おまけ リーマンパロディ その後 |
「は……ぁあ!?」 思いがけない言葉にぎょっと目を見開き、食べかけのパンを皿に落とした天子は瞬きを繰り返す。こうも狼狽しては認めたようなものだが、元より火野に嘘は通用しない。 「え、いや、なんで知って…」 技術プレゼンのビデオを総務の彩音にこっそりコピーさせたことを、白峰ならともかく何故彼が知っているのか。 「どうしてだろうね?」 にこにこ。死にかけのネズミをいたぶる猫のような微笑みが殊更に怖い。ここまで詰められるとなると、下手に言い訳せず謝るのが吉か。 「怒って、ます?」 「ううん」 ほんとか? 「すみません」 「怒ってないよ」 「ほんとかよ」 思わず口をついて出た言葉に、 「あ、今のはちょっと怒ったかも」 「すみませんマジで」 ワントーン繰り下がった声にすかさず謝罪を入れた。これが他人ならば『勝手にキレてろボケ』と撥ね付けて終わる。 彼が本気で怒ったところを、片手で数えられる程度には見た覚えがある。そして指折り数える度に、零のトラウマじみた体験談を思い出す度に、絶対にその対象にはなるまいと心に誓うのだった。 嫌な汗がたらたらと背を伝う中、テーブルの向こうから伸びた手に髪を撫でられる。 「うそうそ、怒ってないって。悪用するつもりじゃないのはわかってるけど、一応社外秘なんだし、持ち出しはダメだからね」 「はい」 項垂れて安堵の息を重ねたのも束の間、それで?と火野が理由を尋ねてくる。 「どうしてコピーしたの?」 「わかんないんですか」 「わかってたら訊かないよ」 気恥ずかしさについ、つっけんどんな口調になってしまった。咀嚼した燻製肉をごくりと飲み込み、腹を決めてわざと声を張る。 「ろくに会えないならせめて、映像くらい繰り返し見ても罰は当たらねえだろと思って」 「え、僕のことが見たかったの?」 なぁんだ、と火野は柔らかく笑ってコーヒーを啜る。熱っぽい耳を無視してパンをかじり、天子もぬるいコーヒーをぐっと流し込んだ。免罪にもならない言い訳をこぼしたくもなる。 「そりゃ技術資料だし、良いことしたとは全然思ってねえけど、ちょっと個人で使うくらいは別に…」 「ん?」 軽く目を瞬かせた火野が小首を傾げる。つられて天子が手を止めれば、 「使うって――何に?」 問いかけた唇に薄く笑みが乗った瞬間。 ぼてっと、再度落下するサンドイッチ。全身の毛穴という毛穴からぬるい汗が吹き出し、さーっと波のように血の気が引いていく。 「つかうって、言いました…?」 絞り出した声は取り繕えもせずただ震える。最悪、複製の件は知られても構わなかったのだ。だから彩音にも大した口止めはしなかった。本当の用途さえ、バレなければいいと思って。 「言ったね」 「だからその、見るだけ……で、…」 ひどくうろたえながら盛大に目を泳がせた天子に、とうとう火野が小さく吹き出した。脳みそが瞬間湯沸し器の如く煮立つ。 クソッ、と己に悪態をついた天子が観念したように頭を抱えた。襟から覗く首筋はすっかり紅潮している。 「んなもん言わなくたって、見当ついてんだろどうせ!」 「言っていいの? 僕の口から?」 「〜〜〜〜っ」 心から楽しんでいますと言わんばかりの返答に、羞恥と悔恨の合挽きハンバーグが自尊心をボコボコに踏みつけてくる。 ――イヤホンを差し込めば、愛する人の声が滔々と耳に流れ込んでくる。公式の場に相応しい、畏まった一人称と口調が珍しくて、格好よくて。どくどくと高鳴る鼓動に唆されるまま、寂しさを埋めてしまった。彩音を馬鹿にできたものではない。 「……引きました?」 棚上げと謗られるだろうが、仕事の結果をそんなふうに利用されるなんて自分なら耐えられない。たとえ好意を抱いている相手だとしても、裏切られたような気持ちになるだろう。 恐る恐る、突っ伏した腕から僅かに顔を持ち上げれば、彼はタブレットをいじりながら何でもないことのように返してきた。 「そんなことじゃ引かないよ」 「そんなことって――いや、いいですけど」 取るに足らないと言われているようで胸がちくりとしたのは一瞬だ。 こう何年も自分から――男から好意を寄せられていれば、そういう対象として扱われることにも慣れざるを得なかったのかもしれない。 ともあれ、不快に思われなかったのならよしとしよう。罪悪感が募るばかりだった心も少しだけ軽くなり、ふうと息をついて食事を再開する。 底が見え始めた天子のカップに目をやり、火野もコーヒーのおかわりを注ぎに席を立った。 