"寂しい"の海


頭が下で足は上
けれども頭は足の上
どちらか見極めるすべもない
だってココには地面が無い

目が覚めると
青の木漏れ日の中に浮かんでいた

肺の中は水で満たされている
苦しくはない
気づけば慣れていたから
口から水を吐き出し
新鮮な水を飲み込む

私の中には、既に有害な空気は存在しなかった


ぷかりぷかりと
私ひとり海底十数メートル
誰もいない
肉眼では確認できない微生物がはびこっているかも知れないが
気にはならなかった

腹も減らない
眠気は少々


どんどん満たされていく
透き通った青色が私を照らす

もともと生物は海から生まれたというのだから
心地よくないはずがないのだ

無重力状態のここは
何の変化もなく
安心感に満ちていて
ひどく落ち着く


たまに暇した時
足元から浮かんでくる泡を捕まえて
二つに割る
両耳に当てる

泡の中に閉じ込められた
窮屈していた音たちが
大音量で流れ込んでくる

ギター、ベース、ドラム
機械音、金切り声、切り裂く音
それらが一つの塊になって
心を揺さ振る

この奏でられる音たち、
仮に音楽と呼ぶとしよう
これを聞くと
全身が鮮やかに彩られていく錯覚に陥る

色が着くのはもとより
空の色、風の匂い、笑い声
木漏れ日、雨音、軋む骨
鮮明に思い描けて
どことなく懐かしい

私は必死に全部全部
取り零さないよう
耳に押しあてて
音の海に溺れていく


ずっと私は
ここを漂って
音の泡に見送られながら
死んだ後も尚も
呼吸を続けて
喉の奥には藻が生えて
肺はウイルスの巣になって
ホルマリン漬けの
標本みたいに


ずっとずっと



『……って……で』

不意に聞こえてきたその音は
私の世界の均衡を破った
なんとも不愉快極まりない

誰だか知らないが
勝手に入ってこないでほしい
あるのは水音と音楽だけでいいのだから
やめろうるさいきえてくれ
『…えっ……いで』

嫌気が差した私は
聞きたくなくて
たまたま浮かんできた泡を掴んで
耳に押しあてて
音を掻き消そうと



『帰っておいで』



見覚えのある映像が
目の前を駆け抜けていく

戦慄が走る


思い出した、のだ


彼が困ったように笑ったから
私はいらないんだって気づいて
悲しくて悲しくて
涙が止まらなくて
溺れて、溺れて


今さら、いらない
いらないいらない



『帰ってきてよ』



水の中に水滴が混じる


ごぼっと
私は肺から気泡を漏らした



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