玄関ドアが開いた音で目が覚めた。 「晴、寝てるの?」 廊下を歩いてくる足音。「晴?」と呼ぶカカシの声をもっと聞いていたくて、寝たフリをする事にした。 「まーた、こんなトコで寝ちゃって」 突然ふくらはぎを捕まれて、声を出してしまいそうになるのを必死にこらえた。ソファからはみ出た私の右手と右足を、カカシが直してくれたのだ。少し間があって、柔らかな毛布が肩までかけられた。 目覚めた時は冷え切っていた肩がぬくぬくとしてくる。ああ、また眠くなってきちゃったかも。私の頭側の空いてるスペースにカカシが腰をかけて、ソファはギシリと音を立てた。二人で暮らしはじめて一番最初にかったこの赤いソファは、私が寝そべってもまだ人が座れるくらい大きい。そう広くは無いこの部屋だけど、二人が二人このソファの坐り心地に惚れてしまい、色も赤しか無かったのだけど即決で買ってしまった。 血のまじった土埃の匂いがする。私だって忍の端くれだ、カカシがこの部屋に入ってきてすぐにそれに気づいた。ソファで寝ている私を抱き上げてベッドに運ばなかったのも、それが理由だろう。カカシはいつもそうだった。大きな任務――人を何人も殺めるような――の後は、カカシは絶対に私に触ろうとしない。シャワーを浴びて、全身に渇いて張り付いた返り血を、綺麗に落とした後でもだ。しきりに腕の匂いを嗅いでは、眉をしかめていた。私が嗅いでもきっとボディソープの匂いしかしないのに。 そんな時、いつも、カカシは笑ってごまかすのだ。眉を下げて、何でも無いように。泣きたいときに泣けない事ほど辛い事は無いと、私だって知っている。だから、そんな風に哀しく笑うカカシを見ると、抱きしめて、大丈夫だよって言って、頭を撫でて、泣いてもいいんだよって、そう言いたくなる。 なのにカカシはそれを許さない。私が労いの言葉をかけようとすることさえ許さない。「ねぇ、カカシ、」続けようとした言葉をいつも失ってしまう。それはカカシが悲しい顔をして笑うから。ねぇ、どうしてそんな顔をするくせに、あなたは弱音のひとつも吐かないの。私には弱音を見せたくないの? きっと違う。そうじゃなくて、カカシは解らないのだ。弱音の吐き方も、涙の流し方も、恋人への頼り方も。その癖、私が弱っているときはいつだって耳を傾けてくれる、胸をかしてくれる、頼りになってくれる。 器用で、とても不器用な人。 カカシを甘えさせてあげることの出来ない私は恋人失格かもしれない。だけど、どうすればいいのかわからない。手を伸ばしても彼は振り払ったりしないだろう。だけど、それはカカシが優しいからで。結局、甘えさせるどころか甘えることになってしまうような気がした。 そんな胸の内も、カカシはきっとわかっている。もしも言葉にしたら、「晴、考えすぎ」って優しく笑って、私を抱きしめてくれるに違いないのだ。ちがう、私は抱きしめられたいわけじゃない。 人を沢山殺めた夜、決まってうなされている事にカカシ自身は気づいていない。 一緒のベッドに入っても、顔を見合わせて眠っても、カカシは私を抱きしめたりしない。いつもは抱きしめて眠るくせに。 おやすみ、と言葉を交わしてからずっと、眠ったふりをして本当は眠れていない事も知っている。だって私も寝たふりをしているから。私が完全に寝たと思ったらカカシは私に背を向ける。そんなカカシの後ろ姿を、私はいつもうっすら目を開けて確認する。カカシは気づいて無いのだけど。 しばらくして、やっとカカシの寝息が聞こえてきて、それからすぐに彼はうなされはじめる。カカシ、と名前を呼びながら、横を向いたカカシの、肩のあたりを撫でてあげるのだけど、それでも唸され続けていて、左手でシーツを握りしめているのが音でわかる。 揺すっても揺すっても目を醒まさない。 唸り声が嗚咽のようで、聞いているだけで切なくて、カカシが今何の夢を見ているのかも、今日の任務がどんなものだったのかも、私は知る術を持たなくて、それが悲しくて、悔しくて、だけどどうしようもない。どうしたらいいのかわからない。 ソファに座ったまま、カカシが動く気配は無い。きっと今も頭を抱えて俯いている。だけど私が目覚めてしまえば、また何でも無い風に笑って見せるのだ。自分がどんなに悲しい笑い方をするか、彼はまったく気づいていない。 寝たフリをしたのはどうしてだったっけ。ああ、そうだ、「晴」と呼ぶカカシの声が耳に心地良くて、もっと聞いていたかったんだ。どんな任務の後も、帰ってすぐに私の名を呼ぶ。抱きしめてくれない夜があっても、そうして私の名を呼ぶくらいには、私はカカシに必要とされているのだ。それが実感できるから、名前を呼ばれるのは好き。 でも、本当にそれだけ? もう、私の名前を呼ぶわけでもなければ、ため息をつくでも無いカカシ。同じソファに座っている、その感触はわかるのに、目を開けて確認しないのは何故だろう。