酩酊ユーフォリア リーマンパロディ |
◆◇◆ 「………?」 眠りの深海から浮上した天子は顔を動かさないまま、薄目で周囲を見渡した。遮光カーテンを縁取るように光がちらつき、外の明るさを如実に伝えてくる。 すん、と吸い込んだ部屋の空気に言い知れない甘さが混じっていることに気づき、瞬時に覚醒した天子は慌てて体を起こし――かけて悶絶した。 「うぐおぉぉぉ…」 枯れた悲鳴に、眠気も吹き飛ぶほどの全身痛。皮膚下を走る神経がぴきぴきと張り詰めている。特に腰から下の被害は甚大で、広いベッドを這って抜け出したはいいが、思うように立ち上がれず、床にしゃがみこんだ姿勢で再び呻く羽目になる。 がくがくと小鹿のように震える脚を、サイドボードに掴まってなんとか支える。一歩一歩慎重に進みながら、乱れたベッドを見返した。 (もう、起きてるよな) 時計は十一時を回っている。火野はとっくに起床しているはずだ。壁を伝って恐る恐る歩き、部屋の角に置いてある全身鏡に映った己の服装にふと目を留めた。 (着替え…) 泊まる準備などもちろん皆無だったので、部屋着をまた借りてしまった。半ば気を失うように眠りについたせいで記憶は曖昧だが、少なくとも自分で服を身に付けた覚えはない。はっとしてウエストから下着をこっそり覗くと、そちらも汚れた形跡や不快感はない。ということは体を清めてもらってから、洗濯した衣類を着せつけられたのか。ドアを押し開けつつ、天子は羞恥に俯いた。 覚束無い足取りでリビングを目指すが、家の中はしんと静まり返っている。 「まさか仕事行ってねえよな…」 女でもあるまいし、恋人にちょいと放っておかれるくらいはなんとも思わないが、さすがに昨日の今日でそれは堪える。訝りながらリビングに向かうと、ダイニンクテーブルにメモが貼ってあった。 『買い物してきます。すぐ戻ってくるよ』 見慣れた筆跡にひとまず安堵する。 メモの横には天子のスマートフォンが充電器に繋がっていた。バッテリー切れで電源が落ちていたらしい。だからメッセージアプリではなくアナログの書き置きにしたのだろう。 納得したところで、気怠い体を癒すべく風呂を借りることにした。腹は死ぬほど減っているが、冷蔵庫が空なのは見なくとも察せる。火野も入浴を見越していたのか、浴槽にはたっぷりと湯が張ってあった。するすると衣類を落としていた天子は、洗面台の鏡が目に入るなりぎょっと目を剥いた。 「うわ……」 首筋、胸元、わき腹に背中。遠慮なく施された無数の鬱血痕には絶句する他ない。 昨夜のあれこれが脳内で炭酸のように次々と弾け、乱暴にかぶりを振って浴室へ踏み込んだ。シャワーのコックを勢いよく捻って湯を浴び、シャンプーを泡立てながら反芻する。 (アレが気持ちいいって…ヤバいんじゃねえか、俺) 初めては痛いだけだとか、受け入れるのに精一杯だとか。迷信だったのだろうか、いやまさか。抱かれる素質などあってたまるか。そう、自分が折れてやるのは一度だけと決めたのだ。次はきっと、きっと。恥じらいごと泡を流して下克上を誓うが、容易く揺らいでしまいそうな意志が憎い。 早急で贅沢なバスタイムを終え、タオルを被って廊下に出ると、ちょうどエントランスの方で物音がした。廊下を進んでくる気配に、表情を取り繕う暇もなく見つかってしまう。 「おはよう。お風呂入ったんだね」 淫猥な夜の残滓すらない、爽やかな微笑みを向けられて戸惑う。提げられたコンビニのレジ袋が恐ろしく似合わなかった。 「体はどう? 大丈夫?」 「全然」 やや視線を外し、問いかけにゆるゆると首を振った。長い睫毛を伏せた火野は、天子を抱き寄せるようにして腰を撫でる。 「ごめんね。痛いでしょ」 「そりゃ痛えけど、別に謝んなくても…」 自分のそっけない態度のせいだろうか。昨夜の面影が重なってつい横暴に振る舞ってしまったが、あまり心配はかけたくない。即座に口調を改める。 「歩くのはきついけどまぁ、大丈夫です。寝てりゃさっさと治りそうだし」 「そう? 今日は一日、安静にしててね。僕にできることはするから」 柔らかなタオルで髪の水分を優しく拭われる。乾かしてあげる、などと言いかねないうちに彼をキッチンへ追い立てれば、買ってきた物品を粛々と冷蔵庫に詰め始めた。その背中を眺めながら、目覚めた時に感じた、ベッドの余白を思い返す。 「そこの書き置き読むまで、仕事行ったのかと思ってました」 口にしてから、これではまるで寂しかったと拗ねているみたいだと気づく。振り返った火野は困ったように笑った。 