夢 | ナノ
もう一度
まぶたの裏が妙にまぶしい。霞んだ視界に最初に飛び込んだのは真っ白な天井だった。顎の下までかかっている布団の感触がいつもと違う。薬臭さが鼻をついた。

ここは病院だとすぐに気付く。目が覚めたら病院のベッドで寝てました、なんて経験は一度や二度じゃない。



とりあえず体を起こそうとしたら、全然力が入らなかった。麻酔でもかけられていたのだろうか、全身がだるい。そもそもどうして病院に運ばれたんだったっけ。

目を開けたままぼんやりしていると、「晴……?」と掠れた声に名前を呼ばれて、頭を横に倒したら、ベッドの脇にカカシが座っていた。

私を覗き込んだカカシの目が、一瞬潤んだような気がした。






「一週間、も?」
「そう、かなり危ない状態だった」

話しながら、カカシは器用にりんごを剥いている。紅が見舞いに来て置いていってくれたらしい。かなり危ない状態だった、というのは、私が病院に運ばれてきた時の事で、綱手様の手術が成功した後は、目覚めるのを待つだけという状況だったそうだ。

それにしても、1週間も寝込んでいたなんて事は流石に初めてで、驚いた。



目を覚ましてから軽い診察をして、それが終わる頃には自力で体を起こせるくらいに回復していた。背中の後ろにカカシがクッションを置いてくれたから、ベッドの上で楽に座っていられた。

そういえば、目覚めてからずっと、カカシはこの部屋にいる。今日は任務は無いの、と聞こうとして口を開いたら、いきなり冷たいものを押し付けられた。



「ん……、美味しい」
「そう?良かった」



しゃり、と甘いりんごはとても瑞々しくて、乾いていた喉に冷たかった。私がりんごを咀嚼する間、カカシはまたひとつ剥いて、私が飲み込むのを待っていた。

「カカシも食べていいよ」と言ったら「お腹が空いてないから」と、また私の口元に、白いりんごを差し出す。

リンゴくらい自分で食べるよ、と言いたい所だけど、実際うでを上げるのもまだだるい。

断って妙な空気になるのも嫌で、促されるまま、押し当てられたりんごを口に含んだ。

その時、カカシの人差し指が一瞬くちびるに触れて、たったそれだけで私はどきりとしてしまって、

唐突に、別れてからもう3ヵ月も経ったんだ、と実感した。





その日、面会時間が終わるまで、カカシはずっと部屋にいた。

私が寝ている間に、誰が見舞いに来ただとか、あの花はアンコが持ってきただとか、そういう他愛も無い話をカカシが教えてくれた。

カカシはずっとここにいてくれたのだろうか。何故か聞けなかった。

私が目を覚ましてからまだ一度もカカシは笑っていない。笑わないどころか、ずっと無表情で、何を考えてるのかまったくよめなかった。不機嫌、というのも違う。

カカシの顔を観察していて、目の下に隈が出来ていることに気づいた。なんとなくやつれたような印象もある。
私が起きない間ずっと心配をかけたんだろうか。申し訳なさと嬉しさと、複雑な気持ちで胸が一杯になった。


面会時間が終了してカカシが部屋から出て行くとき、私はやっと、「ありがとう、心配かけてごめん」と声をかけた。

カカシは「また明日来るよ」とだけ言って、その時ようやく、少し微笑んでくれた。









それから毎日、カカシは私の病室に来た。

もちろん彼は毎日任務があるので、任務を終わらせてから面会時間が終わるまでの短い時間だったけど、一日も欠かさずに会いに来てくれた。

たまに面会時間が終わってしまった時は、裏庭にまわって窓から顔を見せにきた。そんな風に律儀に、毎日毎日会いに来てくれる事が嬉しかった。

最初の日あんなに表情が無かったのが嘘のように、カカシは良く笑うようになった。それは私も一緒で、なんでもない話をしては二人で笑い合った。

まるで付き合っていた頃みたいだった。少し切なくて、幸せだった。この時間がずっと続いてほしいと願ってしまった。


カカシは責任を感じているから、見舞いに来てくれるのだ。

あの雨の日の任務で、ドジをしたのは私で、カカシは何も悪くない。それに、この怪我だって、全快には時間がかかるけど治らない怪我じゃない。だから、カカシが自分を責める必要は一切無いのだ。それなのにカカシは毎日私に会いにくる。

カカシの目の下の隈はいっこうに取れないし、いつも隠しきれない疲労の気配がした。ちゃんと眠れているのか、ちゃんと食べているのか、心配だった。私に会いに来る事で、身体を休める時間が削られているのかもしれない。

