夢を見ていた。

夢の中であたしは仰向けになって、ゆらゆら揺れながら、真っ青な空を見上げていた。
そこは海の上で、あたしは大きな浮き輪の上にいるのだった。

眩しい太陽の光が、とても優しくて、満ち足りた気持ちだった。


『まなつ』


波の音に混じって、耳に心地よい、低い声がする。
あたしの名前が特別な音のように、甘く優しく響いた。

目の端に、銀色のひかりが見えたような気がして、



「……!」



夢から覚めると、暗い部屋の中に居た。
ぱちぱちと瞬きをする。

今何時なんだろう……。

最初に思ったのはそんな事だった。

それから、
頭の下に何か、普段とは違う感覚がした。

腕枕をされているという事に気づいたのは、寝返りを打った直後の事だった。

目に飛び込んできた銀色に、呼吸がとまりそうなほど驚いて。
カカシ先生の端正な寝顔が、触れそうなほど近く、目の前にあった。

閉じられた切れ長の目。呼吸にあわせて銀色の睫毛が揺れている。
すっと通った鼻筋と、唇の横の小さな黒子。

見つめているだけでドキドキして……そっと深呼吸をした。

ふいに記憶がよみがえる。

『まなつ……』

聞いたことの無いくらい優しくて甘い声で、先生はあたしの名前を読んだ。

『自分の指噛んじゃ駄目。……オレの背中に手ー回して』

低く甘く囁かれて、言われた通り、先生にしがみついたら。

カカシ先生はあたしを見下ろして、安心させるみたいに、優しく笑った。

けれどその目は、爛々と熱を灯していて。
男の人の表情をしていた。


『いい子だね……優しくするから』



先生の言葉に嘘は無かった。
はじめからおわりまで、カカシ先生はずっと優しかった。

思い出せば思い出すほど、耐えられないくらい恥ずかしくなって。
もぞもぞとベッドを抜け出した。

起こしてしまっていないか不安になって振り返ると、先生は穏やかに寝息をたてていた。
剥き出しの白い肩の上で、暗部の刺青が艶やかに存在を主張している。

そっと布団をかけ直して、まだ起きる気配の無い先生にほっとした。


床に落ちていた下着とショートパンツを身につけて、借りていた先生のTシャツをまた頭からかぶって。
足音をたてないように注意しながら、部屋を出た。





雨はすっかり止んでいて、空には星が出ていた。

帰り着いた自宅のドアを開けると、閉め切った部屋特有の温んだ空気が全身を包んだ。
それでも、今夜ばかりは、一人暮らしをしていて良かったと思わずに居られなかった。

空気を入れ換えたあと、冷房をつけて、自分のベッドにばたりとうつ伏せに倒れる。

下腹部がずきずきと痛む。

つい数時間前の出来事は、夢では無かったらしい。



「あたし……カカシ先生と……」

枕に顔を埋めて、嬉しさと恥ずかしさで、じたばたと手足を動かした。


ものすごく恥ずかしくて、けれど幸せだった。
瞼を閉じて、先生の色んな表情を思い出した。
キスだって初めてだったのに……一気に知ってしまったあれこれを思い出してまた、ひとしきりじたばたして。

暫くして、ようやく落ち着いて。


それから急に、悪い考えが頭をよぎって、不安になった。

当たり前のことだけれどカカシ先生は、あたしよりもずっと大人で、きっと、沢山いろんな経験だってしてきてて。
初めてでいっぱいいっぱいだったあたしとは違って、先生はずっと落ち着いていたし……やっぱりそういう事にだって、慣れていて、余裕だったと思う。
見た事の無い熱っぽい表情も、知らなかった低くて甘い声も。あたしが知るよりも前に、知っていた人がきっといて。
それを思うと、じくじくと胸の奥が痛むのだ。仕方の無い事なのに。

カカシ先生の前の彼女は、どんな人だったんだろう。
全然わからないけれど、カカシ先生みたいな格好いい人と付き合ってた人なら、多分きっと美人で、スタイルだって良かったに違いない。

あたしの裸をみて、カカシ先生はがっかりしなかっただろうか。
自分の体に自信なんて全く無い。

それにあたしは初めてで、痛がって泣いてしまったし、先生はきっと困っただろうな。
カカシ先生は優しいから、あたしを傷つけないように優しい言葉をかけてくれて、時間をかけてしてくれたけど。
面倒くさかっただろうか……。

