この夜のすべて
ひのてんR18

Z.

「ん……」

浮き上がるようにふっと目覚めて、視線だけで辺りを見回す。部屋は暗く、最低限のフットライトのみが点いていた。広いベッドの中で身動ぎ、ゆっくりと起き上がる。
ベッド横の時計を確認すると、寝ていたのは一時間ほどだったらしい。となると、彼はまだ入浴中だろうか。
ペタペタと裸足で寝室を出てリビングへ向かう。明かりが漏れており、覗いただけでは誰もいないように見えたが、彼は書庫にいた。リビングに続くドアは開けたまま、棚にもたれて本を読んでいる。

「まだ寝ないんですか」

声をかけると火野は顔を上げ、ハードカバー本を閉じて天子に向き直った。

「起きたんだね。あ、もしかしてお腹減った? さっきラモーブで買ったものはそっちにあるよ」

何となく目覚めたはずなのに、気づけば確かに胃がスカスカだ。パエリアは腹持ちが悪いらしい。自分でも意識していなかった腹具合を見透かされるとは、こちらの食事風景を眺めながらカロリー計算でもしていたのだろうか。
夜食に買ったおにぎりセットと割り箸をテーブルに並べる。おにぎり二つと、唐揚げ、卵焼き、タコさんウィンナーに漬物というありふれたラインナップ。しかしおにぎりもおかずも思ったより小さく、ここに惣菜パンを足すべきだったかと少し悔やんだ。

「ちくしょう」

何でもかんでも値上げ値上げで量を減らしやがって。空っぽのパックに毒づけば、彼は微笑みながらレジ袋に手を入れた。

「はい」

おもむろに取り出されたのはカツサンド。ラモーブのスーパーのレジ付近で売っており、近くのベーカリーから仕入れている品だ。ラップでくるんだだけの素っ気ない包装だが、みっしりと厚いカツを挟んだ断面はこれ以上なく魅力的だ。

「…なんで、わかったんですか」

ラップをむしり取ってかじりつく。酸味のあるソースと柔らかいパンに挟まれたトンカツは、肉厚で冷めても旨い。わかるよ、と火野はさも当然のように頷いた。

「てんこだって、僕が機嫌悪い時はわかるでしょ」

「そりゃあ、何となくは」

口調は丁寧なのに、言葉に棘が混じる。他人にはいつにもまして愛想を振りまき、気を遣わず済む人間の前では『疲れた』を連発して不貞寝する。
後者は主に時宮への反応で、天子に対しては『ごめん、眠いからあんまり機嫌が良くない』と素直に告げるか、本に没頭したまま黙り込むかのどちらかだ。とはいえ、天子と違って日頃から感情の起伏が小さいのでイベントとしては稀な部類だ。

「んでも機嫌は見てりゃ気づくけど、人がどのくらい食べるかなんて予想できねえじゃん」

「そうだね。でもレジに並んでる時、これだけで足りるのかな、ってカゴの中を見てつい手に取っちゃったの。もしいらないって言われたら、明日立花にでもあげようかなって」

「カツサンドいらねえなんて言う男子高校生いるわけーーいや、いい」

いるではないか。さっと言葉を引っ込め、最後のひと口を噛みしめる。
窓の外には夜の闇だけが存在していた。

「雪、止んだんですね」

「うん」

どこか安堵している彼の横顔を見つめて促す。

「あっち、先に戻っててください。歯磨きしたら俺も行くから」

あっち、と寝室の方を指差す。彼は不思議そうな顔で、ソファから腰を上げた。

ーーー

「ん」

「僕が、そこに寝るの?」

「そう」

「交換しない?」

「今日はしない」

確固たる意志を持った天子に、やや不満げな吐息をついて火野は寝転ぶ。

「変な感じがするな」

天子の腕に頭を乗せ、彼は複雑そうに唸った。細身の体をそっと抱き締めると、彼も腕を回してくれる。まぁいいか、と呟くのが聞こえた。眠るまでの主導権を委ねてくれたらしい。

「落ち着かなくてどうしても寝られないなら諦めます」

「いいよ、もう眠い。さすがに疲れたし」

相槌がぞんざいになってきた。機嫌が悪いというより、甘えそうな気持ちを自ら叱咤しているようだった。薄い背中をそっと撫でて様子を窺う。
されるがまま、彼はおとなしくしている。穏やかな息遣いを肌で感じた。