そうまでして会いに来てくれることが、嬉しい反面、やっぱり辛かった。カカシは何も悪くない、私はカカシを解放してあげなくちゃいけない。

ある日、意を決してカカシに言った。


「カカシ、毎日無理して来なくていいよ」
「……迷惑だった?」


「迷惑なんかじゃ……」

私の言いたいことがわかったのかもしれない。

「俺が来たいから、来てるだけだよ」

カカシは有無を言わせない笑顔でそう言った。

その優しい言葉に、結局私は甘えてしまうのだ。




そうこうしているうちに、退院の日がやってきた。

安静にしていたおかげで、私の体力は日常生活に支障が無いくらいに戻った。腹部に傷跡が残ったものの足や腕の神経は無事だった。体のなまりをほぐせば、また任務に復帰できるだろう、と綱手様が言った。


その日もカカシは病室に来てくれていた。お世話になった医療忍者の人たちに挨拶をして病院を出た。カカシは私の荷物を持ってくれた。最後まで申し訳ないと思うとともに、やっとカカシを解放してあげられる日が来たのだと、ほっとしていた。

それ以上に、寂しい気持ちが強かったけれど、表に出さないように気をつけていた。




久しぶりに歩く私を気遣ってか、カカシは至極ゆっくりと歩いてくれた。だけど私は俯いてしまいそうになる顔を見られたくなくて、あえてカカシの少し後ろを歩いた。

入院している間はあんなに毎日話していたのに、今は二人とも言葉少なだ。

カカシは今何を考えているのだろう。猫背の後姿をぼんやり見つめた。





「雨が降りそうだね」

「ほんとだね、少し寒くなってきたかも」



灰色の空を見上げた私の頬に、雨粒がぴしゃりと落ちた。



「あ、降ってきた」



言うが早いか、大粒の雨がぼとりぼとりと降ってくる。振り向いたカカシと顔を見合わせた。もう商店街を抜けていて、雨宿りできそうな屋根は無い。



「走れる?」
「うん、たぶん」
「じゃ、コレ頭にのせて」


カカシがベストを脱いで、私の頭の上にかけた。荷物を持っていないほうの手で私の手を掴んで、カカシは走りはじめた。走るといってもゆっくりめで、やっぱりカカシは優しいなと思いながら、ろくに前もみずに後をついて走った。



「ここ……」
「俺の家の方が近かったから」



三ヶ月ぶりに見るその建物は、飛び出したあの日のまま何も変わっていなくて。

唯一変わってしまったはずの私達が、あの頃のように手を繋いでいる。
それが滑稽に思えて、哀しかった。










「座ってて。飲み物出すから」
「うん……ありがと」


三ヶ月ぶりに訪れたカカシの部屋は何ひとつ変わっていなかった。

あの、赤いソファーもそのままで、見た瞬間なつかしさで胸がいっぱいになった。

カカシに差し出されたタオルで、濡れた髪をふきながら、目頭が熱くなるのを隠した。



カカシがコーヒーを持って部屋に戻ってきた。「熱いからね、」と言って、カップをテーブルに置く仕草も、ふわりと立ち込める優しい匂いも、何もかもが懐かしい。タオルをかぶったまま、ありがとうと言うので精一杯だった。カカシは私の隣に腰をおろした。ソファが音をたてて軋む。

カップに口をつけながら、なんとなく気まずくて黙っている。隣に座るカカシの気配を感じていた。カカシも黙っているから居心地が悪い。

窓越しに聞こえる雨の音が、沈黙の部屋に染みてきた。


「雨、止まないね」

勇気を出して声をかけたのに、返事が無い。
怪訝に思って、ようやく私は隣を見た。


カカシは座ったまま、目を閉じていた。

「カカシ……?」

肩に触ると、そのままボスンと反対側に倒れる。穏やかな寝息と、規則正しく上下する体。カカシは紛れも無く眠っていたのだった。


やっぱ、疲れていたんだな。

そっとソファーから立ち上がって、寝ているカカシの顔をのぞきこんだ。
目を閉じていると、隈が目立つ。それに、やっぱり痩せたような気がする。細くなった頬にそっと触れた。


こんな風にカカシの側にいられるのは、
今日で最後かもしれない。

鼻の奥が熱くなった。ぼたり、涙が落ちて、カカシの顔にかかる。

そうだ、あの日もこんな風に……。


思い出したのは、あの日、意識が途切れる寸前に見たカカシの涙。

どうして忘れていたんだろう。

もう自分は駄目だと思った、絶命の淵に、私は初めてカカシの涙を見た。目を真っ赤にして、私の名前を、何度も何度も呼びながら、大粒の涙をあんなに零して。あの時私はどう思ったんだっけ、何て言ったっけ。