考えれば考える程、気分は落ち込んでいった。さっきまで、あんなに幸せな気持ちでいっぱいだったのに。


それに……重要で、決定的なことに気づいてしまった。

先生は沢山あたしにキスをしてくれたし、『可愛い』って、沢山言ってくれたけれど。


「……好きって言われてない」


ぽつりと呟いた自分自身の言葉に傷ついて、胸がきりきりと痛んだ。
昔の彼女と比較されていたら嫌だな、なんて思うのもおこがましいという事に気づいた。
だって、そもそもあたしとカカシ先生は付き合ってすらないんだから。



シャワーを浴びながら、少しだけ泣いた。

『男の部屋でそんな風にゴロゴロしてたら襲われても文句言えないって言ってんの』

そもそもこうなった原因は、あたしがカカシ先生のベッドで勝手に寝そべっていたからで。
先生に言われた言葉が、今更ぐるぐると頭の中を巡った。

『お前は……オレに襲ってほしいわけ?』

あの時先生はどんな顔をしていたっけ。
カカシ先生は無表情だった気がする、けれど、……ちょっと怒っていなかっただろうか。
あたしに対して、呆れかえっていたんじゃ無いだろうか。

『カカシ先生にだったら……何されてもいい』

そういったあと、雷が落ちて、部屋が真っ暗になった。

そうだ、あの時。


ゆっくりベッドに押し倒されながら、見上げたカカシ先生は、困ったように眉根を寄せていた。

先生は、あたしに呆れていたのかな。
それとも、必死なあたしに、同情していたんだろうか?



あたし明日から、どんな顔して先生に会えば良いんだろう。
シャワーを頭から浴びながら、涙が幾筋もこぼれて、排水溝に流れていった。




ぼんやりしながら、眠る準備をしていると、ふとチャイムが鳴って、口から心臓が飛び出しそうなくらい驚いてしまった。
こんな真夜中に……誰?


恐る恐る廊下にでて、のぞき穴を覗くと、カカシ先生がそこにたっていた。
いつもの覆面をせず、素顔のままで立っている。
その顔はちょっと怒っているように見えて……驚きと困惑で、あたしは息を殺した。
ドアの裏側にうずくまる。

「まなつ。起きてるんでしょ」
「……」
「気配でばればれなんだよ」
「……!」
「開けなさい」

なおも黙っていると、がちゃがちゃとドアノブが回って、ドンドンとドアが叩かれる。

……怖!

だけど今、カカシ先生に会って、どんな顔をすればいいのかわからなかった。
勝手に部屋を出て行ったことを怒っているんだろうか。

もしかして。

――男の部屋でゴロゴロしてたお前が悪いんだよ。襲われても仕方ないっていったでしょ?

とか言われて、説教されちゃったりするのかも。


あるいは。


――やっぱ処女はメンドクサかったから、これっきりで忘れてちょーだい。


なんて言われてしまったら、どうしよう。


頭の中を嫌な考えばかりが巡って、黙ったまま動けないで居ると、ドアノブをまわす音もドアを叩く音も、いつの間にか止んでいることに気づいた。

そっと立ち上がってのぞき窓をのぞくと、カカシ先生の姿は消えていた。

諦めたんだろうか。ほっとして押し殺していた息をゆっくりと吐いた。

それでも、同じ里で暮らしているのだ。このままずっと先生と会わないことなんて絶対に無理なわけで。

どうしよう……。
でも、とりあえず今晩はもう眠ろう。

そう思って立ち上がり、寝室へ戻ると。

「ギャーーーー!」
「……幽霊を見たみたいな声出さないでくれる」

窓が開いていて、カカシ先生が窓枠にもたれかかっていた。
しまった、窓の鍵開けっぱなしにしてたんだ……!

