酩酊ユーフォリア
リーマンパロディ

「あの日――」

温かな吐息と低音が耳朶を掠め、ぞくりと天子の背筋が戦慄いた。

「駅までの帰り道、てんこは楽しそうに話してくれたね。就活のこと、研究のこと、院のこと。たくさん勉強して、経験して、成長して。すごく誇らしそうで僕も嬉しかったし、そうして頑張ってきたてんこが、その過程で出会ったたくさんの人より僕を選んでくれたことが、一番嬉しかった」

――あなたの隣に在り続ける自分を、誇らしく思っていてほしかった。

遥と相対して得た感情は、自分の気づかない場所で、自分が一番望んでいた場所で、ずっと前から満たされていたのだ。

「だから、欲しくなったの」

くしゃりと後頭部の髪を柔らかく掴まれ、胸の奥が甘く震える。そのままどろりと溶けてしまいそうな熱を、口許の手を剥がして唇から吐き出した。

「んなこと、言われたら……っ」

きつく瞳を閉じ、込み上げてくる熱情をぐっと呑み込む。あの夜の記憶が舞い戻った時点で決壊寸前だった心は、拍動に激しく揺さぶられて今にも張り裂けそうだ。
伸ばした両手で彼の上襟を握り締め、腰を浮かせた勢いのままに口づけた。かつんと眼鏡が当たった痛みも、隠しきれない煙草の残り香も、キスの陶酔に全てかき消されてしまう。

「んっ……」

しっかりと両腕を絡め、深くなりきらないキスをもどかしく思いながら繰り返していると、苦笑と共に唇を離されて眉を寄せる。

「ちょっと待って」

長い指が弦を挟み、目許からするりと眼鏡を抜き取った。何年経っても素の瞳には慣れなくて、見つめられれば脈がいっそう落ち着きを無くす。ぱらりと頬に落ちた天子の横髪を耳へかけるように指先で撫でつけ、彼はゆっくりと唇を重ねてきた。

「っん、ん………」

ソファに両膝をつき、腰を若干持ち上げた体勢で口づけを受ける。表面を擦り合わせるキスは最初だけで、舌先で隙間を割られると膝からかくんと力が抜けた。ぺたんと女の子座りのような格好で抱き寄せられ、徐々に深みを増していくキスに翻弄される。

「ん……っ、ふ……ぅっ…」

引っ込めていた舌をやや強引に引きずり出されて、舌先を何度となく吸われる。天子の反応を覚えているのだろう、彼は口腔の弱い場所を的確に狙ってきた。
熱を持った舌を絡められれば、下肢がずくりと浅ましく疼く。

(やばい……)

想いを受け入れてもらえた夜に交わした口づけ。
ふと思い出しては自らの唇をなぞり、欲を収める際も鮮烈なイメージを脳裏に刻み込んでいたことが仇になった。口を合わせただけで簡単に昂ってしまうなんて、思春期の学生ならともかく、大人としてはあまりにも余裕が無さすぎる。

「んん……っ」

無意味に膝を擦り合わせてみるが、口づけられながら指先で耳を愛撫されて腰が跳ねる。体の奥からとろとろと溶けてしまいそうな感覚に、このままではいよいよダメだと思うのに、自ら舌を差し出してしまう本能が憎い。

「っは、ぁ……、っ!?」

唇が名残惜しげに離れて間もなく、両肩を後方へ押されて背中がソファの座面に沈む。抵抗する暇も与えられないまま、のしかかるように再び唇を塞がれ、愛おしげに前髪を掻き上げられると胸の内がさざめく。

「ん、ん…っ…」

しっかりと首に腕を回し、より深い口づけをねだる。体の疼きはひどくなる一方で、痛いくらいに舌を吸われても全てが快感にすり替わってしまう。
が、じわりと下着を湿らせる気配に慌てて我に返り、彼の胸をやんわりと押し返した。

「ぁ……っ」

キスが解かれると同時に、火野の手が戸惑うことなく中心へ触れてくる。スラックス越しにやわやわと形を確かめるように手のひらを押し付けられ、天子は刺激から逃れようと下肢をばたつかせた。

「ちょ……っ、やめ……」

「かわいい。あの日もこうだったね」

満足げに頷いた彼はそこから手を引くと、血の通った首筋をきつく吸い上げた。ちりっとした痛みと痕跡を皮膚に残し、色づいた真っ赤な耳をぱくりと食む。

「ん………っ」

舌を這わされ、感じる吐息と水音に腰の両側がむずむずと沸き立つ。欲に流されてしまいたい理性を奮い立たせ、天子は漏れ出る声を呑み込んで苦言を絞り出した。

「俺、が、下……?」

くす、とこぼれた笑みすら鼓膜を震わせる。火野はやや上体を起こし、決して目を合わせようとしない天子に向き合った。

「不満?」

「不満っつーか……そっちの想像はしたこと、ねえから…」

無理もない。もともと同性愛者でもなければ抱かれたい願望が芽生えたわけでもなく、普通の男として好きなのだから。天子だってできたら彼をこの手で乱したいと思うし、脳内では数え切れないくらいあれこれと無体を働いてきたのだ。自分が抱かれる場面など考えもしなかったし、今更想像したくもない。
濡れた唇を結んでそっぽを向く天子をなだめるように、火野は縺れた髪を撫でつけて告げる。

