう。
 上を歩くことが存在意義なのにもかかわらず、そこを通ることが憚られる。
 間違っても、あんなにみじめな姿はしていない。

「…橋、ですね」
「だから言っているではないですか」
 彼は呆れたように鼻を鳴らし、前へ倣ってしまった。
 尚も彼は意気揚々と話を続けているが、洪水の隙間から見えた光景に固まった。

 橋の横に、おびただしい量の兎の死骸が積まれていた。
 
 一体だれが、このようなものを作り上げたのだろう。
 白いものが大半だが、茶色いもの、黒いものが模様のように混ざっていて、高い高い山になっていた。
 皆、首が異様な方向を向いている。

 何か言葉を紡ごうと口を開け閉めするが、何の音も出てこない。
 ぎょろりと、うつろな瞳と目があったような気がして背筋が凍った。
「意外と儲かるんですよ。特に婦人たちが夕飯のためのスープとして使うそうで」

 彼の言葉に我に返って、私は急いで辺りを見回した。
 知らぬうちに、帰り道から脱線してしまったようだ。
 薄暗く、街灯もない、うっそうとした森の中だ。
 振り向いて見るが、アパート一つ見当たらない。
 知っているのは、桜並木から見えるススキの洪水だけだ。

「どうかいたしましたか?」
 びくりと肩が揺れたが、構わず彼の方をみた。
 彼は眼を線のように細くして三日月の笑顔で、私を見ている。
 ざわりと不愉快な風が吹いた。
「貴方もぜひ、突き落としてみなさいよ」
 何も知らないであろう彼の笑い声が、再び空に響いていった。



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