それともあれは、夢だったんだろうか。だってカカシが泣くなんてありえない。病院で目を覚ましてからのカカシは、今まで通りだったし。私を見ても涙なんて流さなかった。


私が泣き虫なのは相変わらずだ。すん、と鼻をすって、涙を拭った。

毛布をとりにいこうと立ち上がったら、カカシが呻くような声をあげた。


「晴……」

眉を微かによせて、私の名前を読んだ。

「カカシ?」
「……晴……」

どうやら寝言のようだ。私を呼ぶその声は、弱々しくて、まるで迷子のようだった。

「……っ、晴、」
「カカシ……」

わたしはここにいるよ。

カカシの頭を撫でながら、胸が締め付けられそうだった。付き合ってた頃、カカシはよく夜中に唸されていた。……こうして私の名前を呼んだのは初めてだった。

「カカシ、大丈夫だよ、」

カカシが私の名前を呼ぶのは、私が悪夢の原因だからなのかもしれない。それでも、縋るようなその声が嬉しくて、愛しくて、カカシの頭を優しく撫で続けた。

次第に、寝息が穏やかになり

強張っていた体からも、力が抜けた。














目を覚ますとオレはいつの間にかソファーで眠っていた。ぼんやりしながら体を起こす。毛布が体から滑り落ちた。


晴……?


途端に意識がはっきりとして、慌てて部屋を見渡すが、晴の姿は無い。

そうだ、雨がふってきて、それで、

テーブルの上にあったはずのカップが片付いている。……いや、そもそも、


あれは夢だったんじゃないか?


腕の中で冷たくなった晴の体
じわじわと血が流れて、雨がそれを流して、晴は最後に、小さく笑った
あの時の重さを、感触を、ぞっとするほどリアルに思い出した


一体どこからどこまでが夢だったのか


すっかり薄暗くなった部屋は、まだ夢の続きのようにおもえた。寒くもないのに、体ががたがたと震えだす。

違う、あの冷たさも重さも、夢の訳がない。


じゃあ、さっきまでここにいた晴は……?


窓の外を見ると、雨はふっていないようだった。やんだのか、もともと降っていなかったのか。どっちなのかわからない。次第に動悸が激しくなる。

落ち着け、そう命じても、頭の中に不安が広がっていく。体は馬鹿みたいに震えて、恐怖としかいいようのない感情が、全身を包んでいく。

晴はどこだ?帰ったのか?それとも元々……

確かめるのが怖い。もう何日もまともに寝ていなかったはずなのに、オレはどうして寝ていたのだろう。

顔を覆って、落ち着いて考えようと、俯いた時だった。

その匂いに気づいたのは。




(魚の焼ける匂い?)


がば、と立ち上がり、慌ててキッチンに向かう。徐々に覚醒する頭は、やっと大事な事を思い出した。そうだ、血まみれの晴をオレはすぐに病院に運んで……




明かりの漏れるドアを開けると、晴が立っていた。


「あ、カカシ起きた……」



振り向いた晴を思いっきり抱きしめた。


生きてる……



「カカシ?」
「……」
「怖い夢見たの?」
「……うん」


オレはガキみたいに震えながら、ただ、晴を強く抱きしめていた。

晴を失うかもしれなかった恐怖で、今も心臓が五月蝿い。腕の中の温もりが、なんどもこの胸に抱きしめた大きさが、混乱したオレを徐々に宥めてくれる。もう何日もこうして触れたいのを我慢していたのだ。

晴の腕が背中にまわり、あやすように叩かれた。


「だいじょーぶだよ、私はここにいるよ」


その声を聞いた瞬間、何かが決壊した。


もう、自分がたっているのか座っているのかも解らない。嗚咽が部屋に響いている。……それは自分の声だった。

身体の震えはますます酷くなり、晴にしがみついたまま、膝をついた。

自分がこんなふうに泣くなんて知らなかった。誰かの前でこんなに泣いたことは無い。いや、一人の時も無かった。


「ごめんね……カカシはずっと我慢してたんだよね」

抱きしめていたはずの晴に、いつの間にか抱きしめられていた。

「私ね、ずっとカカシに頼ってほしかった。私じゃ頼りにならないかもしれないけど、こんな風に、私に甘えてほしかったの」

違う、晴が頼りないなんて思ったことは無いんだ

そう口に出したいのに、息を整えるのに苦しくて、言葉にできない。



頼り方なんて知らなかった



「私はずっと、勝手にひとりでいじけてた。頼ってくれないのをカカシのせいにして、何も言わないカカシをずるいと思ってた。ずるいのは、私なのに」
「晴はずるくなんか……」


ずるいのは晴じゃない。

ずるいのは、弱いのは……、



続けようとした言葉は、晴の唇にふさがれた。既視感。あの日と同じ、涙の味がする。違うのは、ふたりとも涙でぐしゃぐしゃだってこと。





「カカシ、愛してる」






その言葉は。

あの月の綺麗な夜、何よりも欲しかった言葉だった。

真っすぐに見つめてくる晴の瞳は、どこか決意に満ちている。


今までで一番、綺麗だと思った。






「……独りにしないで」


晴がいないと眠れないんだ。





あの日、言えなかったそれは、母親にすがる子供のように情けない声で。自分で自分に笑ってしまった。

そんなオレを見て、晴も一緒になって笑ってくれて。




笑った顔が、雨あがりの空みたいだ。






彼女の存在がオレのすべてを剥き出しにする。もう独りじゃいられないくらいに。

end.
090602


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