そんなに気になりますか
「…何か?」
隣の女性にこちらを見上げられて、意識が戻ってきた。ガタンゴトンと一定のリズムで揺られ、吊革に体重をかけてしまう。
終電近くでそんなに大きな路線でないから、人は疎らだ。車両には僕と彼女、そして後ろの方で寝入っているサラリーマンが一人いるだけだ。多分、彼女は人ごみを避けて乗っているのだろうと察する事が出来た。
「いいですよ。慣れてますから」
狼狽えていると、苦笑気味に返された。栗色のロングヘアーが揺れて甘い香りが嗅覚を擽る。今日初めて会った女性に対して不躾な視線を投げてしまったことを反省し、軽く咳払いをした。
景色が流れて行く。硝子が反射して、車内がはっきりと移っている。時折街灯が、線を描いて彼女の頬を横切っていった。
彼女の左頬には、模様が刻まれていた。タトゥーや入れ墨でインクを入れたような色ではなく、どす黒い深緑が肌の下から湧き出ているといった印象を受ける。
白い肌に歪な曲線がとぐろを巻いていて、不気味にこちらの様子を窺っている。彼女の雰囲気が春の陽射しのように柔らかであったから、余計に模様が浮き立って見えた。他の部位は彼女の手の内にちゃんと収まり、彼女もそれを受け入れて一つになっているのに、模様だけが黒いとなって自己を主張していた。彼女と同化しきれていないのが、ありありとわかって眉をひそめる。
「そんなに気になりますか」
苦笑の色を濃くして言われ、我に返った。
「い、いや…すみません」
「いいですよ。皆そのようなものです」
日本人の体質として、赤の他人の異質な部分を何秒も見るのは失礼だと、見て見ぬふりをするべきだと理解している。自分も何度もやってきた。街中で、駅で、図書館で。
けれど彼女のその模様からは目が放せなった。放す事が出来なった。引力が生じているように、目が離せなかったのだ。
彼女の白くて細い指が、頬をさする。当然ながら、曲線はじっとしたまま撫でられていた。
「子供の時からあったんです。生まれたときにはありませんでした。砂場遊びをしているときに、ユウ君から指をさされて初めて気づいたんです」
「大変失礼な話になりますが、隠そうと思われないのですか?」
「そんなに目立ちますか?」
彼女は不思議そうに曲線を行ったり来たりしている。桃色の整った爪がひどく妖艶だった。
「化粧では隠れません。うっすらと浮かび上がってくるのです。整形はする気にもなりません。気づく人は五分五分と言ったところなので、別にいいかなと」
はと、気づいた。
この電車に乗ってきて、彼女も座ることはしなかった。人が座っていない椅子に座ることはしなかった。
「それは……」
「別に、支障はありません。日に日に色が濃くなっていますが」
「…大丈夫なんでしょうか」
「わかりません。私はそういうものには疎いのです」
少し首を傾げてみせる彼女の動きは優雅で、それが余計にざらりとした違和感を誘った。
「何か心当たりは」
「次の夏に祖父が死んだくらいです」
「一度調べてみるべきでは」
「事例はないようです」
大丈夫ですよ、と彼女は案外楽天的に言った。本人がそれでいいと言ったのならば、それでいいのだろう。赤の他人が首を突っ込むべきではない。しかも、今日電車で知り合った程度なのだ。とやかく言えた義理ではなかった。
濃くなる、というのは気になるところだが、悪い物には見えない。何かの呪い跡かと最初こそ思ったが、まがまがしい、不吉、というより気味が悪いと言ったほうが正しい気がする。不気味に自己を主張しているだけのようだ。
僕も一般人で、そういったモノに詳しくはないのだが。
速度がゆるくなってくる。彼女が鞄の肩ひもを掛け直した。
「では、私はここの駅なので」
「あ、はい。では」
彼女は一礼して、降りて行った。歩き方も優雅で、とても美しかった。見惚れていると、彼女の歩いたところに黒いしみが出来ているのに気づいた。液体が零れた後のような染みだ。あ、と漏れた声と、ドアの閉まる音は同時だった。
そのしみが何であったのか、その後彼女がどうなったのか、知る由もなかった。
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120217
お題サイト:深淵
「そんなに気になりますか」