カカシ先輩とれ鼠 


私が暗部に配属されるよりも前から、カカシ先輩の名声は既に里中に轟いていて、忍としての類稀なる才能も、飄々としているようで実は仲間想いだという噂も、顔を半分隠していようが滲み出ている格好良さも、全て、手の届かない、憧れの存在として認識していたので、まさか、その伝説的存在のカカシ先輩と、こうして一緒に任務につけるようになるなんて、いつまでたっても一向に慣れる気配は無い。

いつも緊張はしてしまうけど、なんとか大きな失敗も無く、これまでの任務は遂行してきた。カカシ先輩と私が組むときには、なぜだか必ずテンゾウも一緒だからなのかもしれない。テンゾウとは昔からの付き合いで、一緒にいると気が楽なのだ。今回の任務も、カカシ先輩、私、テンゾウの3人で里外に出て、ちょっとした山賊集団的なものを壊滅させてきたのだけど、滞りなく任務を終えることができて帰路についたところだった。



昨晩から降り止まない雨は小雨になったり時折激しく降ったりを繰り返していて、任務を終えたころには霧雨程度になっていた。お面のおかげで雨粒が顔にかかる鬱陶しさはないけれど、頭から被ったマントは水分を含んでずっしりと重い。この雨ですっかり緩んでしまった地盤に何度も足をとられそうになるが早く帰りたいという気持ちが足を踏ん張らせた。帰ったらシャワーを浴びて、温かい汁物が食べたい。冷蔵庫には何が残っていただろう。



「嫌な予感はしてたけど、やっぱりか」



先頭を行くカカシ先輩の声が聞こえたかと思うと、見慣れたマントを纏った背中が眼前に見えた。全速力で走っていた私は止まりきれず一歩二歩たたらを踏んだ。とっさにカカシ先輩が腕を掴んでくれて、転ばずにすんだ。


「……危ないでしょーよ」


先輩がため息まじりにそう言って、私の前を指す。霧がかった視界では、はっきりとわからなかったけれど近づけばそこは絶壁の淵だった。腕を捕まれていたときめきがふっとんで、背筋が凍った。

下の方から、ゴウゴウと唸り声のように水が流れる音がする。この下には、雨で水量の増した川が流れているのだろう。カカシ先輩が腕を掴んでくれていなければ、私は谷底まで真っ逆さまだった。


「何かありましたか?」


数十秒遅れて、私の後ろに立ったのはテンゾウだ。同じく全速力で走ってきたはずなのに、息一つ乱れていない。面の下の表情は窺い知ることはできないけれど、いつもと変わらない、涼しい顔をしているのだろう。


「昨日の嵐で落ちたみたいだな……」


カカシ先輩の視線の先には、杭が二本立っていて、ちぎれたロープの結び目だけが残っていた。行きにここを通ったときには確かにかかっていた吊り橋が無くなっている。昨晩の強い風と雨で、老朽化していた橋が落ちてしまったようだった。

「この雨の中じゃ、向こう岸に渡るにも一苦労しそうですね」

激しい音をたてて流れる川を指しながらいうと、カカシ先輩が肩をすくめて「ま、報告は先に飛ばしてあるから、帰りが一日遅れても大丈夫でしょ」と言った。

橋が落ちてしまった地点から、川沿いに下っていくと、土手に降りることができて、獣道をかきわけて更に行った先に、その洞窟は姿を現した。

「テンゾウ、こんな場所よく知ってたね」

感心しながら隣を見上げると、「このあたりの地理には詳しくてね」と返しながら、テンゾウが先に洞窟に足を踏み入れた。カカシ先輩と私も後に続く。入り口は、屈まないと入れないほど狭かったが、中は開けていて、八畳ぐらいの広さがあった。

以前テンゾウが置いていったのか、それとも、この場所を知る他の誰かが残していったのかわからないけど、あちらこちらにカンテラが残されていて、火遁で火を灯せば、洞窟の中は十分に明るくなった。

火が燃え続けると言うことは、空気が通る穴は無数にあいているのだろう。酸欠になることはなさそうだ。雨風さえしのげれば、天気が回復するまで、充分体を休められるだろう。

