ことほぎの儀
ひのてんR18

『午後から立花たちと一緒に電車で行くよ』

受信時刻は三時十七分。相変わらず恐ろしい時間まで起きているものだ。受験生といえどももう少し早く眠るべきだろう。センター試験までは、あと十日。不安で眠れない、なんて性分でもないのだが。

『待ってます』

最短手数で返信を打って持ち場に戻る。遥か下の神社入口に、高齢者の団体を見つけたのだ。誰も彼も行商に赴かんばかりの大荷物。仲間と頷き合って階段を下っていく。

(怒ってはなさそうだな)

はー、と吐いたため息が白く濁る。新年の挨拶を除けば久しぶりの連絡だ。毎日のように顔を合わせていたのでもともと電話もメールもさして多くはないが、冬休みに入って以降はずっと連絡を絶っていた。受験本番に備えて気を遣っている、というのは建前に過ぎない。
あの日――クリスマスイブの夜から、ずっと。
天子にとっては、あらゆることがただただ後ろめたかった。

ーーー

十二月二十四日の終業式。
式が午前中で終わるのをいいことに、化学、生物の両部はクリスマス会を独自に催すことになった。スーパーへ買い出しに行ったり、宅配ピザやチキンを頼んだり、由姫がケーキをこしらえたり。昼過ぎから夕方に渡って、ご馳走とシャンメリーをお供に談話が繰り広げられた。話を聞きつけた時宮が手土産持参で参戦したのは言うまでもない。終始和やかなムードの中で、己の不安を彼に打ち明けるべきか、天子は悩んでいた。
前日に返却された、先月の模試の結果。自信は相応にあった。理数系は漏れなく解答したので、部分点だけ拾われたとしても望みの点数は得られるはずだった。ところが、現実はそううまくいかなかった。

『水川!』

教室を飛び出し、すぐ隣のクラスへ駆け込む。薫は窓際の席で、ミニリュックに教材を詰めていた。ただならぬ天子の形相に、目をぱちぱちと瞬かせて手を止める。

『お前、模試! 判定、なんだった』

『模試? あ、さっき返されたね。えっと』

机の引き出しから猫のクリアファイルを引っ張り出し、はい、と二つ折りのA3用紙を差し出す。ポテトチップスの袋なら確実に中身が飛散するだろう勢いで紙を開き、該当欄を追った天子は瞠目した。

『は……? マジで、お前――A判定じゃん』

『うん、びっくりした。ずっとBだったから、初めて』

声はいつも通り平坦だが、やはり嬉しいのか、薫は僅かにはにかんで見せる。ぐっと唇を噛み締め、ぞんざいにならぬよう、彼にそっと用紙を返して天子は背を向けた。

『てんこは?』

『…俺は、ダメだった』

振り返らずに答え、一目散にその場を離れる。悔しくて、悲しくて、やりきれない思いが胸の内を突き上げてきた。人のいない男子トイレの個室に鍵をかけ、壁を殴りつけたい気持ちを抑えてしゃがみ込む。

東都理科大学といえば、全国有数の偏差値を誇る理系最高峰の大学だ。学部によっては、あのT大に合格する人間ですら落ちるとも言われている。蓮華高校も昔はちらほらと合格者を出していたようだが、ここ四半世紀では東理、T大はおろか、名だたる国公立・私立ですらぽろぽろと数えられる程度。歴史の浅い私立校に実績が抜かれる日も近い。
そんな当校だが、今年度はついに東都理科大の合格者が出そうだと教職員たちが色めき立っている。それが天子の想い人だ。全国模試でもトップレベルに名を連ねる学力とくれば、教員もすかさずT大やその偏差値帯の大学を薦めてくる。
最終的には『T大に行ってくれ、頼む』と拝み倒されたらしいが、本人は授業のカリキュラムや研究環境を考慮した結果、前期で東理、後期でT大を受験することを約束した。ただしT大の合格如何によらず、進路は必ず東理を選ぶという条件付きで。それでも合格実績が出るのならと教職員は大喜びだ。火野は実績などどうでもいいのだろうが、一応、世話になった学校への恩返しと思って気を利かせたようだ。
彼の志望校は以前から聞いていた。当然、天子も模試の度にその大学コードをぐりりと塗りつぶしている。が、どんなに調子のいい時でもB判定以上を出せた試しがない。薫も理科大へ強い憧れを抱いており、同校を志望している。その彼が、ついにA判定を叩き出したという。
学年一位と学年二位。今までは、頑張ればいつかは勝てるつもりでいた。だが、その差は天子が思うよりずっと果てしないものらしい。定期考査は薫の苦手な科目に助けられているだけで、理数系のみの模試ではこれほどの大差がつくのだ。やはり自分は努力ができるだけの凡人だと認めざるを得ない。薫や火野のような天才には、どう足掻いても近づける気がしなかった。

