ことほぎの儀
ひのてんR18

目に染みる青空を舞う鳥の声で、天子は目を覚ました。全身が沼に沈んだように重くて、何度か深呼吸をしてから緩慢に体を起こす。
剥き出しの背を滑る掛け布はまだ湿り気を帯びており、鬱陶しいそれを跳ねのけると隣で身じろぐ気配がした。

『起きたの』

か細い声にはっと振り返れば、血の気がごっそり失われた顔色で火野が目を擦っていた。天子の背中を冷たいものが一筋流れる。

『ごめんなさい』

『ん?』

『俺……』

震える唇を必死に動かして、恐る恐る、掛け布越しの彼の胸に手を当てた。穏やかに刻まれる脈拍は、いつもより少しだけ頼りない。揺らぐ視界の中で彼がうっすらと微笑んだ。

『大丈夫だから』

『でも』

持病のことは正直よく知らない。尋ねれば答えてくれると思うが、あまり訊かれたくなさそうだったので訊かずにいたのだ。それでも、体が常人と比べて弱りやすいことはわかっている。わかっていたのに、止められなかった。
真白い手で力なく髪を撫でられながら、ただただ謝りながら、己の身勝手さを呪った。ちっぽけなものに振り回され、自制の効かない体で彼を追い詰めてしまった事実がどうしようもなく胸を貫いた。
あらゆる抑揚が削ぎ落された声は、耳を近づけなければ聞き取れない。

『気持ちは嬉しかったから、気にしなくていいの。ちょっと疲れただけだよ』

少し眠るね、と再び目を閉じた彼を茫然と見守っていたが、その睫毛の長さにすら欲が芽吹きそうになり、慌てて身支度を整えた。黙って部屋を出て、目に痛い冬晴れの下を走って逃げた。

彼と会わない間に、姑息で卑怯な自分にはもう諦めがついた。原因となった模試云々もそう、死ぬ気で頑張る以外に方法はない。生まれ持った手札を嘆くのはこれきりだ。頭の方は足りなくても、彼らよりずっと頑強な体というカードがあるのだから。

(いつまでも慰められてたら情けねえしな)

こうしていじけてばかりでは火野も安心して入試になど臨めない。彼が無事に合格するまで不要な面倒をかけぬよう、しっかりしたところを見せておかなくては。

ーーー

「あ、いた! てーんこー!!」

朝食の握り飯を消化しきった頃合いで、耳慣れた声が階段の方から届いた。時刻は十三時五分前、すっかり日が高くなった境内は早朝の寒気が嘘だったかのように程よく温まっている。気温も二桁に達したかもしれない。
焚き上げ所の横には参拝客が持ち込んだ古札などがたんと積んである。金属製の網で円く囲われた土の窪みに、天子はそれらを次々放り込んでいた。階段でやや息を弾ませた零が一番に駆け込み、網の外から両手をかざして笑いかけてくる。

「あったかー。あんまり寒くなくてよかったな!」

「今は動くとあちーけど、朝はクソ寒かったぞ」

「知ってる、五時から走ってたから。でもそんな朝早くから仕事してたんだな。お疲れ」

境内への階段を数段飛ばしで跳ねてきた零が最初に辿り着いたので、残りの面々もおいおい上がって来るだろう。出店が目当てでも、とある『約束』があるのでまずはお参りにと本殿を目指すはずだ。
薫や火野は駅方面から伸びているスロープ状の裏道を上ってくるのか。距離が倍に膨らむので健脚な人間は階段を選ぶが、背に腹は代えられない。

「いた! お疲れ様でーす!」

「はぁ、はぁ。ちょっときつい」

白い息を振り撒きながら、凛と直が鳥居をくぐってくる。凛は冬季でも構わずデニム地のショートパンツにブーツだ。直はぐるぐる巻きのマフラーを暑そうにほどいて息を切らす。続いて彩音と由姫が息も絶え絶えといった様子でよたよたと歩み寄り、手水所の横から薫と火野も姿を現した。ようやく全員が揃ったわけだ。

「やーんなんですかその服! 一周回ってかわいいですね!」

息を整えないうちに彩音がずいっと駆け寄って来る。頭から足元までを爛々とした両目で追われ、天子は居心地悪そうにそっぽを向いた。

「うるせえ。何周回ろうがかわいくねえだろ」

「写真撮っていいですよね!」

はしゃいだ声で、許可などお構いなしに携帯をスライドさせる始末。何度かシャッターが切られたのち、お前ら、と天子が呼びかける。

「忘れてねえだろうな」

火野だけが僅かに首を傾げる。その他の面々は顔を見合わせ、『約束』に力強く頷いた。零が携帯の時刻表示に目を落とす。

「大丈夫だって! それよりてんこ、バイト何時まで? 休憩とかないの?」

「あと三十分で休憩。つっても屋台のもん食えねえし、お前らの相手してる暇もねえから気にしないで好きに食ってろ。終わるのは三時だけど、そっから着替えたり金もらったりするから長くなるぞ」

