終焉フェスタ
「リュトンって知ってる?」
少年は言った。
相変わらず建物の残骸である傾いた柱の上に座り、いたずらっ子のような微笑みで僕を見下していた。
それを、僕は相変わらず死んだ目で見ている。あくまで、死んだような目だ。
僕はまだ死んでいないのだから。
ガラクタばかりが転がっている終焉の地には僕しかいなかったのだが、天からの使者が数日前にいらしてから、なんとなく様子が変わったような気がする。
ただあくまで気がするだけで、生き物は何一つとして生まれていない。僕しか遺伝子を持っているものはいないし、これから先生まれることもないだろう。全てが終わった後なのだ。
少年は仕事という名目で、遊びで来ている様にしか見えなかった。この数日間、どうでもいい話しかしていない。本当に、くだらない話だ。
この近くには何があったのか、人間の習慣について、僕の趣味、好きな店。今更そんなはなしをしても、何も帰っては来ないというのに。
まぁ、そんな感じだったから今日も今日とてくだらない話かと思って返事をしたのだが、どうやらやっと仕事をする気になったようだった。
「君が死ななかった理由を僕らの主も不思議がっててね。皆死ぬはずだったんだよ」
「それはそうだろうな。でないとこんな大惨事になってるはずがない」
「ところで終焉っていうのは、具体的にはどんな様子だったんだい?」
「非常に楽しそうなところ申し訳ないんだが、それがよくわからないんだ。夜寝て、朝目を覚ますとこうなってた」
それはもう、なんの前置きもなく、突然やってきた。
いつものように眠って、布団から起き上がってみると、目に映るはずの無い青空が広がっていた。辺りはすでに瓦礫の山、何の音もたてず、僕に気づかせる事もなく、世界は終わっていた。そう伝えると、少年は面白くなさそうに口をとがらせた。
「無駄に生きてる君なら、全部見てると思ったのに」
「残念ながらね。天から見てないのか?」
「いや、やっぱり生の声を聞きたいから」
「本当に根性悪いな。そんなに気になるなら、天にいる人たちに聞いたらいいじゃないか」
「残念ながらね、それは出来ないよ。彼らは記憶を失っているから。もう、言葉すら覚えてないよ」
一瞬衝撃を受けたが、なんとなく納得してしまった。世界とは、そんなものだ。
「君が残ったのは記録者となるがためだと思ってたんだけど、主にその意図がなかったとなると、君は生前リュトンの酒を飲んだんだろうね。その線が一番有力だ」
「その、リュトンって何だ?」
「やっぱり知らないんだ。自身で作っておきながら、これだから人間ってのは」
馬鹿にしきった目で見られるが、今に始まったことじゃない。特に気にせず、見上げて促す。
「酒を通す器の一種だよ。盃に注ぐ前にこれに通すと神聖な力が宿るんだって」
「あぁ、儀式的なものか」
「時代、国、種類によって意味合いは違ったみたいだけどね。その中でも君はうっかり不死の力を手に入れてしまったらしい」
衝撃を受けた。自分の知らないところで、自分は不死の力を手に入れていたなんて。全くもって、そんなものを望んでいなかったというのに。
「いや、それはこっちの台詞だから。本当にいい迷惑だよ。どこで飲んだの」
だがしかし、本当に身に覚えがない。そんな容器なんて知らないし、見た事もない。
「ちなみに、こちらが君のリュトンです」
嘘だった。懐から出されたそれを、僕は見た事があった。
「あ」
「知ってるんだ。知ってるんだ」
あーあ、と少年の口から攻め立てる言葉が飛び出してくる。けれど、確かにそれは僕のリュトンだった。断言できる。それは、僕のリュトンだ。
「僕が母の腹の中に入る前、」
「うん」
「僕はそれを通ったワインを飲んだ」
「あーあ」
今まで暮らしているうちは存在すらきれいさっぱり忘れていた。
まるで厳重に鍵をかけていた宝箱の中身をひっくり返したような、そんな感覚だ。あまりに鮮明に思い出せて鳥肌が立つ。
「あーあ。終わったね。どんまい。あとは頑張って。とりあえず帰っていい?」
飛んで行こうとする少年を必死に引きとめて、宝箱の中を漁る。
誰に飲まされたのか覚えていない。何故飲む経緯に至ったのかも覚えていない。
