大体世の中の恋愛至上主義にはうんざりしているんだ。 飲み会の話題といえばもっぱら誰と誰が付き合っているだとか、誰々が別れたらしいだとか、最初に付き合った人の話だとか、そんな事ばかり。なんだって皆、そんなに、愛だの恋だのの話が好きなんだろう。 わたしは何も、「恋バナ」が嫌いなわけでは無い。だけど、彼氏もいなければ好きな人もいない、正直にそう話しただけで、「枯れてるね〜」って、何だそれ。失礼にも程がある。 わたしは枯れてなどいない。むしろ生き生きしているほうだ。忍稼業には生きがいを感じているし、その為の修行だって欠かしていない。体を鍛えることは好きなので、修行は趣味と実益を兼ねている。毎日が忙しい。休む暇も無いほどに。 「えー、そんなに忙しいの?それじゃあ彼氏といつ会うの?」 今のところ彼氏と呼べる存在はいないので、特に困っていない。その旨を正直に告げると、サクラは呆れた顔をして、「そんなんじゃ婚期逃すわよ。私が紹介してあげようか?」とありがたくない提案をしてきた。 「結構です。お気遣いどうも」 「あっそ……。まったく晴はお堅いんだから」 「堅くて結構」 そんな会話をしたのは先週の事だったか。サクラと飲むのは久しぶりだったのに、終始、「あんたに似合いそうな男は〜」などと分析され、恋愛談を熱く語られ、なんだか、すごく疲れた。あげく、「晴って男に興味無いの?まさか女の子に興味があるとか……?あ、私は彼氏いるから、ごめんね?」と冗談とも本気ともつかないような声音で言われた。流石にもっていたジョッキをテーブルに叩き付けたけれど。 わたしだって、恋愛くらいしたことはある。もちろん相手は男の人だ。 ただ、それは一方通行な思いでしかなかった。一方通行だとわかっていて、それでも、ずっと好きなままでいた。それが最初の恋で……思いを告げることすら叶わないまま、その人とは、簡単には会えなくなってしまった。 いや、正確には、今でも会える。それも、ほぼ毎日のように。 ただ、昔のようには簡単に声をかけられなくなってしまったというだけで。 『カカシ先生―!』 あの頃は、気軽にそう呼べば、いつでも振り向いてくれた。優しい笑顔を浮かべて、わたしの頭をくしゃくしゃと撫でてくれた。その手は今は、わたしだけのものでは無くなってしまった。……あの頃だって、わたし一人のものでは無かったのだけど。 先生の暖かい、大きな手が、小さな子供の頭をくしゃくしゃと撫でている。沢山の子供たちに囲まれて、カカシ先生は昔と変わらない、穏やかな笑顔を浮かべている。 「火影さま!オレさ、今日、手裏剣のテストに合格したんだ!」 「そうか、よくがんばったね。カイは毎日遅くまで練習していたもんな」 「ねぇねぇ火影さま!アタシもクナイのテスト一位だったんだよ!」 「へぇ、ミカンも?」 「おいミカン!火影様は今オレと喋ってんだよ!邪魔すんな!」 「はー!?カイの話はもう終わったでしょ!」 口論をはじめた子供たちを、カカシ先生……火影様は、楽しそうにみている。やがて、どっちの頭もぽんぽんと撫でて、「もう遅いから帰りなさい。お母さんが心配するでしょ」と言った。その口調こそ、母親みたいに優しかった。子供たちは素直に、はーい、と返事すると、一直線に、それぞれの家の方角へとかけていく。同じように巣に帰る烏たちが鳴きながら、夕日の中を飛んでいた。 「晴。なーにこそこそのぞいてんの、お前は」 「……気づいてらしたんですか」 身を隠していた木から飛び降りて、地面に着地すると、もうカカシ先生は、目の前に来ていた。 「火影様、こんなところにいていいんですか?」 「こんなところって言ったって、アカデミーの前でしょうが。……ま、執務室には腕のいい補佐を置いてきたから大丈夫だ」 『あの人、しょっちゅうオレに仕事を押し付けて、執務室から逃亡しやがるんだ。まったくとんだ火影だぜ。何でオレが補佐になんか……めんどくせー』 そう言っていた同期の顔を思い出す。頭の切れる彼の目元にはかなりの疲労がたまっていた。相当カカシ先生にコキつかわれているんだろうな。まだ若いのにご愁傷さまである。 それでもわたしはシカマルが羨ましい。わたしと同じ年なのに、カカシ先生の横に立って仕事が出来ることが、心の底から羨ましい。 「久しぶりだね」 「……久しぶりって、今朝もあったじゃないですか」 今朝も、その前も。毎朝、任務内容を聞くために顔をあわせているのに、忘れているとでも言うのだろうか。