sirop
ひのてんR18

「――――!」

は、と大きく息を吸い込むと同時に両瞼を持ち上げた。年代物の壁時計がカチコチと針を進める音だけが聞こえる、夜の生物部室。ソファでぐっすり眠り込んでいたらしい。

「起きたの?」

頭上のひどく近い位置から聞き慣れた声が降ってくる。前髪を掻き上げる手の優しさにもう一度瞼を閉じかけるも、クッションとは違う枕の感触に気づいた天子は慌てて体を起こした。頭を預けていたのはやはり膝だ。

「重くなかったんですか…いや、じっとしてんのつらかったんじゃ」

「じっとしてるのは動くより得意だよ」

文庫本をぱたんと閉じて火野が微笑む。

「最初は座ったままうたた寝してたんだけど、だんだんこう…」

首を傾げるようなジェスチャー。寄り掛かる先を探していたのか。

「横になった方がいいと思って、僕は退こうとしたんだけどね。間に合わなかったの。でも落ち着いちゃったみたいだから、まぁいいかなって」

起きた拍子に天子の背中から何かがずり落ちる。彼のジャケットだった。長袖シャツ一枚では冷えると思って掛けてくれたのだろう。夢の『匂い』が随分と鮮烈だったのはこれのせいかもしれない。熱っぽい頬を気取られぬよう返却する。
ふと、彼の膝にわざとらしく敷かれたブランケットが目に留まった。横目に睨みながら天子が問いかける。

「涎とか、垂らしてました?」

「垂らしてないと思うけど、どうして?」

「いや、これ」

これ、と膝上の薄い毛布を指差せば、火野は小さく吹き出した。突飛な発想と思ったのかもしれない。

「そういう意味じゃないよ。僕の膝じゃ硬いかなと思っただけで」

「なんだ」

うっかり制服を汚しかけたのかと肝を冷したではないか。何でもない理由に安堵した天子は毛布を引っ剥がし、スラックスに再びごろんと頭を乗せた。

(かった)

骨がぐりりと頬にめり込む。でもいい。このままでいい。枕は硬い派だ。
寝癖のついた髪を撫でつける手。心地良い感触に、とろんと潤んだ瞳を閉じては開く。

「勉強、ちょっと頑張りすぎなんじゃない?」

壁のカレンダーに目を移した火野は、天子が赤ペンで囲んだ日付にそっと息をつく。

「コツコツ進めれば充分間に合うよ」

そう、夢の中で終わっていた中間考査はこれからだ。打倒薫を胸に、日夜テスト対策に明け暮れていた報いがとうとう発現してしまった。特に自覚はなかったが、あんな夢を見るほど煮詰まっていたとは。体に変化が出なくて幸いだった。

(汗とか、余計なこと言われたせいだ)

今から少し前の、真夏日。
行為を終え、ベッドでぐったりと疲弊していた天子の体を拭いながら(後で入浴するからと固辞したのに全く聞き入れてくれなかった)、実に不思議そうな顔で火野は尋ねてきた。

『そんなに暑い? エアコン、温度下げようか』

『……何度にしてたんですか』

『今? 28度の微風』

『5度下げて自動で』

外気温34度の猛暑で省エネとは片腹痛い。行為のさなかはどうでもいいが、六畳間ならともかく部室の三倍広いこの寝室では電源オフと変わりない。
希望通りにリモコンが操作されたらしく、エアコンの本領発揮とばかりに冷風が流れ込んできた。ああ、生き返る。全裸の自分を差し置いて、彼は薄手の長袖シャツをきっちり着込んでいた。

『!?』

風が触れていた首筋を、背後からぺろりと舐められて肩が跳ねる。

『本当だ、汗かいてる』

揶揄の混じった台詞にタオルをむしり取り、当てつけの如く首周りをぐしぐしと拭き始める。
人間暑ければ汗をかくし、寒ければ鳥肌も立つし、興奮すればあれやこれやを垂れ流す生き物なのだ。どうもその辺りが鈍く、いつでもさらりと綺麗な彼と一緒にいると、自分だけがひどく汚れているようで後ろめたい気持ちになる。