ほとんど休み無く一日走ったので、さすがに三人とも体が疲れている。あの吊り橋さえかかっていれば、数時間後には里に着いて、自宅でゆっくり熱いシャワーをあびて、ふかふかの布団にもぐりこんで爆睡していたはずなのに。とりあえず今晩は、ここで交代で眠ることになった。

今回の任務は、いってみればたかが山賊という感じの、とある組織を壊滅させてきたのだけど、残党がいるとは思えなかった。それでも、念のため見回りをしてくるといってテンゾウが出て行ったので、私とカカシ先輩は二人きり、洞窟に取り残された。二人きりになるのは、今までにも何度かあったけれど、こんな薄暗い洞窟の中では初めてだから、なんだかドキドキしてしまう。

カカシ先輩がびしょ濡れのマントを脱ぎ棄ててお面を外す。その様子を目で追っていると、濡れた髪を鬱陶しそうに掻き上げる先輩と目が合って、心臓が一段と大きく高鳴った。その一連の流れがすごく様になっていて、思わず見惚れてしまっている私に、カカシ先輩は目を細めて穏やかに笑った。

「さすがに疲れたね」
「は、はい。……あ、いや、私はそれほどでもないんで、カカシ先輩、先に眠ってください」
「何いってんの。ナズナに見張らせて先に眠れないよ。ま、テンゾウが戻ってきたらテンゾウにまず見張らせて、テンゾウの後は俺が替わるからナズナはしばらく体休めといて。大分疲れたでしょ」

テンゾウ使いは相変わらず荒い先輩に苦笑しつつ、素直に「ありがとうございます」と言って先輩に倣い面を外してマントを脱いだ。

雨は一向に止む気配はなく、一段と激しさを増していた。暫くはここから出られそうにない。女の私は二人より体力が少ないし、今はお言葉に甘えて体を休めさせて貰って、回復してから見回りを替わった方が賢明だろう。それにいくら私が遠慮しても、先輩にはいいように言いくるめられてしまうのだ。

疲弊した重たい体を洞窟の壁に預けるようにして座り、背負っていた刀を傍らに置いた。髪や衣服から垂れた雫が滴る音が洞窟内に反響する。長時間雨に打たれて、マントの中まで濡れてしまっている。水分を含んだ衣類が体にぴたりと張り付いて気持ち悪い。今すぐ全部脱いでしまいたい気分だが、ここにはカカシ先輩もいて外にはテンゾウもいるからそうはいかない。せめて防具だけでも外したい。追手が来るとは考えにくいが今防具を解いてもいいものか。先輩に相談しよう、と視線を上げてぎょっとした。

「カカシせんぱ……っ!?」

目に飛び込んできたのは、上半身裸のカカシ先輩。防具どころがその下に着ているインナーまで脱いでいて、当然、いつもつけている覆面も外されている。先輩の素顔をこうして見るのは初めてで、整った鼻や口や、知らなかった口元の黒子にも釘付けだけど、それよりも、その水のしたたる上半身が色っぽすぎていたたまれない。呆然としてから、我に返り慌てて顔を逸らす。びっくりした。なぜ先輩は脱いでいるのだろう。服が張り付いて気持ちが悪い以外に理由はないだろうけど、ここには女の私もいるのだからもう少し人目を気にして欲しい。その惜しげもなく晒された素肌は刺激が強すぎて、目のやり場に困ってしまう。

「ん?どーしたの?」
「どどどどどーしたのじゃなくて……」

どもって明らかに不審な私を見て、カカシ先輩が不思議そうに首をかしげる。反射的にまた先輩を見てしまう。あぁやっぱりわかってたけど。カカシ先輩ってイケメンだなぁ。隆起した肩とか腹筋とかにみとれてしまう。……先輩って着痩せするタイプなんだ知らなかった。細身の人だと思っていたけど、やっぱり男の人だ。そりゃそうか。と、まじまじ感じてしまい、ぼうっと先輩を見つめてしまう。これじゃあ私は変態じゃないか。

「ナズナ、顔赤いけど大丈夫?熱でもあるんじゃない?」

濡れて力なさげに垂れた髪。体中に刻まれた古傷も先輩のものだと色気を感じる。洞窟の外から聞こえる雨の音が次第に激しくなり、夢でもみているみたいだ。

「おーい、ナズナ」
「はっ!!」

ようやく現実に引き戻された私を、カカシ先輩が若干あきれた顔で見ていた。


「本当に雨に打たれて熱でも出たか?」
「そそそんなことないです!」

近い近い近い近い!

