朝から冷たい雨が降っている。 「どこにも行けないね」 水滴で曇った窓に手を触れながら、返事を期待しないで呟いた。 「……そうだね。どこかへ行きたかった?」 返事が返ってきたことに驚きながら、振り向くと、やっぱりカカシは、手元の本に目を落としたままで。 「……ううん、別に」 どこかに行きたかったわけじゃないよ。 だけど……。 言葉は続けられずに、飲み込んだ。 (ねえ、もしかしてここって行き止まり?) そんな事を聞いてみる勇気なんて、もちろん無い。だから、服の裾を握って床を見つめるしか無くて。 前は、そんな仕草をすぐに見抜いて (……どうしたの?) 優しい声で聞いてくれたのに 今のカカシは、私の事を少しも見ないから、だからきっと、気付かないんだね。 本を読むカカシの前に、青いマグが置いてある。コーヒーはもう湯気を立てない。冷め切って苦くなったあのコーヒーを、カカシはもう飲まないのだろう。 悲しみが肌から沁みてくる。 (ねえ、どうしてあたしを見ないの?) 不安を抑え込むことも、ぶちまけることも出来ずに、結局私は、何も言わずに部屋を出た。 ドアをしめる寸前に、カカシの溜息を聞いたような気がした。 4月なのに寒くて堪らない。 この廊下をまっすぐつっきって外に出てしまう勇気が無いのを、降り続いてる雨のせいにして、 結局私はいつもの通り寝室のドアを開ける。布団に潜り込んで、動くのをやめた。 考えることも、目を開けていることも、やめた。 カカシの様子がおかしくなったのは最近のことだ。 具体的にいつからだったのか、もう思い出せないけれど。 最初は風邪でもひいたのかと思っていた。 話しかけても上の空で、いつも、ぼーっとしている。何かを考えているようにも見えた。 あまり笑わなくなって、眉間にはいつも、少しだけ皺が寄っていた。 カカシは体調が悪いとき、いつも無口になった。 だから今回も、疲れているか、風邪をひいたか、そのどちらかだろうと決めてかかっていた。 四月なのに雪が降って、公園の桜はみんな枯れてしまった。 暖かくなったり、寒くなったり、ここのところの異常気象で、体を壊す人は珍しく無い。 (ぐあい悪いの?大丈夫?) そう聞いてしまってから後悔した。カカシが驚いた顔をしたから。 (え?そう見えた?) (うん……なんか、元気無さそうに見えたから) カカシは困ったように笑って、 (心配かけてごめんね。別に、体調が悪いわけじゃないよ) そういって、私を安心させるように、頭を撫でてくれた。 カカシが笑ったのは久しぶりで、その事実に、カカシ自身は気付いていなかったのだろうけど、私はすごく安心して、涙が出そうだった。 今思えばあの時、 (具合が悪いんじゃないなら、なに?) そう聞いてしまえばよかったのかもしれない。 私がカカシに体調を尋ねてから数日間は、カカシは、以前のように笑ったし、ぼーっとしている事も少なくなった。私の心配は杞憂だったように思えた。 だけどふと、思いつめたような目をする事があって。 それは例えば、寒い夜に、遅くまで起きていたカカシにコーヒーを淹れた時。 マグカップを手渡すとき、カカシは私をじっと見た。 (……?砂糖無しでいいんだよね?) (あ、ああ。うん。そうだね) ありがとう、と言いながら、カカシはコーヒーに口をつける。 きっとあの時も、私に、何かを言おうとしてたんだ。 他にも、朝起こしたとき、とか、帰ってきたカカシを玄関で迎えたとき、とか 何の前触れも無く、カカシはあの目をする。 何か言いかけて、そして、結局何も言わない。 無理に聞いていいものなのか、解らなかったというのもあるけれど。 本音は、カカシの思いつめたような目に、ただならぬ予感を感じて、恐れていたのかもしれない。 悩んでいるうちに、事態はどんどん最悪な方向へ向かっていった。 しとしとと降り続く雨は、止む気配を見せない。 窓から侵入してくる冷気に肌を震わせて、カーテンを閉めた。 もともと薄暗かった部屋が、さらに暗くなる。 布団から抜け出して、サイドテーブルの灯りをつけた。 喉が渇いていたけど、カカシのいるリビングに戻る勇気も無くて。 ぐしゃぐしゃになった髪を梳きながら、ぼうっと部屋を見渡した。 カカシが以前の態度を取り戻したのは、ほんとうに僅かな間のことで。 一週間もしないうちにまた、様子がおかしくなった。 事態はそれまでよりも悪化しているような気がした。 まず、カカシは私の目を見なくなった。話しかけても上の空、は、さらに酷くなって。 本人が自覚しているのかはわからないけど、最近では溜息までつく。 イチャパラを読みながら、難しい顔をする。ぜったいそんな顔になるよーな事、その本に書いて無いでしょ。ページも、思い出したように捲っているし。 (ねえ、何を悩んでいるの?) (何を言いかけては、やめているの?) そんな事、聞けない。 カカシの言いたいことには、薄々勘付いている。 だけど、聞きたくない。 聞いてなんか、やるもんか。 私は一体、何をやっているんだろう。 この部屋を出て行く日が来たら、カカシは少しくらい、悲しそうにしてくれるのかな? 別れを切り出すのに、こんなに悩むくらいだ。きっと、あっさり笑ってお別れにはならないだろう。 最後に、義理だとしても、悲しそうな顔をしてくれたら。私は笑ってさよならが言えるような気がする。すがりついたりはしたくない。 