「困ったな。あんまり優しくされると、何で返していいのかわからなくなるよ」

冗談めかした独り言に、天子は人知れず唇を噛んだ。

「返さなくていいです」

ぎゅっと頭を抱き込んで告げる。

「有り余ってるからあげてるだけなんで。こういうのは、返そうなんて考えないで、欲しい時に欲しいだけもらってください」

「……そっか」

ふっと脱力した彼が小さく頷く。天子からは見えないが、目をつむっているのだろうか。次が、今夜の最後の言葉だった。

「誰かの腕の中で眠ったことなんて、ないと思ってたのに。忘れていただけかな。こんな夜が、ずっと前にもあった気がする…」

静寂に包まれた寝室。十五分ほど経ってから、規則的な寝息が聞こえてきた。彼を起こさぬよう、天子も身動ぎせず夢の入口へ歩いていく。腕にのしかかった重みは果たして強さか弱さか、どちらもか。

この夜のすべてを抱えて。
きっと明日もその先も、自分は彼に焦がれ続けるだろう。いつの日か、この手であなたを幸せにするために。

ーーー

「滑り止め、あんまり意味ねえな」

見事に凍った日陰の坂を、そろそろと下りながら天子がつぶやく。時刻は昼に近く、晴れて気温も徐々に上がってきたが、朝方の放射冷却で路面はパキパキに凍ってしまった。
雪対策のブーツとはいえ、濡れた氷の上は否応なしに滑る。なるべく日が差す場所を選んで歩き、蓮華第一中学校方面へ進んでいく。

「会場が水川の家になってよかったかもね。制服持ってくるの大変だったでしょ」

「確かに」

クリスマス会は当初、いつものように部室で行うつもりだった。しかし業者の立ち入りのため屋内の部活動は制限されることになり、急遽場所を水川家に変更したのだ。

『うちでもいいよ。ひーちゃんいるけど、猫アレルギーいない、よね? え、直? 我慢しろ』
『俺んちからゲーム持ってくるからみんなでやろ!』

一泊分の荷物に加え、制服まで彼の家に持ち込むなんて面倒にも程がある。制服ではブーツも履けない。薫が快諾してくれて本当に助かった。
もうすぐ水川家というタイミングで、坂を上ってきた人影がいた。エスキモーかと思いきや、ダウンコートを着た時宮だ。

「呼んでないけど?」

訝しげな火野がすかさず牽制をかければ、時宮は地団駄を踏むようにザクザクとシャーベット状の氷を鳴らす。

「いいだろ、ちゃんと手土産も持ってきたぞ!」

「さては昨日ぼっちで寂しかったんだね」

「ちげえわ! いや、そりゃ彼女じゃないけど、姉貴といたからぼっちじゃねーし。ん、てか天子くんは何でそっちから来てんの?」

「てめえに関係ねえだろ」

都合の悪いことは有無を言わさず黙らせ、合流点から薫の家を目指す。あ、と時宮が不意に火野へにじり寄った。

「お前さ。この前俺んち来た時、勝手になんか持ってったりしてない…よな?」

さてどうしたものかと天子は視線をうろつかせ、迷った末に火野を横目で窺った。彼は微塵も悪気のない顔で白々しく返す。

「人を泥棒扱いするなんてひどいね。部屋が汚くて行方不明なんじゃないの? 何がなくなったのか知らないけど」

「うっ」

明らかに気まずそうな表情で、やっぱ何でもない、と時宮は慌て始める。くすくすと火野がおかしそうに笑った。この先を予感した天子は、時宮に若干の同情を寄せて小走りで駆け出す。

「先行ってます」

数歩も走らない辺りで『やっぱりお前じゃねーか!』という時宮の怒号が耳に入った。『どうせ使う相手もいないだろうけど、成分によっては溶けるからあんまり安いゴム使わない方がいいよ』という要らぬアドバイスも届いてしまった。いいのか、昼だぞ。
『だったら返せよ!』『使いかけだけどいい?』『何使ってんだお前この野郎』『悪くなかったよ』『聞いてねえわ!』天子はこの辺りで走るペースを早めた。

「てんこ、おはよ」

できる限りの防寒対策を打った格好で、薫は玄関から外を覗いていた。三和土には既に彩音と凛の靴がある。

「……なんか、珍しいね」

「あ?」

「優しい顔してる」

じっとこちらを見つめる曇りなき双眸に、何でもねえよと呟いて引き戸を開ける。
火野と時宮に気づいたのか、薫は門扉まで出て二人に駆け寄っていく。脱ぐのに手間のかかるブーツを天子がぐいぐいやっていると、半開きのドア越しに外の会話が聞こえてきた。

「おはようございます、先輩。あれ?」

「どうかした?」

「えっと。いいこと、あったんですか。そういう顔してます」

「おや、水川にはわかるんだね。実は、子供の頃の願い事が昨日叶ったんだよ。ちょっと気恥ずかしいけど、大人でも案外嬉しいものなんだね」

「そっか。サンタさん、来たんですね」

「そう。とても優しいサンタさんがね」


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