カカシ先輩の顔がいつの間にか目の前に近づいて、心臓が止まりそうになる。私の顔の横に手をついて、距離がぐっと縮まる。前を向いてしまえば鼻と鼻がぶつかってしまうような距離に、堪らず俯いた。先輩の胸に手を置いて押し返して「ち、近いです先輩」と必死に訴えるけどびくともしない。素肌に触れた手が熱を帯びていくのがわかる。けどこの手を退くわけにはいかなかった。酷く頼りない、せめてもの抵抗。

先輩の髪から垂れた雫が頬に落ちる。その冷たさに顔を歪めると頬に先輩の手が伸びた。骨張った冷たい指になぞられて、体が強張る。雫を拭った手は離れるどころか、頬を何度か撫でた後、唐突に胸当てに伸ばされる。

「なななななんですか?!」
「このままだと風邪ひくでしょ、ナズナも脱いで」

とんでもないセリフを耳元で囁かれて、ゾクッとした。その間にあれやこれやと慣れた手つきで胸当てを脱がされる。

驚きすぎてもはや言葉も出ない。確かに濡れたままの恰好では風邪をひいてしまうかもしれないけど、だからって今脱ぐのはいろいろとまずいと思う。

「……先輩」

恥ずかしさと、体が冷えているからなのか声が震えてしまう。

「大丈夫何もしないから。だいぶ体冷えてるから人肌で温めあった方がいいでしょ?」
「そうだけどそうじゃなくて!……え、人肌って、ななな何いってるんですか!?」

パニックになっている私をみて、先輩が妖しく笑う。あ、もしかして私、からかわれているだけでは……。

「お前ってかわいいよね」
「ふぁっ!?」
「いいから早く脱ぎなって」
「いやいやいやいやもうすぐテンゾウも戻ってきますし、おち、落ち着いてください」

落ち着いた方がいいのはどう考えても私だけれど。

「……それってさ」


テンゾウがいなかったら“そういうこと”してもいいってこと?

「っ――」










「カカシ先輩、ナズナ?」

「わあああああああああああ!!」

いつの間にか戻ってきたテンゾウの声に、カカシ先輩を思いっきり押しのけて距離をとった。

「ナズナどうしたんだい?そんなに大声だして」
「な、なんでもない。外はどうだった?」

テンゾウは不思議そうな顔をしていたけれど、構わずカカシ先輩に外の状況を報告した。

「やはり雨は当分止みそうにないですね。追手がいたとしてもこの雨だと追跡は困難でしょう」
「まだ追手が来ないと決まったわけじゃないよ!テンゾウ交代!私外見て来ますね!」

要件を一息で言い切り足元の刀を手に取って出口へと走った。

「ナズナどうしたんですか?」
「……テンゾウ、お前ってほんと空気読めないよね」
「え?」





間一髪で抜け出した外は、さっきまでよりさらに強く雨が降っている。びしょ濡れになっても今の私にはちょうどいい。
恥ずかしさでほてった頭が冷えて、冷静になる。

さっきのは一体なんだったんだろう。正直、危なかった……。テンゾウが来なかったらあの雰囲気に流されて、一体どんな事になっていたのやら。カカシ先輩と私の間に、何かが起きるとは夢にも見たことが無いけれど。テンゾウが来てくれてよかった。……けど、ほっとしている自分と、どこか落胆している自分がいる。一体私は何を期待していたと言うんだろう。もしカカシ先輩と二人きりの任務だったら私はさっき……。

深く考えると恐ろしいので、ぶんぶん頭をふって、今は見回りに集中することにした。結局少しも休めないまま外に出てきてしまったのだけど。

掌に残る先輩の体温と感触だけは雨に流れることなくいつまでも熱を灯していた。







〜〜〜〜



「カカシ先輩、ナズナの事をあんまりからかわないでくださいね」
「……はいはい。お前の大事な子に手ーだしたりしないよ」
「僕とナズナはそういう関係じゃないですよ」
「へえ……?」
「先輩、何やらとても機嫌が良さそうですが……」
「さて、ナズナが心配だから見てくるよ」
「えっ!?僕休めないじゃないですか」


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