ことほぎの儀
ひのてんR18

「いっぱい食べて、あったまっていきなね」

盆にいくつも湯呑みを乗せて、先程の事務員が襖の外からやって来る。こうした社務所のお母さんたちは元巫女らしい。巫女の定年がいくつかは知らないが、一定のラインを越えるか結婚するか、いずれかで卒業するのだろう。
彼女はせっせと若者に湯呑みを配る。すんと湯気に鼻先を突っ込むと、香りはいかにも苦々しそうな茶だ。卓上にもほうじ茶のポットと紙コップが置いてあるのだから、こちらを先に飲ませればいいのにと思う。

「元気になるお茶だよ。苦いけど、今日は体力も使うしちょびっとでも飲んでいきなさいな。薬みたいなもんだからさ」

ありがた迷惑な気遣いに、はぁ、と若者たちは微妙な顔つきで茶をすする。天子がふーっと茶を冷ましていると、うぐう、と隣から唯の呻きが聞こえて思わずたじろぐ。香りに違わぬ味のようだ。意を決して湯呑みを呷る。口腔のあらゆる粘膜を網羅する、強烈な苦味と渋み。『ん』に濁点の付いた、何とも言えぬ声を漏らしつつ飲み下す。

「だーっ、クソまじい! んだこれ!」

「センブリでも入ってんじゃねーのか!?」

「おえええぇっ」

断末魔を叫び合う男たちをよそに、はああ、と深すぎる息をついて天子は空の湯呑みを置いた。唯が涙目を見開いて天子を凝視する。

「えっ、マジで飲んだの!? 全部っ?」

「…確かに苦えけど、アレに比べりゃなんてことねえ」

「アレって何?」

「蓮華に売ってるクソ不味いアロエジュース」

昨今、いかなる漢方茶でも多少は飲みやすく調整してあるというのに。あのアロエときたら甘味料はおろか、元来の苦味すらまともに抜いていない。アレを校内どころかネット通販で箱買いしている火野なら、この茶を平然と飲み干すだろう。彼の家であの箱と遭遇した際は戦慄が走った。

「おかわりいるかい?」

「いらねえ」

背後からさりげなく声をかけてきた事務員を睨みつければ、彼女ははっはっと笑いながら天子の肩を叩いた。

「一枚引いておくれ」

突き出されたのは和柄の巾着袋。手首がようやく入る隙間から中身を覗けば、無数の紙切れが折り畳まれているのが見えた。くじ引きのようだ。

「休憩時間を決めるんだよ。みんなが一気に休むのは困るから、ちょっとずつずらしてご飯食べてもらうの。なんだったら風呂も入っていいよ、じいさんたちに覗かれても構わないならね」

仕事は朝六時から十五時まで。その間で十人が一時間ずつ休憩を取るため、時間が被らないよう予め決めておくのだという。早すぎても遅すぎても損だ。朝食がこうも早いので昼食は十二時でも遅いかもしれない。
身の千切れるような寒さの中、温かいシャワーは非常に魅力的だが、この衣装をまた一から着直すのはあまりにも面倒くさい。天子は手を突っ込んで紙切れを引き抜く。

「げっ」

畳まれた紙を開くなり眉を寄せた。『13:30~14:30』、ほとんど最後ではないか。いっそ十四時から休みにして、早く帰らせてくれればいいのに。

「運悪くない? あたしはいい感じ」

『11:00~12:00』の札を唯が見せびらかしてくる。中休みとしてはこれがベストだろう、天子は歯噛みするしかない。向かいの男が引いた『9:30~10:30』とどちらがマシか。定食のように一人前ずつ出てくるなら平等だが、バイキング形式で早い者勝ちなら圧倒的に不利だ。ごめんねえ、と巾着を空の盆に乗せておばさんは苦笑い。

「お昼もここに用意しとくからね。大丈夫、もらいものがいっぱいあるからご馳走だよ」

またおにぎりの山かと思いきや、少しは期待できそうな言いぶりだ。昼が遅いと確定したからにはもう一つ失敬しておくか。唯が半ばまで食べた握り飯が、彼女の取り皿から天子を見つめていて驚いた。