それとも、毎朝沢山の忍に任務を伝えているため、一人一人の動向など、いちいち記憶していないのだろうか。 「しかめっつらするんじゃないの」 「しかめっつらなんてしてません」 「口がこんなふうに曲がってたよ?」 火影の羽織と編み笠をまとうようになってから、カカシ先生はマスクを外すようになった。綺麗な口元が、への字にまがる。それがわたしの真似なのかと思うと悔しくて、わたしは慌てて口の端をあげる。楽しくも無いのに笑顔をつくる作業は、酷く滑稽だった。奇妙に引きつった表情になってしまったのを覚悟で、先生の目を、まっすぐ見つめた。 「こんな風にゆっくり話すのは久しぶりだなって、そう言いたかっただけだよ」 「……そうですね。でも、はやく戻らないと、シカマルが怒りますよ」 「もう怒ってるかもね、はは……」 カカシ先生が、もう隠さなくなった素顔で笑う。優しいその笑顔をみて、胸が痛くなるのはなんでだ。わたしはもう、諦めたはずなのに。 カカシ先生が火影になって、カカシ先生はますます、里中の人からモテるようになってしまった。先生がますます遠くなった気がして、わたしは面白くなかった。……面白くなかった、なんて言ってられたのも、最初のうちだけだった。先生は、悲しむ暇も無いほどのはやさで、どんどん、わたしたちから遠ざかってしまった。もともと、ただでさえ開いていた、先生との差は、もはや埋めようもなく、ますます広がるばかりで。わたしは抗うことも出来ず、ただ立ち尽くしたまま。 「お前最近、がんばってるね」 「そんな……わたしはまだまだ……」 いつの間にか俯いていた顔を上げようとしたとき、頭の上に、懐かしい感触がした。目を見張って先生をみると、先生はやっぱり、懐かしくてたまらない笑顔で、わたしを見ていた。くしゃくしゃ、髪を撫ぜられる。さっきの子供たちのように。 「せ、先生……」 「んー?」 「わたしはもう、子供じゃ……」 「……でも、嫌じゃないでしょ?」 「……何で」 「だってお前、自分も撫でて欲しそうな顔して、俺の事見てたもん」 「……っ」 顔に血が上るのが、自分でも解った。羨ましそうに、先生と子供たちを見つめていたこと、先生にはバレていたんだ。恥ずかしい。それに、悔しい。 やっぱり先生は、何年たっても、見上げるほど大きくて。 わたしなんかが届かない高さから、手を差し伸べる。 それは決して、わたしを見下しているわけではなく。 抗いようの無い、優しい感触。されるがまま、頭を撫でられて。 どうしようもなく切なくなった。 どうしようもなく苦しかった。 どうしたら、わたしは、先生に近づけるんだろう。 もう諦めたはずなのに、こんな事を考えてしまうわたしは、何にも成長できていない。 「そういえば……」 先生は私の頭に手を置いたまま、口を開く。 「晴に先生って呼ばれるのも、久しぶりだな」 「……あ、」 意識して、『先生』と呼ばないように気をつけていたのに。もうカカシ先生は、わたしたちだけの先生じゃないから。木の葉の里の、火影様なのだから。 「し、失礼しました、火影様」 「……前から思ってたんだけどね、」 「はい?」 「火影様って呼ぶのやめてちょーだい」 「えっ……?」 じゃ、じゃあなんて呼べば? 「……カカシ様?」 「……ま、それも悪くないけど」 カカシ先生は何故か少し、照れくさそうに目をそらした。 それから、わたしに目線を合わせるように、少し腰をかがめる。 「前みたいに、カカシ先生って呼べばいいでしょ」 「……でも、」 「いろんな人に火影様火影様って呼ばれるから、……たまには違う名前で呼んでほしいのよ」 カカシ先生でも、やっぱり重圧とか、感じるんだろうか。 「カカシ、先生……」 「ん、ごーかく」 カカシ先生は本当に嬉しそうな顔をして、わたしの頭をもう一度撫でた。 わたしは嬉しいような苦しいような、ふしぎな気持ちになって、ついに涙が出てきてしまった。 「お前に火影様って呼ばれるたび、なーんか距離感じて、嫌だったんだよねぇ」 「わ、わたしも、嫌でした」 先生がますます、遠くにいってしまうみたいで。 「どーして、俺が遠くにいくなんて思うの?」 俺はずっと、ココにいるでしょ? 先生に急に、抱きしめられて。耳の横で「ここにいる」なんて囁かれて。 突然の許容範囲を越えた展開に、心臓が、隠しようもなくドキドキと高鳴る。 「せんせ、何を……」 「あー、晴の匂いがする」 「はいっ……!?」 