「そっか、仕方ないな。『あれ』は俺たちに任せといて。よし、お参り行こ!」

零の合図に一行がぞろぞろと参拝の列に並ぶ。それを見届けてから、天子は階段をとんとんと下っていった。出店付近でトラブルが起きていないか、休憩前の巡回に赴くのだ。

「えと。ちょっと俺抜けるから、みんな並んでてな」

零に目配せされた薫は素直に頷き、授与所へ駆けていく彼を見守る。売り子の唯とやり取りを交わして戻った零は、はい、と火野に小さな袋を差し出した。

「先輩に。みんなからです」

「え?」

やや面食らった様子の火野が、がさがさと袋を開けるのを後輩たちがじっと見つめている。中から出てきた赤色の御守には『合格祈願』の文字が縫い取ってあった。

「――もしかして、さっきてんこが言ってた『忘れてないか』って、これ?」

「そーです! 言い出したのは俺と薫だし、てんこは『そんなもん無くても受かるだろ』って言ってたけど、へへへ」

「頑張ってください。みんなで、応援、してます」

零がはきはきと、薫がたどたどしく励ましを伝えれば、御守を大事そうにしまって火野は微笑んだ。

「ありがとう。頑張るよ」

一年生からも期待を込めた言葉が贈られたところで、火野はコートのポケットに手を入れた。震える携帯を開くと、新着メールの通知。

『休憩入ったら急いで飯食うからその辺にいてください』

ーーー

「――よし」

竹籠に盛られたみかんを半分に割って頬張る。石油ストーブの温もりに若干の未練を覚えつつ、天子は後ろ手で静かに障子を閉めた。てくてくと社務所の入口に足を向け、親指を駆使してメールを送る。
畳の広間に用意されていた昼食は、握り飯のみの朝食とは比べ物にならないほど豪華な品揃えだった。仕出しの弁当が関の山かと思いきや、四段の重箱にはおせち料理がみっちり、寸胴鍋には豚汁がたっぷり、弁当屋のオードブルにカツ丼にカレーなどなど、若者十人でも食べきれないご馳走が所狭しと並べられていた。休憩の順番が後半でも満足できるように、という配慮だろうか。元巫女の女性たちに感謝しつつ、豚汁とカツカレーを貪るように食べた。
休憩時間が天子と重複した男は早起きがよほど堪えたのか、こたつに肩まで潜って眠り込んでいた。休憩らしい休憩だ。正直羨ましい。昼寝の誘惑に耐え、玄関で雪駄サンダルをつっかけて外に出る。

「あ」

引き戸をガラガラとやかましく開ければ、見慣れたチェスターコートの裾がひらりと揺れた。向けられた微笑みに天子は目を瞠る。

「御守を売ってる女の子と話したら、お昼はここで食べてるって聞いたから」

昼食を終えたのでどこにいるか教えてほしい、とメールをしたためたのだが、火野は社務所の横で待っていたらしい。日中で一番気温が上がる時間帯かつ、パチパチと無数の札を呑み込む焚き上げのすぐ近くだ。相応の防寒具に身を包んでいればさほど冷えなかっただろう。

「あいつらは」

「まだ出店の方に行ってるけど、二時からそこで巫女舞を見るって言ってたよ」

そこ、と示された先には高床式の神楽殿がある。こじんまりとした、四方から舞台を見渡せる開放的な造りだ。周囲には見物用の長椅子が設置され、前方の席がぽつぽつと埋まり始めている。
ちなみにここで舞を披露するのは一日限りのバイトではなく、宗教者として本業を担う正規の巫女だ。彼女たちは神社の神職の生まれ、もしくは近親者の娘で、神職資格も取得しているという。観光地になりうる大きな神社でない限りは、こういった家族経営が多いのだと宮司も説明していた。

「…見たいですか?」

同年代か、それより少し上。いずれにしても若い女性の舞姿なら、時宮辺りは喜んで飛び付くだろう。下心を抜きにしても、祭の催しとして鑑賞したい気持ちは否定しない。地元民の天子は見飽きているくらいだが、蓮華とかいう都会の人間には物珍しく映るはずだ。


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