オーバーライト
ひのてんR18

その日、天子は朝から猛烈に機嫌が悪かった。

駅から高校までの坂道を脇目も振らずにひたすら闊歩し、道路に転がっていた空き缶を林に蹴り入れ、正門で生徒指導担当の教師が大声を張り上げている挨拶運動も思い切り無視して己の教室へ向かった。席に着くなり隣のきびきびとした女子が今日は日直だから黒板消してよねと半ば命令気味に言い放ってきたのもまるっと無視して机に突っ伏した。
気が高ぶって仕方なかったが、とにかく今は何もかもを視界に映さず、鼓膜に入れず、五感をシャットアウトしてただただ静かに自宅のベッドで眠りたかった。それが叶わないならば、せめて信頼の置ける人間に愚痴を聞いて欲しかった。
全ては放課後までの我慢だと、ホームルームのチャイムを合図にのっそりと上体を起こした。

◆◇◆

「痴漢?」

改めてカウチへ腰を下ろし、いつものアロエジュースにストローを差しながら、火野はきょとんとした顔で問い返した。

放課のホームルーム終了と同時に天子は教室を飛び出し、南校舎へ走り出した。途中で挨拶運動の例の教師に捕まりかけたが、適当に予定を繕って放してもらう。個人的なものだが予定は嘘ではない。
階段を下りてすぐの実験室はやはり解錠が済んでいた。彼の教室はこの真上なので、天子が来る頃にはたいがい部室は開いている。二つ目のドアをノックと共にくぐれば、お疲れ、と柔らかく向けられた愛する人の笑顔に、ささくれ立っていた気持ちが少しだけ凪いだ。由姫は習い事で不在だ。

「来週ヤモリの検体が届くから、今日は器具の点検だけしておこうね。姫も楽しみにしていたから。……どうかしたの? 怖い顔して」

朝よりはだいぶましになったつもりでいたが、仏頂面はとうとう直らなかった。苛つく気持ちのまま、がしがしと頭を掻いてカウチに腰を沈めれば、火野もアロエジュースを携え、デスクからこちらへ来て顔を覗き込んできた。至近距離で見つめられると、造形の整った彼に対して引け目を感じてしまう。居心地悪そうにもぞりと座り直して、天子は重い口を開いた。

「朝、電車乗ってたら痴漢に遭ったんですけど」

ここで話の頭に戻る。
不思議そうな火野に忸怩たる思いを抱えつつ、天子は朝の状況について説明した。

自宅の最寄駅、高浪まで自転車を走らせてから、定期を通して下りの電車に乗り込む。蓮華駅はここから三つめ、乗っているのは十五分弱だ。
身動きが取れない、都市並のぎゅうぎゅう詰めとまではいかずとも、通勤通学ラッシュの真っ只中であることに変わりはない。早めの電車の方が混まないことは知っているが、ホームルームに間に合えばよしとしている天子は敢えて遅めの電車を選んでいた。
蓮華駅ホームにおいて上りのエスカレーター付近に停車するこの車両は特に混雑するのだ。乗客のほとんどが学生と会社員で占められ、車内は軽いざわめきに包まれている。
天子はいつも通り、ポールの近くに立ってドアの外に視線をやった。電車は高くも低くもない地味な建物をいくつも追い越していく。ポケットからイヤホンを引っ張り出して耳へ突っ込み、コード先の音楽プレーヤーを操作してプレイリストを指先で探り当てる。静かな場所なら音漏れが響くだろうが、車内では誰ひとり気にしない。
派手なギターに頭を揺らされていると、不意に背中へそっと貼り付かれる感覚があった。しかしすぐに離れたため、カーブに差し掛かって誰かがよろけたのだと解釈する。一つめの駅に到着するが、無論降りる客より乗る客の方が多い。車内の密度がさらに高くなる。

ぺし、ぺし。

手の甲らしい感触がワイシャツ越しの腰に当たる。軽く叩くような触れ合いに、天子は不快感を露にしたまま背後を振り返りかけた。が、右側にいる女子高生のポニーテールが邪魔だ。下手に動くとこちらが痴漢扱いされそうで、いったん音楽を止めて左の肩越しに再度試みる。
瞬間、妙に高い男の声を耳元で流し込まれた。イヤホンでいくらかくぐもって聞こえるのが救いだ。整髪剤の安い匂いがつんと鼻につく。

「――ちょっとだけだから。いいでしょ、男なんだし」

ぞわりと皮膚を這った悪寒は本物だ。
腰を撫でていた手がするりと尻に落ち、さわさわと気持ちの悪い手つきで探られる。少し前に摂った朝食が逆流しそうになり、思わず手を口許に押し付けた。
男は何を勘違いしたのか、嬉しそうに丸みを帯びた肌へ指を埋めんばかりに揉みしだく。うぐ、と込み上げるものの苦さを呑み込んで、天子は後ろに回した手で男の手首を掴んで凄んだ。

「ざっけんなよ。気色悪りぃんだよボケ」

「そう言わないで。少しだから、ほら」

もう片方の手が前に回り、手のひらで胸から腹をすうっと撫で下ろされた。シャツとインナーに守られているとはいえ、ぷつぷつと立つ鳥肌は止められない。
怖気に反応してぷくりとTシャツを押し上げた胸の一部を、無遠慮な指先でくにくにと押し揉まれて体が震える。今は快感より気持ち悪さが勝っているが、性感帯を的確に責められては相手など関係ない。

「て、め……っ、やめろっつってんだろ!」

とうに二つめの駅は過ぎた。蓮華まではあと二分もないだろうが、黙って耐えてやるほど天子も気が長くはない。
尻を揉む手首をさらに強く掴み、渾身の力を込めて捻り上げる。男が微かに呻く声がした。お返しにと胸を撫でていた手でシャツの首元に掴みかかられるも、元からきっちりとボタンを止めている人間ならともかく、ネクタイさえろくに締めていない天子は特段苦しくもない。その手首も同じように締め上げて、じりじりと時を待つ。

スピードの緩んだ列車が蓮華のホームへ滑り込み、ドアが左右に引かれると同時に人波がこぞって溢れ出る。そこに紛れようと男はもがくが、離してなどやらない。
やがて発車のベルが鳴り響く。
振り返って認識できた、まだ若い会社員の頬を左から力一杯殴れば、彼は無様によろけた末にポールをどうにか鷲掴んだ。

「死ねよクソが!」

最後に罵声を浴びせ、ホームに降り立って三秒もしないうちにドアが閉まる。動き出す列車。彼もここで降りるつもりだったのかもしれない。
すぐさま化粧室に駆け込んだ天子は乱された服装を軽く直して、いつになく水道で念入りに両手をすすいだ。あの男の感触がべったりと塗りつけられているようで、できたらシャワーで全身を洗い流してしまいたかったが仕方ない。

自分がそんな対象になるとは夢にも思っていなかった。実際とてつもなく気持ち悪いものだと吐き気さえ覚えたまま、泥のように疲れきった体を高校まで引きずっていく。
この世で自分に触れていい男はたったひとりしかいないのだ。


next

×