「暖かくて落ち着く」 「へ、変態!」 カカシ先生をどんと突き飛ばすと、先生は、やっぱりくすくす笑いながら、真っ赤だね、なんていった。わたしをからかったのかと思ったら頭にきて、わたしは先生をその場に残して駆け出した。 「晴」 後ろで呼ぶ声がするけど、振り向くつもりなんてない。恋じゃない、恋じゃない、恋だなんて認めない。 届きそうに無いから、諦めたのに。 あんな風に抱きしめるなんて、先生は酷い。もしかしたら届くんじゃないかって、思ってしまうじゃないか。 わたしは、恋愛なんてしていない。 だけど別に、毎日充実しているし、枯れているなんていわれるのは心外だ。恋愛至上主義な世の中なんてくそくらえだ。 心からそう思ってたハズなのに。肩肘張ってるつもりなんて、なかったのに。 だけどもしかしたら、恋愛をするのが怖かっただけなのかもしれない。 思うだけで、伝えられずに終わってしまったこの恋で、すっかり自信をなくして。 もう恋なんてしたくない、苦しみたくない、切ない気持ちなんて、もうしたくない。そうして、わたしは逃げていたのかもしれない。 わたしは本当に努力したんだろうか。がんばったんだろうか。 わたしはいつまで、逃げ続けるんだろう。 わたしはいつまで、自分に嘘をつき続けるんだろう。 明日、どんな顔をして、先生に会おう。 「あーあ、逃げちゃった」 呟いた自分の言葉は、誰もいないアカデミーの校庭に、ぽつりと落ちた。 彼女が人一倍まじめで、努力家で、そして、人一倍臆病であることは知っている。ずっと傍で見てきた。師として、仲間として、……おそらく、それ以上の感情も伴いながら。 「逃げたって、いいけど」 彼女がどこへ行こうが、勝手に自分との距離を遠ざけようが、関係ない。そんな溝は、彼女よりも長く生きてきたこの足で、簡単に飛び越えられる。 だけど、できる事なら彼女から、全身全霊でぶつかってきて欲しいだなんて。そんな風に考えていたのは、やっぱり欲張りだったのだろう。 いつも一生懸命に自分を慕う、その真っ直ぐな思いが、かわいくて、愛しくてたまらなかった。自分を好いてくれている彼女の気持ちに甘えて、何もせずにいた。彼女が若かったから何も出来なかった、というのも、もちろんあるのだけど。 ただ、火影という立場になって、前よりも自由には動けなくなって。いざ行動を制限されてみると、晴をさっさと繋いでおかなかった自分に後悔が生まれた。 「火影になった途端、追ってこなくなるなんて、反則でしょうよ……」 呟いてみて、自分の考えのあまりの幼稚さに、自分で呆れる。 そろそろ待ち続けるのも潮時か。 一時は本当に、晴の気持ちが自分から離れてしまったのかと思った。 もう、あの屈託の無い笑顔で『カカシ先生』と読んでくれることは無いのかと、寂しくなった。前よりも更に丁寧になった敬語が、悲しかった。 『カカシ先生、後悔してるでしょ』 すっかり大人びたサクラにそう言われたのが先日のこと。 『カカシ先生が晴に甘かった事なんて、私達の間じゃ有名なんですからね!……それに、晴だって、ずーっとカカシ先生が好きだったんだと思います。口では、今は好きな人なんていないって、いってるけど。親友の目から見たらバレバレなのよ』 言葉に詰まっていると、サクラはもう一押し、とばかりに、こんなことを言った。 『このままじゃあの子、自分に嘘をつく癖がついちゃいますよ』 サクラは一回りも年下なのに、自分よりもずっと、人のことを見れている。その成長を嬉しく感じながら、晴は良い友達を持ったな、なんて思った。俺も良い生徒を持ったものだ。 「カカシ先生―!何処っすか!?」 アカデミーの廊下の窓から、シカマルが呼ぶ声がする。 「ったく、何処いきやがったんだあの人。無駄に気配消しやがって……」 苛々と廊下を走る足音に苦笑しつつ、「はいはい、もう戻りますよ」と呟く。そんな小さな返事がシカマルに届くはずもなく。 「あの不良ロリコン火影いい加減にしろよ……めんどくせぇ」 すごい言われようだ。 まあ、彼も自分にとっては素晴らしい生徒の一人である。聞こえなかった事にして執務室へ戻るとしよう。 ……あの書類もシカマルに任せるとするか。 明日どんな顔をして晴に会おうか。 時々忘れそうになるが、自分は彼女よりも、かなり大人なのだ。 もう彼女を泣かせてしまわないように……彼女が嘘をつかないですむように。いい加減に俺も、素直になるとしますか。 end. 10/3/6 |