「じゃあ、これからは思い出してもらえるようにしないとね」

「結局そうなんのかよ…」

諸々の経験では勝てないにしても、想いはこちらの方が何倍も深いのに、念願が果たされないのはちょっと理不尽だ。これが惚れた弱味というものか。ひとしきり文句を垂れた天子が、やがてこれ見よがしにため息をつく。

「――ここまで来てグズグズしたくねえし…とりあえず今日は、折れてやります」

「ありがとう。明日からも折れ続けてくれていいよ」

言うが早いか、元から緩んでいたネクタイの結び目を指に引っかけて解いてしまう。ワイシャツのボタンをプチプチと外す手を天子が留めても尚、首元から露になった肌に顔を埋めるようにして鎖骨に口づけてきた。もう何を言っても無駄なことは天子にもわかっていたが、譲れない懸念がひとつだけある。

「せめて、風呂…」

「ダメ。また眠っちゃうと困るから」

天子の呟きを笑顔でにべもなく却下した火野は、抵抗が弱まったのをいいことにボタンをさっさと外し終える。インナーシャツの下に滑り込んだ手の冷たさにびくりと肩を揺らし、天子はかぶりを振って反論した。

「きょ、は寝ねえ、って…!」

あの夜と違って、乾杯した酒には半分も口をつけていないし、これから抱かれるとわかっていて居眠りできるほど呑気な性分でもない。
そしてこの一か月で気温は春らしく上昇しており、今日は研修であちこち巡った果てに凡ミスのせいで階段を駆け下りたりと、冷や汗を含めて結構な状態になっている。シャワーのひとつも浴びなければさすがに気が済まない。今でさえ、緊張でじっとりと汗をかいているのに。
首筋に舌を這わせながら、やだよ、と熱っぽい囁きが耳を掠める。

「恋人の汗に興奮しない男なんていないでしょ?」

ずんと腹底にくる低音。女を手玉に取るために生み出されたようなその声で、男の自分は脚の間を滲ませている。

「僕、てんこに何もできないって疑われてたんだよね? それは一晩かけてでも晴らしておかないと」

「んむっ……」

一方的に唇を奪われ、敏感な口の中をちゅくちゅくと長い舌でかき混ぜられる。先程までの甘く優しいキスではなく、快感ごと押し付けるような欲情にまみれた口づけ。さわさわと上半身を探られながら執拗に舌を嬲られ、呑み込めない唾液がたらりと口の端を伝い落ちる。

「っぁ………」

酸欠寸前の唇をぱっと解放されてすぐに、わき腹を撫で上げられて高い声が漏れる。とはいえ、神経に直接響くような女の声とは似ても似つかない代物だ。口をきつく結んで耐えるものの、殺し切れない吐息が度々こぼれる。

「ん………っ」

水を弾く若々しい肌に触れる指と唇が、天子の記憶から抜け落ちた夜の痕跡を丁寧に追っていく。
引き締まった腹筋をなぞり、鳩尾を抜けてしなやかな胸をたどり、色づいた一点で止まった。既に緩く立ち上がっていた尖りをぬるりと舌が撫で、軽く吸われてぴくんと腰が揺れる。
男同士の行為でそこを責めるのは何らおかしくないと知っていても、いざ触れられるとどうにも落ち着かない気分になる。ただ存在するだけの場所が、彼によって容易に作り変えられてしまいそうで。

「っひ……」

もう片方の突起をつんと指先でつつかれて驚く。反射で膨らんだそこをきゅっと摘まれ、下肢を走った快感に驚きを通り越して慌てた。

「嫌だ、それ……っ、んぅっ」

「どうして? かわいいのに」

ちろちろと舌で幾度も弾かれて、拒否の言葉すら詰まって形にならない。いつから自分はこんな場所で感じる変態になったのか。犯人たり得る彼はうっすらと笑みを覗かせる。

「この前だって、満更でもなさそうだったよ」

「や………、うそ…、っ」

その刺激を体が覚えているとでも言うのか。
そして今、更なる続きを望んでいるとでも。

「ん、く………っ」

唾液に塗れ、すっかり硬くなったそこを甘噛みされて、内腿がぶるっと震えた。丸めた手を口許に押し付け、声の甘さだけでも押し殺そうとする。解かれて垂れ下がったままのネクタイが身じろぐ度に擦れて羞恥を煽った。
親指と中指で周りの皮膚ごと摘んだ乳首の先端を、人差し指の腹でくりくりと撫でられる。その間も弱いわき腹を痕がつくほど何度も吸われ、じんわりとした快感が少しずつ体の奥へ溜め込まれていく。
男の生理は吐き出すだけの単純なものだ。こうしてゆっくりと高められる快感は当然ながら初めてで、天子は戸惑う他ない。


next

×