(こんなん、言えるわけねえだろ)

震える膝をきつく抱え、込み上げそうな嗚咽をぐうっと喉の奥に押し込む。
心配をかけるから、ではない。仮にこのショックを伝えたとしても、彼はこちらの気持ちを汲んでくれると思う。自分が沈んだ状態だからといって、引きずられてしまうようなメンタルも持ち合わせていない。不安をこぼしても、彼の精神状態、ひいては受験勉強に差し障ることはないはずだ。

(でも、情けねえんだよ)

てんこなら大丈夫だよ。あと一年あるんだから。
優しい笑顔で何度慰められれば自分は強くなれるのか。実力のない自分が彼を追いかけることさえやめれば、不安に駆られることも、彼に負担をかけることもなくなるのに。

『――どうかした?』

ソファでぼんやりと宙を見つめていた天子ははっと我に返った。眼鏡を手に持った火野がすとんと隣に腰を下ろす。

『昼も夜も、あんまり食欲なかったんじゃない? 具合でも悪いの?』

『んなことないです。普通にピザ食ってたし』

顔をそっと覗き込まれ、気まずさに俯きながら首を振った。恋人たちが愛を囁き合う夜に、まだ彼と目を合わせることすらできないなんて。
ひとつ息を吸って、ぼすんと彼にもたれるように体を倒した。湯上がりの薄い胸に頬を寄せて、精一杯の甘い声を出してみる。

『しないんですか』

え、と頭上でこぼれた声を無視して、腕をぎゅっと背に回す。

『今日が誰の誕生日だろうが関係ねえけど、そういう日の夜なら、その』

――好きに、していいです。
心のもやもやを振り切るように、ほんのりと上気した肌を服越しに擦りつけた。いつも冷たい体は浴後の温度を宿しており、ごくん、とはしたなく喉が鳴る。煩わしいことなど全部忘れて、今はひたすらに求められたかった。

『ん、んっ…』

髪を撫でていた手のひらが後頭部をすくい上げる。唇を食まれ、ゆっくりと舌を差し入れられて吐息が漏れた。腕を伸ばしてしがみつきながら、自分からも口づけを深めていく。懊悩する心とは裏腹に、体は着々と昂ってしまうから単純だ。は、と息を継ぐタイミングで唇が離れ、拭った唇を彼の耳元に寄せる。

『自分で、してきたから…』

わざと見せつけるように、スウェットの下をずるりと脱ぎ落として囁く。準備といったって、風呂で体を洗うついでに指を差し入れた程度だ。痛みを伴っても構わない。早く溺れさせてほしかった。案の定、火野は困ったように笑う。

『お誘いは嬉しいけど、それならちゃんとベッドに行こうか』

『嫌だ』

性急な己をやんわりとなだめる台詞に反発心が込み上げる。のしっと彼の膝に跨って、上から唇を奪ってやる。説得を諦めたのか、彼もぽんぽんと背中を撫でてキスに応じてくれた。

その体勢のまま、ソファで温かい肌を重ねて。縋りつきながら、全てを浚っていく快感の波に踊らされた。
入浴が遠い昔に思えるほどべっとりと肢体を汚し合い、再びきれいに清めた体でベッドへ寝かされたのに、心の隙間は埋まらなくて。まだするの?とかなり本気で驚かれた。

『このくらいじゃ、何ともねえっての』

寝たいなら寝ていればいい、こっちで勝手に動くから。
彼のものに舌を這わせ、潤いと硬度を充分に与えて跨る。ひりつく入口にぷちゅりと押し当てると、慣れきったそこは重力に従って難なく呑み込んでいく。肉付きの薄い腹に手をついて、緩く腰を揺さぶった。先程よりもさらに奥まで満たされ、みっちりと粘膜を拡げる充足感に遠慮のない声が漏れる。
外はひどく冷えるようで、夜半から雪がぱらぱらと降り続いている。ろくに積もりはしないだろう。ただ休日の朝が来るだけだ。電車も通常通りのダイヤをせっせと走る。起きた彼もまた、怠い体を引きずって勉強に勤しむ。夜が明けたら、そばにいることはもう許されない。
何のしがらみもなく、ずっとこうしていられたらと思う。生理的か感情的か、涙の理由もわからぬまま快楽に身を浸していた。


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