「おい! お前これ鮭じゃねーか!」

「そうだけど、なんで?」

甘そうな卵焼きを食べながら、唯が不思議そうな顔をする。

「鮭あんなら言えよ!」

「そんな好きだっけ? 俵型が鮭って言ってたよ。ごま振ってあるのが梅干し」

「あとは?」

「今食べてたじゃん、昆布」

舌打ちしつつ俵型に手を伸ばす。辛口の塩鮭をむぐむぐと咀嚼しながら、昼飯に夢を託すしかなかった。おばさんは卓上のまともなほうじ茶を全員の紙コップに注いで回る。

「はい、こっちのお茶はうまいからねえ。食べたらじいさんたちと全員でお参りするから、外で待っといて。ここにカイロあるから、寒い人は腹にも背中にも貼っときな」

唯をはじめ、女子がホッカイロ箱を囲んでは袴の内側をごそごそとやり出す。別に着替えるわけでもないが、何となく見ないようにしつつ、男子は残りの飯をさっさとたいらげた。ひとまず昼までは保つだろう。うまそうな露店の匂いに拐かされませんように。
社務所の入口で履物を選び、一行はぞろぞろと社殿に向かう。巫女は朱鼻緒の草履、男は黒の雪駄。といっても実はそれらしく見えるサンダルで、簡単に脱げないよう踵の部分にこっそり透明なゴムが渡してある。昔は本物だったらしいが、慣れぬ履物で階段を下る際に転んで怪我を負った者がいたため、ずいぶん前から労災防止として切り替えたという。そこまでするのならいっそ靴やブーツにしてほしい。女子は足の裏にまでカイロを貼る始末だ。

「えー、ごほん。本年もまた、例大祭の時節となりました。本祭が無事に成功致しますよう、お祈り申し上げます。我々一同、ならびに高浪の民をお守り下さいますよう、宜しくお願い致します」

装束に着替えた宮司が笏をゆるりと振って、本殿の前で頭を下げる。おばさんに促され、若者たちも彼や氏子に倣って腰を折った。しばしの間、訪れる静寂。
神様など根っから信じていないが、成り行きとはいえ祈る立場になってしまったので、願い事くらいは拝んでおくべきか。半纏の裾をきゅっと握り締める。

(あの人が、無事に受かりますように)

自分が願わずとも、勝手に合格の方から寄って来るような人間だけど。
ついでに、と心の内側で燻る懸念も吐き出しておく。

(今日会う時、ぎくしゃくしないで普通に喋れますように)

「ふむ、よし! では只今を以て例大祭を執り行うとする。全員、持ち場につきなさい」

宮司の掛け声に、またねと唯が手を振って授与所へ歩いて行く。
女子の役割は小物販売と御神札の受け渡しだ。売り場でストーブに当たりながら参拝客の相手をするという。男子は敷地内の見回りも兼ねて、参拝客の誘導や案内をする。業者が運んできた荷物を社務所へ運び入れる作業もあるらしい。任された区画の中を巡回しつつ、人助けに勤しむのだ。
朝の六時過ぎではろくに人も来ないだろうと思いきや、高齢者を中心とした参拝客が続々と階段やスロープを上ってくる。手水所の裏で夜中から焚き上げを行っているので、そこに放り込む古い札を背負ってくる者も多く見られる。
天子たちは階段を行き来しつつ、よろめきそうな老人たちの代わりに札を抱え、彼らの手を引いてやる。無給のボランティアでもないし、こんなことでしきりに感謝されるのはむず痒い。中にはお礼といって何か手渡してくる人もいるので、雇われた立場だからと丁重に断っておく。そんな金は賽銭箱にぶち込んでくれればいいのだ。

「見ろよ天子。あれ、焼きそばじゃね?」

「食ったばっかでよく気になるな」

境内のあちこちで露店の骨組みやのぼりをせっせと準備する業者たち。男子のひとりが大きな鉄板を指差すと、屋台の主人が鉄板横に中華麺の詰まった袋をドンと置いた。焼きそばらしい。値段は四百円程度か。五百円なら天子は買わない。

「買いてえけど着替えんのめんどくせえな」

「三時ならまだ屋台やってんだろ。終わってからでよくね?」

宮司にいくつか注意されたうちの一つが『勤務時間または祭衣装のまま屋台で買い物するべからず』だ。勤務時間が十五時までなのでそれが済んでから、もしくは各々の昼休憩で私服に着替えてから、と強く言われていた。確かに巫女が焼きそばなんてすすっていては恰好がつかない。露店はあくまで露店。神社は神社らしい雰囲気を作るのも仕事のうちだ。

(そういや、あいつら何時に来る気だ)

半纏のポケットから携帯を覗かせ、サブディスプレイを確認する。六時二十五分、新着Eメール一件。周囲を窺って、林に身を隠しながらこっそりと携帯を開いて操作する。差出人の表示に、あ、と思わず声が漏れた。


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