暗い顔をしているカカシが見たくないから?私が起きていることに気づいた途端悲しく笑うカカシを見たくないから? わからない。どうしたらいいのか、カカシはどうしてほしいのか、そもそもカカシは私にしてほしいことがあるのか。そして私はどうしたいのか。 何ひとつわからなくて。 わからないから逃げているのだ。 寝たフリをしている、ずるい私。 もしかしたらカカシは気づいているのかもしれない。けれど、何も言わない。カカシはずるい。 そんなふうに決めつけて怯えて、確かめようともしない私はもっとずるい。やっぱり、ずるいのは私だ。 どうしたらいいの。 どうしてほしいの。 目尻から涙が伝い落ちる感触がした。 息が震えてしまわぬように気をつけている私の、不自然な呼吸に、カカシが気づかないはずはない。 やっぱりカカシは気づいている。 私が起きている事も、何を考えているかも、きっと。 これ以上彼に重荷を背負わせたくないのに。 ああ、もう駄目だ もう、これ以上は それから半月もたたないうちに私達は別れた。別れよう、と口に出した訳では無いけれど、私達はもう終わってしまったのだとお互いに解っていた。私達は一緒にいても笑わなくなった。愛しているのに、愛されていたのに。 私がカカシの部屋から出ていったのは、月の綺麗な晩だった。別れ際に彼が言った一言は反則だった。 「晴、愛してる」 やっぱりカカシはズルイ、玄関のドアノブに手をかけたまま、涙が止まらなかった。 私だって愛してるよ。そう言えたら違っていたんだろうか。現実には私は、唇を噛んで黙るしかできなかった。 そんな顔をして愛してるなんて言う人がいる?そう文句を言ってやりたいくらいだった。カカシの悲痛な顔は、もう見飽きていた。哀しくて痛い、笑顔。 「晴、幸せにしてあげられなくてごめんね……」 それは私のセリフでしょ。 「晴、愛し」 それ以上言わないで。 唇に噛み付いた。涙を含んだキスは塩の味がした。 だけど涙を流しているのはやっぱり私だけで。最後まで涙を見せてくれないんだね。だけどカカシは心の中で泣いていたのだ。いつだって、独りで泣いていたのだ。今更、やっと気づいたよ。その涙を止める方法がわからなかった。目に見えない涙をどうしたら止めてあげられたのだろう。それは今になってもわからない。ごめんねカカシ、幸せにしてあげられなかった。ごめんね。 長い長い口づけの間、後悔と悲しみと愛しさがないまぜになって、息継ぎも忘れていた。唇を離すと、酸素が欠乏した頭がくらくらした。 「晴は、ずるいね」 それは、別れ際にキスをしたから?それとも…… 聞けない私はずるいね だけどカカシもずるい それが、私達の最後のキス そう、思っていた。 「晴っ……晴……」 消えいりそうな声がする、懐かしい声が。 「晴、………」 誰の声だっけ、思い出せないや、だけどすごく落ちつく、低い声。 私、名前を呼ばれるのが好きだった。 「晴、起きろ……!!晴、」 あ、寝たフリ、ばれちゃった? だけど今はほんとに眠いんだ だから寝かして、 「お願いだよ……晴……目を開け」ザアアアアアアアアアアアアアアア 酷いノイズ ああ、消え入りそうなのは、カカシの声じゃなくて うっすらと目を開けた。 最後の力を振り絞って。 目の前に、濡れた銀色、綺麗な、二色の目、 雨がふっている、 ああ、思い出した、私、 クナイ、沢山の敵、カカシとの任務、足の感覚が無い、違う、全身なにもかんじない、そうだ、崖から落ちて、おもいっきり体をぶつけて、ちっとも痛くない、声は出ないけど痛くないんだよ、だから泣かないで、涙が顔に、……涙? 雨がふっている、びしょびしょに濡れたカカシの顔、ああ、悲しそう、何か言ってるけど聞こえない、真っ赤な左目と、深い紺色の右目から、とめどなく溢れる涙、 ああ、やっと泣けるようになったんだね、 「晴…晴…」 「カ……シ…」 「!!晴!?」 「…カ…っカ、…ゲホッ」 「晴、喋らないで!!待ってろ、すぐに、」 もう無理だよ、カカシ、 やっと、やっとカカシを抱き締められるのに、腕が動かないんだ、 カカシの涙の冷たさもわからないんだ 「…カシ……」 「晴、喋っちゃだめだ」 「ナい…て……」 「晴!?」 「泣イて…い…いんだ……よ、」 もう、哀しく笑ったりしないで、 そうやって、両の目を真っ赤にして、 泣いているカカシが見れて良かった、 最後に 「…うああああああっ…晴、…晴っ…」 最後に、 「晴……」 名前を呼んでくれて ありがとう ああ、もう、目が見えない カカシの声も聞こえない、 五感が闇に閉ざされる、 その寸前に、 最後に感じたのは 唇に触れる、僅かな熱、 最後のキス 私は幸せだった。できるなら、あなたも幸せにしたかった。最後まで我が儘言ってごめんね、抱きしめてくれてありがとう 090517 |