ーーー 「手伝います?」 「大丈夫。ゆっくりしてていいよ」 食後。 腹を満たしてもらった礼にと後片づけを申し出たが、火野はトレイに食器を乗せて手早くシンクへ運んでいった。コンビニから戻ってきた際に言われた『安静にしててね』を思い出し、天子はおとなしく引き下がることにする。 テーブルに放置していた、充電完了のスマホを手にして驚いた。未読メッセージの恐ろしい数たるや。グループLINEをざっと読めば、天子の体調を気遣う言葉――もちろん二日酔いを案じてのもの――と、大型連休中にもう一度仕切り直しで飲み会をしようとの提案がなされていた。昨夜、火野が皆をどう言いくるめたのかは聞いていないが、不調の自分を送っていくとでも話したのだろう。『さっき起きた。元気だから心配すんな』と返せば、即座に既読が3まで増えた。 続けて個人のLINE。嫌になるほど予想通りのメッセージが、彩音から立て続けに寄越されていた。 『具合はどうですか?』 『お持ち帰りされちゃいましたけど』 『その後どうだったんですか?』 『詳細待ってます!』 天子は深くため息をつき、『帰って寝た』とだけ送ってアプリを閉じた。何も嘘はついていない。 『もっと』『具体的に!』の返信には既読無視を決め込み、スマホをローテーブルへ置いてソファに飛び乗る。 「ぐえっ……!」 衝撃に腰が軋み、思わず体を丸めて呻いた。皮膚が埋まり込むほどふかふかなソファですら、今の己には針山も同然らしい。 (そういや昨日、ここで……) 押し倒されて、唇を塞がれて。流されるまま快楽の海に溺れた記憶がふわりと浮き上がり、キッチンに背を向けて赤面を隠す。 「大丈夫?」 無様な悲鳴が聞こえたのか、近づいてきた火野がソファを覗き込んでくる。なるべくゆっくりと上体を起こして、天子は曖昧に頷いた。 「ちょっと調子に乗りました」 座面の硬い椅子は堪えるが、体重が分散するような柔らかさがあれば座っていても平気だ。今日はずっとこうしているしかないか、とソファで足をぷらぷら揺らすと、火野がすぐ隣に腰を下ろしてきた。 「痛いよね」 腰のやや上を優しく撫でられ、頬がじわりと熱を持つ。また余計なことまで思い出してしまいそうで、天子は壁の時計を指差して尋ねた。 「仕事、行かなくていいんですか」 「うん、急がなくても大丈夫。機械を動かしてくるだけだし、一時間もかからないから。それより」 話題を変えてくれなかった火野が、するりと腰を撫で上げて呟いた。 「やっぱり手当てした方がいいかな」 「てあて………?」 手当てってなんだ。腰に湿布でも貼れと言うのだろうか。 呆気に取られた天子の眼前に、火野は懐から取り出したものを緩く振って見せる。彼の中指と同等の長さの、謎のチューブ。 「塗ってあげるね」 うっすらと微笑みを覗かせた恋人に、深く考える間もなく天子は後ずさった。この表情は危険だと、体が本能的に判断したらしい。 「いや、塗るって――は!? それっ、なに…」 「わかるでしょ? お、く、す、り」 一文字ずつ単語が区切られていく僅かな時間で、恋人がいったい何を企んでいるのか、天子は全てを理解した。 「嫌だっ、んなもんやらなくたって…っ」 彼の手で怪しい薬を塗りたくられるくらいなら、痛みを素直に享受した方が何倍もマシだ。何が悲しくて、太陽が煌々と照る居間でそんな場所を晒け出さねばならないのか。昨夜でさえ、あの暗さを以てしても死ぬほど恥ずかしかったのに。 火野は困ったように笑うばかりだが、その裏でどす黒いものが渦巻いているのが見てとれる。逃げを打つ前に腰を抱かれ、耳元で囁かれるとビクリと肩が跳ねた。 「月曜までに治らなかったら、困るのはてんこだよ? 研修、どうするの? 来週から技術の実習もあるのに」 尾てい骨をたどって、意地の悪い指先が問題の箇所を服越しに撫でていく。喉の奥から溢れそうな声を噛み殺し、天子はきつくかぶりを振って叫んだ。 「このくらい、二日あれば動ける…!」 「そうなの? じゃあ『このくらい』がどのくらいか見せてくれる?」 「!? だ、ったらそれ、自分で塗るから…ください」 「やだ。傷つけたのは僕なんだから、ちゃんと責任取らせて」 でないと、と悪意を多量に含んだ声音が付け足される。女を狂わせるための低音は凄絶なまでに艶かしい。 →next ×
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