最後の瞬間まで、カカシの負担になりたくは無いのだ。もう困らせたくなかった。 整理しようとクローゼットを開ければ、出てくるもの出てくるもの、懐かしいものばかりで。 いちいち手にとっては思い出すから、全然手が進まない。 ビニールの取れかかった、黄色いアルバムが出てくる。 開いてみれば、いつかの夏に行った海の写真が出てきた。カカシも私も笑っている。すごく、楽しかった。 「掃除してるの?」 いきなり声をかけられて、アルバムを捲る手が止まる。 「わ、懐かしいね」 カカシが後ろから、アルバムを覗き込む。 「いつのだろーね。あの海綺麗だったな」 「……」 「晴?」 「う、うん」 「……?」 どんな顔をしたらいいのかわからなくて、振り向かずに居ると、カカシの手が後ろから伸びてきて、私の膝の上の、アルバムのページを捲った。 「ああこれ、晴がカニを捕まえた時の写真じゃない?」 写真の中の私は満足そうにカニをぶらさげている。 「シャッターを切った後、指をはさまれたんだよね」 そういいながら、カカシはくすくす笑った。 振り向きたくなったけど、目があった途端また、無表情に戻ってしまったら。 それが怖くて、振り向けなかった。 「か、カカシも、足の指はさまれてたじゃん」 「そうだっけ……?」 カカシはまた、静かにページを捲る。 背中に感じる体温があたたかくて、泣きそうになった。 「また海に行こうね」 「……」 「山にも行きたいね」 「……」 何でそんな事いうの? 「晴?」 「……っ…」 さすがに不審に思ったのか、カカシは、私の肩を掴んで振り向かせた。 「ど、どーして泣いてるの?」 「……ど、してって……」 カカシは珍しく動揺して、驚いたような目で私を見た。 真っ直ぐ視線があうのは随分久しぶりだった。 カカシがなんてこと無いように未来の約束をするから、悲しくなればいいのか、怒ればいいのか、それとも、カカシの言葉を信じてほっとすればいいのか、頭の中がぐちゃぐちゃになって、もう、どうしたらいいのか解らない。 「……っ……」 「晴……?」 カカシは私の事を嫌いになったんじゃなかったの? 「……どした?もしかして、オレ何かした?」 背中をさする手が優しい。だけど、ますます嗚咽がこみあげて、苦しくなるばかりだった。 「カ…カカシが…」 「うん…?」 「何考えてるのか……わかんない」 「……」 子供みたいに目を擦って、カカシの表情を確認することから逃げだした。頬に涙が滲みて、ひりひり痛んだ。 「晴、」 「……」 「ごめんね」 謝らないで。 その先の言葉をまだ聞きたくないよ。 「もしかして、オレまた、不安にさせちゃってた?」 「……え?」 目をあけてカカシを見ると、カカシは困ったような顔で笑っていた。頭をかきながら。 「この間言われたときに、反省したのに……ごめん、」 カカシは謝ってから、私を抱きしめた。 ただただ疑問詞が浮かぶばかりだけど、この腕の温かさを……信じてもいいの? 「……晴に、言いたい事があって」 どきり、心臓が震える。 「なかなか、言い出せなくて、……それで悩んでたんだ」 逃げ出したいけれど、腕の中で、身動きもできなくて。死刑執行を待つ人のように、私は身を堅くした。 「……結婚して」 「……え?」 ぽかん、と口が開いてしまった。 「い、いま、なんて……?」 「……結婚して、ください」 「誰と、誰が……?」 「オレと、晴が」 二色の目が、真っ直ぐに私を見る。 「あーあ、また泣いて」 眉を下げて、カカシが笑った。 ・ ・ ・ 「うん、今回はオレが悪かったね」 「……うん、カカシが悪かった」 「……ごめんって」 二人でつついているケーキは、いっぱい泣かせたお詫びと言って、カカシが雨の中買いに行ったものだ。今日が新しい記念日になった、お祝いの意味もこめて。 「カカシが、思っていたよりもずーっとヘタレだって事が、今回よくわかりました」 「ヘタレって。……すみませんでした」 「別れを切り出せない方向で悩んでいるのかと思った」 ぐさり、フォークをケーキに突き刺すと、目の前でカカシが蒼褪める。 「別れるだなんてとんでもない」 「……ほんとうに?」 「本当に。オレが晴を手放すわけないでしょ」 「随分と上から目線だね」 「……すみませんって」 (半分食べる?) カカシは自分のチョコレートケーキを切り分けて、私の皿に乗せた。 モンブランとチョコレートケーキが仲良く並ぶ。 「私、尻にしくよ」 「何その宣言。……まー、覚悟はできてるよ」 「とことんヘタレだね」 「……そのヘタレの嫁になるって、わかってる?」 「うん。わかってる」 元気良く頷くと、カカシも、本当に嬉しそうに笑った。 「不器用だよね、私たちって」 「似たもの同士でいいんじゃない?」 「……そうかもね」 きっとこんな不器用な日々を、 これから先ずっと、積んで、積んで 「明日指輪を買いに行こう」 「……明日も休みをとったの?」 「オレには優秀な後輩がいるからね」 「なるほど、押し付けるわけだ」 「さすがは察しが早いねえ、奥さん」 ぼんやりした未来も、 一寸先の闇も、 二人なら怖くない。 凹と凹が重なったって形はできる。 それを穴だと笑う人がいても、そこにぴったりはまる何かが見つからなくても。怖い事なんて何もない。 凹+凹=? 10.04.23 YしいRびんそんの名曲「TALI」に影響を受けて書きました。 |