「お前……何してんの」
「え……?」
「何で帰ったの。オレのこと起こしもしないで」

心底不機嫌そうな表情をしているカカシ先生に震えながら、あたしは何も言えずに黙ってしまった。
俯いていると、カカシ先生は諦めたように小さく溜息をついた。

「……入って良い?」
「は、はい……」

先生がゆっくりと窓に足をかけて、ちゃんと靴を脱いでから、部屋にあがりこんできた。先生の服装は……ああいう事になる直前、お風呂上がりに着ていた部屋着のままだった。ラフな黒いTシャツと紺のズボン。
目が覚めて、部屋着を着て慌てて飛び出してきた、という感じの格好だった。

呆然としているあたしの横をすり抜けて、先生は玄関に靴を置きに行った。
それからまた戻ってきて、まだ部屋の入り口で突っ立っていたあたしの目の前に立った。


「で……?」
「……え?」
「お前はココで何をやってんのよ」
「何をって……」

ココはあたしの部屋で、いまからあたしは寝ようとしているだけなのである。
急に、カカシ先生の怒りが理不尽な物に思えてきて、あたしはきっと先生を睨んだ。

「先生こそ、何しにきたんですか!」
「何しにって……」

噛みつくように言い返したあたしの豹変ぶりに、今度は先生がすこし狼狽えている。
困ったように頭の後ろをかきながら言葉を探すカカシ先生を見て、胸の奥が切なくなった。

あたしは先生の、この仕草が好きだった。

「……嫌だった?」
「え?」
「オレに抱かれて……後悔してるの?」

カカシ先生が眉を下げて、弱り切ったような声を出す。
先生がそんな顔をするのを見るのは初めてで、あたしは目を丸くした。

「後悔なんて……してません」
「じゃあ、何で……」

最初は恥ずかしくて、カカシ先生が起きたら、どんな顔をすればいいのかわからなくて……それで部屋を飛び出した。
部屋に帰ってからも恥ずかしさは消えなかったけれど、同じくらい嬉しくて、幸せで……でも、時間が経つにつれて不安になった。

あまりにもめまぐるしい感情の波に、自分でもついていけてなくて、何て説明したらいいだろうと言葉を探していると、カカシ先生が消え入りそうな声で言った。

「目が覚めたらお前がいなくて……驚いて息が止まるかと思った」

はっとして先生の顔を見た。
悲しそうな顔をしていて……驚きと罪悪感で、胸が痛くなった。


「……ごめんなさい。あたし……恥ずかしくて……けどカカシ先生と一つになれてすごく嬉しくて……あたしは先生の事大好きだから……でも」

言いながら、声が震えて、駄目だと思うのに涙がぼろぼろと出てきてしまう。

「先生はあたしのことどう思ってるんだろうって……わからなくて……先生と顔をあわせるのが怖くなって……」
「ごめん、まなつ……」

震えながら涙をぬぐっていると、カカシ先生にぎゅっと抱き締められた。

「ちゃんと言わなくて不安にさせた。……年甲斐もなく余裕が無くて、情けないねオレは」
「……?」

先生に抱き締められていると、とくとくと鼓動が聞こえてきて、徐々に気持ちが落ち着いてきた。

「……お前のことが好きだよ。まなつ」
「え……」

驚いて見上げたカカシ先生は、とても優しい顔で笑っていた。

「ほんとうですか?」
「嘘でこんなこと言わないよ」
「でも……」
「不安なら、信じて貰えるまで何度でも言うよ。……好きだ、まなつ」

「ゆ、夢……?」

あたしの言葉を聞いて、先生は吹き出した。

「夢なわけないでしょ」

そして唇をそっと塞がれた。
長い長い口付けに、膝から力が抜けて、しゃがみこみそうになると、先生が体を支えてくれた。

「……カカシ先生、好きです」
「うん。オレもまなつが好きだよ……」
「やっぱり…夢みたい」
「あんまり可愛いことばっか言ってると……またしたくなっちゃうでしょうよ」

びくりと震えてしまったら、カカシ先生はまた笑った。

「……もっと優しくしてやれたらよかったんだけど」

ごめんね、と眉を下げる先生に勇気を出して、

「痛かったけど、痛かっただけじゃなかったです……」

消え入りそうに小さな声で、先生の耳元に囁いた。

死にそうに恥ずかしかったけど、カカシ先生がとても嬉しそうに笑ってくれたから。

素直に言えて良かった、と思った。












夜が明けるまでずっとあなたの音を聞いていた

end.



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