ことほぎの儀
ひのてんR18

あまり面白くなさそうな顔で尋ねた天子に、火野は小さく笑って首を横に振った。

「てんこはどうしたい?」

一顧だにしない返答に溜飲が下がる。社務所の扉をきっちり閉め、天子は境内の端にぽつんと建った末社を指差した。

「散歩でもするかって思ってたんですけど」

裏手に聳える銀杏の木々の奥で、ひっそりと小道が口を開けている。火野も気づいていなかったのか、あんなところに道があるんだねと少し興味を引かれたようだった。

「どこに続いてるの?」

「昔は高浪小まで抜けられたけど、何年か前に土砂崩れで塞がれてからはそれっきり」

放課後は妹や唯、小学校の仲間たちとよく探検に赴いたものだが、数年前の大雨で道が途絶えて以来、今の今まですっかり記憶から抜け落ちていた。祭の日にわざわざ細道を探索する物好きはいるまい。二人きりで内緒話をするには打ってつけだ。
火野もその辺りの事情を察したのか、いいよ、と快諾して歩を進めた。

柵の途切れた入口は人ひとりがやっと通れるほどの幅だ。子供の頃は妹と横並びでもすんなり進むことができたと思う。
先に天子が隙間を抜け、飛び出す銀杏の枝を掻い潜るように火野も頭を下げた。

「獣道かと思ったけど、ちゃんと整備されてるんだね」

人の行き来がなければ道は自然と土に埋もれていく。火野は道なき道を想像していたのか、小石が敷き詰められた林道に意外そうな顔をした。
広葉樹の並木は左右に開け、その真ん中を一本道がすっと伸びている。夏であれば、生い茂る葉の間から太陽が見え隠れする爽やかな山道だ。冬の今は枯れ木の寒々しさが目立つものの、二人を照らす午後の陽光は柔らかい。彼らはゆっくりと歩き出す。

「――この前は、すみません」

どう切り出すべきかと考えあぐねていた天子は、ひとまず謝罪を挟んで本題へ移ることにする。細かな砂利を踏む歯切れの良い音が、頭の靄を優しくかき消してくれる気がした。

「無理やりヤって勝手に逃げて音沙汰なしとか、すげえ身勝手だった」

「まだ気にしてたの?」

しょげる子供に相対するような笑みに、天子は唇を尖らせて足元の石を蹴り転がした。

「あんな死にそうな顔見て気にしない方がどうかしてる」

「体力がないだけだよ。あの時も言ったでしょ、気持ちは嬉しかったって」

低く柔らかな声が耳に心地いい。聴覚を伝って、五感すべてが甘く揺さぶられる。冬休みに入って以降、彼のことを考えないようにと頭の隅に追いやっていた報いか。物欲しげに緩む表情を引き締めるべく、憮然とした顔を拵える。

「勉強に支障出たら俺のせいですよね」

「大丈夫。これもらったから」

懐からぴろんと摘まみ出された御守。零たちはきちんと任務を遂行したらしい。それに、と火野が楽しそうな口調で続ける。

「僕が東理落ちたら『正直、何やってんだよって思います』とか言ってた誰かさんを失望させたくないじゃない?」

「うっ」

己はC判定で凹むくせに、なんて生意気な台詞を吹っ掛けたのかと思う。でも仕方ない。決して頭の良さだけで好きになったわけではないが、もし彼が自分と同等かそれ以下の成績だったら、この関係に至ったかどうかは何とも言えない。静謐な森の空気を胸一杯に吸い込んで、天子は本題を口にした。

「先月の模試、ダメだったんです」

「そうなの?」

「ダメっつーか、他人から見りゃまだ余裕あんのかもしれねえけど、まぁまぁ自信あった割にひどかったから余計落ち込んで…」

隠していた事情をかいつまんで述べる。火野はふんふんと相槌を打って聞いていた。いつも通り、他愛ない話をしている時と変わらぬ空気に少しだけ安堵する。

「今月、休み明けに全統模試あるから、そん時は頑張ります」

慰めなんてもういらない。進路を決めたのは自分で、頑張るのもまた自分なのだから。
きっぱりと締め括ったところで、プレッシャーのかかる一言がさらりと放たれる。

「その結果が出る頃、僕は二次試験かな」

「うぐ」

自分の判定を聞いたところで受験に障らないことはわかっているが、結果によってはひどく伝えにくいタイミングだ。嫌な汗が額に滲む。
生意気を言った仕返しだろうか。やや上から送られる流し目は嗜虐的なまでに婀娜っぽい。