ただ、暗闇にその盃だけが鮮明に浮かんでいるのだ。白い山羊の胸元辺りに開いた穴から、赤黒い液体が流れおち、僕はそれを口にした。ブドウのような、甘酸っぱい風味が口の中いっぱいに広がって、初めて美味しいという感覚を覚えた。
「とてもおいしい赤ワインだったことしか思い出せない」
「山羊のリュトンで赤ワインなら、それは不死になるだろうね。悪魔の血だよ、多分」
心底呆れかえった声色だったが、呆れ切った瞳の向こうでほんの少しだけ好奇心が揺れている。どこまでも安っぽい話だが、どうしようもなく自分のことだった。
「飲ませた奴の目的が分からないから、何とも言えないけど。どうする?真実を知るまで生きてる?もうすぐ迎えが来るかもよ」
「正直なところ、今すぐ死にたい」
比喩ではない。もう、嫌だった。これ以上、生きてなどいたくなかった。生きてる間死んだように一人だったが、僕が僕である限り、ここにはあまりに何もなさすぎた。
「出来れば天の人たちの仲間入りをさせていただきたいんだけど」
「君があの中に入れるとは思えないけどね。何せリュトンの酒を飲んでいるのだから」
例えば盃に口づける前、皆死んだあとに迎えに来ると誰かと約束していたとして、それは前の僕であり今の僕で無かった。
もうそんな事実、覚えてすらいない。僕は何も持っていないただの人だ。僕に特別なんて何もないのだから。僕は誰も待ってやしないし、誰も僕を待ってやしない。
「それでも、」
「そんなに、君は死にたいの」
「あぁ、僕はそんなに死にたいんだよ」
「けれど悪魔の血を飲んだ人間が死ぬ方法なんて限られてるよ」
「それでも、死にたい」
「酷い話だね」
「終焉に独り取り残される方が酷い話だ」
「世界に独りだなんて、ロマンがあると思うけど」
「ひとつ残らず終わらせるはずだったんだろ」
「まぁね」
少年は笑った。なんとも天使に似つかぬ笑みだった。何を考えているのか、全く分からなかった。
「実は、ずっと考えていたんだけど」
「何」
「悪魔が死ぬ方法って限られてるんだよ」
「それはさっきも聞いた」
「悪魔が死ぬのは神聖なものを受け取るのが一番なんだけれど、ここにはもう何もないからね」
「…それは、」
「僕は君を殺すためにやってきたのかもしれない」
風の音すらしなかった。耳の痛くなる沈黙を破ったのはやはり少年だった。
「でも君だけ死ぬなんて、ずるい話だよ」
「…は?」
「本当に奇遇だね。実は」
僕も死にたいんだ。
少年は綺麗に微笑んだ。天使のような笑みだった。
「幸い、ここには君のリュトンと天使の血と悪魔の血のそれぞれが揃っている。さらに今は暁だ。抜群のシチュエーションだと思わない?」
これは、どうしようもない偶然だった。前置きは長かったが、つまりそういうことらしい。
僕らはそれぞれの杯を取り出して、互いの手首を切った。少年の肉は柔らかく、刃は強かに彼の内部へと食いこんでいった。
「天使を殺すには悪魔の血、悪魔を殺すには天使の血」
少年は四六時中そんな唄を歌っていた。彼の血が、白い山羊の腹部からこぼれ出す。
「並々でなくていいよ。口に含める程度でいい」
僕もまた、彼の為に血を注いだ。赤黒い液体が、彼の金色の杯を汚していった。
「実は、初めて君を見たとき、なんとなく懐かしい気がしたんだ。何故だろうね」
「僕は全く覚えがないんだけど」
「人間の記憶力って本当に薄情だよね。でもここまで来て確信したよ。僕は君を殺し殺される運命だったんだ」
「でも、なんとなく死ぬという感覚がしない」
「まぁそうだね」
「僕らはまた出会うような気がする」
「全く同じ事を思っていたよ」
僕らは心から笑いあった。こんなにも満たされた気持ちは生まれて初めてだった。
なんとなく気付いた。僕は彼とここで出会い、ここで死ぬがために、生前にリュトンを口にしたんだろう。
僕に山羊の血を飲ませたのは彼だ。だがそれが何の目的だったのか、何故僕はそれを認めたのかわからない。
思い出せない。
けれど、こんなにも僕らの気持ちは晴れやかであって、後悔はなかった。粛々と行われながらも、爽やかな朝日に祝福されながら僕らは杯を軽くぶつけた。
「では、よい終焉を」
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「リュトンに蜜を」