『怒った?』

聞こえないふりをして背中の汗を拭おうと起き上がるや否や、後ろから伸びてきた両腕がしっかりとウエストに巻き付いた。同時に、頸椎から髪の生え際までを舌先が滑る。

『っだから、やめろって言っ…』

『甘いね』

砂糖をまぶして焼き焦がしたような声に思わず口をつぐみ、天子は怪訝な目を肩越しに向けるしかない。

『主成分知らないんですか』

『塩分だね。ナトリウムとカリウムが八割を占める』

『なんでそんな嬉しそうに言うのかがもうわかんねえ』

例のアロエジュースといい、元から味覚自体が狂っているのは否めないが、それにしたって嗜好が歪みすぎではないか。

『甘いのキライなくせに』

『だから時々は摂取した方がいいでしょ? ほら、ちょうどお肉もあるし』

歯を立てられた耳がじんと痛んだ。タオルでさりげなく下腹部を覆って、風が頬の熱を冷ましてくれるのを待つ。

『自分にないものをたくさん持ってる子は魅力的ってことだよ』

(ない、もの…)

爪の形まで整った手を見下ろして思う。
どうやっても敵わないところ。背伸びしても届かないところ。勉強しても追いつかないところ。
近くにいても、ひとつになっても、距離が縮まらない気がしていた。自分に足りないものを躍起になって探しては、彼の三歩後ろを必死で追いかけているような心地で。
「ない」ものは確かに「ない」のだろう。でも、自分では目の前にあるのが当然で「見えな」かったものが、彼の中にはずっと「あった」のだ。

『ん?』

振り向きざま、首をぐっと伸ばして口づける。足を突っぱりながら背中で彼の胸を後方へ押しやれば、二つの体はあっさりとシーツに沈んだ。リモコンで冷房を省エネモードに切り替え、這い出した天子は仰向けの彼にのしかかるように抱きついた。

『糖分、要るならどうぞ』

ベタベタの体で抱き合うなんてごめんだったのに。震える胸を擦り付けると、汗ばんだ背中を掻き抱かれて熱が内側に籠っていく。

『ありがとう』

こんな体で良ければ、汗水だろうが血肉だろうが、望むもの全てを捧げてやる。

ーーー

「もう少し息抜きしてもいいと思うんだけど――って、あれ? また寝ちゃった?」

「起きてます」

回想に身を浸すあまり、相槌が疎かになっていたようだ。硬い骨へ頬擦りするようにかぶりを振って応答する。天子の目にもカレンダーが映った。今は金曜日、の夜。

「帰らなくて大丈夫?」

一方、火野の目線は時計に注がれる。蓮華駅発の電車時刻が緩やかに迫っており、天子は寝心地の悪い枕に未練を覚える。夢で体力を大幅に削がれ、空腹もそろそろ極まってきた。

「泊まっていいですか」

もう遠慮なんかしてやらない。
自分のどこを気に入ったのかも正直わからないが、この関係になった以上は勿体ぶらず甘えることにした。良し悪しの判断は彼に任せ、自分は言いたいことを飾らず口に出せばいい。

「僕はいいけど、家の人になんて言うの?」

「勉強教わるって」

それ以外に言い訳が思いつかない。
嘘ではないけどね、と彼の苦笑を掻き消すように腹が鳴った。指先ほどの羞恥心はあるが、勝手に鳴るものはどうしようもないので開き直る。

「何食べたい?」

「作るの大変じゃないんですか」

「大変じゃないけど、買い物からだね。待てないならどこかで食べようか」

「じゃ、中華」

ぽんぽんと気取らない応酬の軽さが快い。緩慢に体を起こし、帰り支度をしようと机上のテキストをかき集める。

「僕もお腹すいてるの」

「え」

夢の中で囁かれた言葉と同じ。
年に数回も聞くことのない申告に、思わず手を止めて振り返った。ふっと浮かべられた微笑みの中に混じる、仄かな欲の色。

「今、仮眠取ったもんね」

送られる流し目に、ざわざわと背筋がさざめく。

「夜更かししても、平気だよね?」

切れ長の双眸を真正面から受け止めたのち、天子は舌を打ってうつむいた。

「それ、食欲じゃないと思うんですけど」

「ん、そう? てんこがいろんなもの食べさせてくれるから、間違えちゃった」

別の欲は己の空腹を満たしてから、と思っていたのに。こうも煽られては、今すぐその眼鏡を放り捨てて口づけたい衝動に駆られる。むずむずとわななく唇。

(落ち着け)

自制を効かせるべく、深く息を吸って荷物を詰め込んでいく。なぁんだ、とからかうような声音を無視してペンケースも放り込んだ。

旨いものは我慢すればするほど旨いに決まっている。自分もたぶん、例外ではない。
願わくば、絞り尽くした最後の一滴まで。甘く美味しく食べてもらえますように。


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