「僕をがっかりさせないでね?」

「…………はい」

緊張迸る、神妙な声で天子は頷く。彼に命じられると、叱られているわけでもないのに体が硬直してしまう。反抗心を根こそぎ奪う緩急には未だに慣れない。
真昼の野山に似つかわしくない笑みの後、冗談だよ、と髪をぐしゃぐしゃに掻き混ぜられる。久しぶりの接触に脆い心臓が容易く跳ねるが、それでも離れようとはしない自分に深くため息を落とした。

(手のひらで踊らされてる気がする)

素直に踊ってしまう己も、大概どうかしているとしか思えないけれど。

「あ」

数メートル先の左側にひっそりと、木立が途切れた砂利道がある。入口は道の両側に刺さった杭を繋ぐようにロープで封じられていたが、子供でも簡単に跨ぐことができる高さだ。ロープにくくりつけられた『立入禁止』の札を以てしても、効力は無いに等しい。

「どうかした?」

分岐で足を止めた天子と砂利道の先を、火野は交互に見比べている。

「ガキの頃、ここの先で遊んでたことがあって」

もう十年近く前になる。唯と妹の舞、同級生の数人でちょっと変わったものを発見したのだ。

「何回か来てたら社務所のババアに見つかって、すげえキレられて学校まで連絡されてまた怒られて、意味わかんねえってなったきり知らなかったけど、今はこんなふうになってんだなって」

ペンキで手書きしたらしい札をつついて感慨に浸る。昔はロープのみだったが、札があったとしても子供ならば好奇心に負けてどのみち叱られていたかもしれない。

「奥には何があるの?」

「古い社? あと、枯れた舞台みてえな」

口に出してから、ずいぶんいわく付きの場所で遊んでいたものだと改めて思う。何の建物かは今もわからないままだが、物によっては罰が当たりそうだ。

「入っていい?」

「え」

尋ねながらも、火野は膝の高さのロープを既に踏み越えていた。瞠目する天子をよそに、長い片足を引き上げてロープの内側に立つ。

「嫌だったらいいよ。ひとりで行くから」

「別に、いいですけど」

校則すら歯牙に掛けない天子にとって、年長者からの口やかましいお叱りは日常茶飯時だ。そして火野もまた、ルールを破ることに躊躇はないのだった。
彼に倣ってひょいとロープを跨ぐも、天子は首を捻る。自分の思い出話の中で、そこまで彼の興味を引くようなものがあったのだろうか。
林道より径の大きい砂利を踏み鳴らしながら先へ進む。手入れが全く施されていない、鬱蒼とした深い森の中で小鳥のさえずりが聞こえた。ぴたりと火野が足を止め、天子は不思議そうに彼を見上げる。

「ううん、何でもない」

彼は緩く首を振り、再び足を進めた。天子も歩調を合わせ、じきに開けてきた円形の広場を指差す。

「あれです」

広場は細かな砂利が敷き詰められ、周囲をぐるりと高い崖が囲んでいた。真正面、奥まった場所にそっと佇む古い社。高床式のそれは扉の古木がとうに朽ち果て、がらんと何もない内部が隙間から窺えた。剥き出しの木床は四畳の広さもない。

「舞台っていうのは?」

「この裏。つってもそんな大層なもんじゃなくて、ちょっと高くなってるだけの雛壇みたいな」

連れ立って社の裏側に行くと、天子の言う通り、幅1.5メートル程の六角形の壇が社と崖の間に鎮座している。六つの角にはそれぞれ細い石柱が立てられ、刻まれた文字は所々が風化で掠れていた。
謎の史跡を興味津々といった様子で観察していた火野は、天子の視線に気づくと満足そうに頷いた。

「来た甲斐があったよ」

「こんな古いもんが見たかったんですか」

「今日、ここに来るってわかってたからね。ラモーブの図書館で、このお祭りのことを少し調べてきたんだ」

ラモーブは蓮華の駅ビルだ。駅からペデストリアンデッキで直結され、高層階の2フロアは市内随一の蔵書量を誇る図書館になっている。立地の良さから学生には重宝され、火野も休日は度々足を運んでいるらしい。
学校の勉強だけに留まらず、彼の知的好奇心は様々なものに発揮されるが、民俗学にも関心があるとは意外だった。


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