「そこまで薄情じゃないつもりだったけど、そう思わせた時点でダメだよね」 「あ、いや、ダメじゃなくて」 「いいの。思ってるだけじゃ伝わらないのは、昨日てんこに怒られてよくわかったから」 「だから! 俺がキレて喋ったことなんかどうだって…」 不意に言葉を切った天子は、切なげに眉を寄せるなり、きつく拳を握って尋ねる。 「俺が開発課行きたいっつってんの、迷惑ですか」 「どうして?」 火野は手を止めて天子の顔を覗き込んでくる。随分と突拍子もない話を始めてしまった。それでも彼は遮らずに聞いてくれる。 「俺は水川と違って研究に向いてるわけじゃねえし、大学だって人に助けられながらやっと卒業できるようなレベルで、そんなのが実力もねえのに開発課行くとかごねてたら、邪魔になるんじゃねえかって」 優しい火野は自分を決して否定しない。けれど、明確に『使えない』とわかっている人間に時間を割くこともない。恋人という一概には切り捨てられない立場にいるなら尚更、諦めるべきだと正面切って告げることは憚られるだろう。仮に希望通り配属されたとしても、実力が伴わないのであれば誰かの助力が必要になる。足手まといになってまで、彼と共にありたいと願うのは傲慢としか思えない。 「今のもそうだけど、仕事なら仕事でよくて…俺がなんか余計なこと言ったからって仕事放り出して俺に構うようになったら、嫌だっつーか、そんな優先されるほどじゃねえし…」 悩ましげな表情で項垂れた天子の濡れ髪に、ぽんと手のひらが乗せられる。 「てんこは優しいね」 「はぁ!? 俺は別に…」 火野は普段通りの穏やかな口調で続けた。 「僕は何も迷惑だなんて思ってないよ。他の子が開発課目指してますって言い出したら、絶対止めるけどね」 「え……」 「自慢できる環境じゃないのは事実だから。毎年誰かしら入院するし、やることはたくさんあるし、役員はムカつくし。やめておいたら?って一度は言うよ。でもね、てんこには言わないの」 意味深な目線を投げ掛けて、彼は悪戯っぽく笑う。 「昨日も言ったでしょ。いつでも見ていてくれる子じゃなきゃ嫌なんだよ、我が侭だから。ひどいことを言うとね、てんこがそうやって僕のことでぐずぐず悩んでるのが嬉しいの」 「は……?」 傾国の美女さながらの、男を手玉に取る翻弄ぶりに。さすがの天子も呆気に取られるしかない。 「……性格、悪すぎません…?」 マジかこの人。マジで言ってんのか。 「僕は性格悪いけど、それ以上にてんこは趣味が悪いからね、見てて楽しいんだよ。だから他の子が音を上げて逃げ出すようなひどい場所でも、きっとてんこは隣にいてくれるんだって信じてるから」 「貶されてんのか褒められてんのかわかんねえ…」 「ごめんごめん。でも実力がないなんて言うけど、僕はそうは思わないな。会社で一番大事な『自己主張』はクリアしてるし、僕みたいにいきなり開発課に出されるとそれはそれで僻まれたりして面倒だから、ゆっくり勉強していろんな経験をしてからおいでよ。 あと、仕事するのも放り出しててんこと遊ぶのも僕が自分で決めてるんだからね。それはそれ、これはこれ。てんこが気に病むことじゃないよ。ね?」 そう言い切って、火野は再び冷蔵庫に相対すると卵パックを開封する。耳に残った言葉をいくつも繰り返し、天子は両手を伸ばした。 「ん?」 背中にぴったりと張り付くように抱きつけば、卵を手にした火野が肩越しに振り向いた。 「五年」 「ごねん?」 「研修が終わったら技術のどっかに配属されて、そこでしばらく働かされるんだろうけど。ゆっくりったって、だらだらやるのは性に合わねえし、とりあえず五年って決めます。それまでに絶対、実績つくって、偉い奴らにぎゃふんと言わせて、開発課が『お願いします来てください』って向こうから頭下げに来るような、そういう人間になってやる」 五年でも相当に厳しい道のりになるとみていい。しかしそれほどの覚悟もなしに、赤子が駄々をこねるような気持ちで彼の隣に並べるとは思っていない。 華奢なウエストへ回した腕に力を込めれば、ふ、と火野が柔らかな笑みを浮かべた。 「うん。楽しみに待ってるから」 僕は午後から仕事行こうかな、なんて気まぐれを覗かせる声に、敵わないな、と心底思う。 でも敵わなくていい。敵うようなら初めから心を奪われてなどいない。 恋の迷路に迷い込んで早数年。人生を賭けた壮大な追いかけっこが、どうか末永く続きますように。 ↑TOP ×
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