オーバーライト ひのてんR18 |
「それはつらかったね」 「卑怯でクソみたいな奴。マジで気持ち悪ぃ…」 顔色悪く語り尽くした天子は、吐き出してすっきりしたのか、炭酸を呷って荷物をあさり始める。 数学の課題を火野に教わろうと思ったのだが、彼は珍しく、深くため息をついていた。いつもの調子に戻った己とは対照的に、機嫌があからさまに降下していく彼を恐る恐る見つめる。 「…あの」 「ん?」 「怒ってます?」 控えめに尋ねられた火野は少しの逡巡を置いて、大丈夫だよ、と瞬時に笑顔を戻した。ぽんと天子の頭を撫でながら彼は続ける。 「怒ってはいるけど、そうだね、怖い思いしたのはてんこだもんね。僕は優しくしなきゃ」 「別に、怖くは…」 「そう? 逆の立場だったら僕は怖いな。てんこがそういう目に遭う方がずっと怖いけど」 そっと抱き締められ、グレーのニットベストからふわんと彼の匂いが鼻腔を抜ける。きりっとしすぎない、仄かなミントの柔らかい香り。柔軟剤か何かかはわからないが、この匂いひとつであらゆる不安をかき消されてしまうのだから自分は単純だ。 顔を埋めてすんすんと鼻を動かすだけで、濁った頭の中までクリアに磨かれていく。同時に胸の中がほっと温かいもので満たされ、もっと、というように彼の背中へ腕を回してしまう。頭上で小さく笑う気配がした。 「よしよし。大丈夫だよ、もう怖くないからね」 彼の『大丈夫』は本当に『大丈夫』だから凄いのだ。それは自分が誰より身を以て知っている。ぎゅう、としがみつけば、応えるように背をとんとんと叩かれた。 「僕が触るのは平気だよね?」 彼の胸に額を押し付けるようにして頷けば、いい子、と優しく囁かれて心が甘く震える。 恋人同士のスキンシップなんてクソ食らえと思っていたはずだった。キスもセックスもそう、快楽以外に大した意味など無いと。 しかしどうだろう。心の底から想いが溢れ出てしまうような相手との接触は、天子の予想を大きく越えていた。 何をしても心が満たされて、何をされても気持ちよくて。その場でほだされて許してしまったことは数多くあれど、本当にされて嫌なことはひとつもなかった。決して綺麗ではない、甘く苦く煮詰め過ぎた想いを全部受け止めてもらえるなら、全部を捧げても仕方ないと思えるくらい好きなのだ。 前髪を掻き上げた手に優しく上向かされ、ちゅ、と額にキスが落ちる。それでは足りないとばかりに天子が首を伸ばして唇を奪っていくと、ふふ、と彼も楽しそうに口許を綻ばせた。 「嫌じゃなかったら訊いてもいい?」 「何が、ですか」 「どこ触られたの?」 やはり、と天子は苦い表情を浮かべる。彼の質問は想定の範囲内だが、どこをどう、というのは素直に答えにくい。朝の記憶を掘り起こされるのはいいとして、こういう間柄になってからは特に、彼の前で体の部位や卑猥な単語を用いることに羞恥を覚えずにはいられなかった。ついでに、こちらのそんな事情も全て悟っている上で意地悪く構えてくる彼にもちょっとした反発心が芽生える。 「さっき、言いましたけど」 ややつっけんどんに返すと、そうだけど、と火野は笑みを絶やさずに続けた。 「気になるなぁって。いや、違うね。気に食わないなぁって感じ?」 「…だから、背中にぺったりされて、ケツ触られて、あと胸だの腹だの気っ色悪く撫でられて、そんだけです」 笑顔にそぐわない『気に食わない』の台詞に、不覚にもときめいてしまったのは内緒だ。独占欲を発揮するのはいつも自分ばかりで、他の男に触れられたところで彼がそんなふうに怒るとは思ってもいなかった。こうやってほだされてしまうところが、上下関係を様々な意味で越えられない最大の要因だろう。最初に惚れた方が負けるのは世の理なのだから仕方ない。 目線を逸らして早口でまくし立てれば、火野は応答そっちのけで屈み込み、ぽいぽいと天子の上履きを脱がせて床に落とした。 「は? なに…」 「おいで」 脈絡のない動作に驚いて瞬きを繰り返す天子へ、ぽん、と己の膝を叩いて火野は促す。スラックスに包まれた長い脚に目を落として尚、天子は彼が何を言いたいのか理解するに時間を要した。 「……乗れ、って?」 「そう。おいでってこと」 「いやいや」 上背は彼の方が高いにしても、その華奢な膝に自分の体重を乗せるわけにはいかない。冗談じゃないとばかりに首を振るも、腕を掴まれて再度招かれ、しぶしぶ腰を浮かせた。恐る恐る座ってみると硬い骨の質感がちょっとリアルで、本当に平気なのかと訝ってしまう。 「大丈夫だよ、水川だっていつも乗せてるでしょ」 確かにそうだが、彼は自分より相当に軽いと見ていい。あてにはならないだろう。 横向きに座り、ソファの向こうへ伸ばしていた脚を片方だけ掴まれ、こうだよ、と九十度回転されて真正面から抱き合う形になる。膝の高さが加わる分、彼を見下ろしているのが何とも言えない。 ていうかダメだろ、この座り方は。さらさらの黒髪も、上から眺め下ろせる整った顔立ちも、体全体で密着できる姿勢にも無駄にどぎまぎしている。跨いだ腿の感触にいてもたってもいられず、もぞりと尻を動かせば、両手でそこをがっちりと固定された。 腰に触れられると例の記憶が脳にぶり返し、思わず目をきつくつむってしまう。 「触られるの、やっぱり嫌?」 「ちがっ」 心配そうな声に慌ててかぶりを振ると、そう、と火野は小さく笑った。 「じゃあ、ひとつずつ確認しようね」 「……は?」 確認って、何を。 尋ねかけた声が言葉に成りきることはなかった。 「っ、ちょっ……!」 すり、すり、と腰を撫で回す手。強く押し付けるのではなく、あくまでスラックスの表面を滑るような手つきに頬が赤らむ。 「こういう感じ?」 「なに、が……」 「だから、痴漢。どういうふうに触られたの?」 確認というのは痴漢の触り方を再現する意図らしい。冗談じゃないとばかりに身を捩るも、ぎゅっと抱き寄せられて一瞬だけ呼吸が止まる。先程の抱擁よりも彼に触れる面積が格段に多くなり、二人分の服越しでも体温を感じ合えそうで頭に血が上った。 「僕は他の誰かに触らせたままじゃ嫌なんだけど、だめ?」 そんな甘えた声で訊かないでほしい。前述の通り彼は自分より長身で、別にかわいいわけではないのだけれど、こうしてねだられると天子は断れない。惚れた弱味というやつが否応なしに発動してしまう。 「だめじゃ、ない、ですけど」 歯切れ悪く続けようとしたところで、すかさず腰の手がさわさわと尻を撫でる。 「けど、ここじゃ――」 「ここじゃだめなの?」 むに、と尻の肉を掴むように揉まれ、普段の彼らしからぬ仕草にびくんと上体が跳ねた。痴漢に対する怒りは既に引いているのだろう、火野はいつもの不遜な笑みで応酬を続ける。 →next ×
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