この夜のすべて
ひのてんR18

「次に目覚めた時は病室のベッドにいたよ。母が息を引き取ってすぐ、発作を起こして倒れたんだって。使用人が葬儀や今後の予定をべらべら喋ってたけど、何も耳に入らなかった。体裁が悪いから、形だけの葬儀は行ったんだろうね。遺骨は母の生家に送り付けたと聞いて、初めて母に両親がいたことを知った。でも、それももうどうでもよくて、家にも学校にも近寄らずにしばらくフラフラして過ごしたんだ。母は僕より、あの男を愛していた。本当かどうか、問い詰めたくてももうこの世にはいないし、他の誰に訊いたってわからない。僕が最後に聞いたあの一言が全てだよ」

「それはーー違うんじゃ、ないですか」

長い長い独白を打ち切って、天子は声を発した。君に何がわかるの、と叱られるかもしれない。それでも決してそんなふうには思えなくて、彼の目をまっすぐに見つめた。
意外にも、彼はそっと微笑んだ。

「そうだね。僕も今なら、勘違いしてたんだってわかる。その時は余裕がなくてね。自分のことしか考えていなかった。そうして思い詰めた果てに、数少ない大切な人を巻き込んで死んでやろうと決心したの。もちろん死ぬのは自分だけでいい。ただ、母がそうしたように、最後の最後で大事な人に迷惑をかけて、僕のことを忘れられない呪いをかけて。あの病院にも泥を塗ってから、未練なくこの世を去るつもりだった。
でもね。人間って、長く生きれば生きるほど自分に愛着が湧く生き物なんだよ。僕が子供なら、躊躇なく死に切れたかもしれない。大人ではないけど子供をとっくに過ぎていた年齢で、結局僕は迷惑をかけただけだった。輝は苦い顔で許してくれたけどね。僕に散々嫌がらせされて、いったいどんな顔して怒るんだろうって気になったから、未練が残っちゃったんだ。あんな能天気なところ見せられたら、悩みなんてどうでもよくなるよ。もう自分の計画がアホらしくて仕方なくて、まぁ一度死んだことにして、割り切って生きてみようかな、と思い始めてね。
貯めたお金でここに引っ越して、好きな本をたくさん買って、学校にも復帰して、お金も稼いで、自分のテリトリーには好きな人だけを入れて、そうでもない人たちは処世術で愛想よく対処して――って自分の環境を整えてたらいつの間にか高校生になってて、水川ともまた仲良くできたし、部活っていうコミュニティも作れたし、こんな僕でもいいって言ってくれる人もいるわけだし」

まだ長かった煙草をぐしゃりと押しつぶして、火野はぱたんと窓を閉める。眼鏡をかけて振り返った時には、もう優しい笑顔が覗いていた。完璧なのにどこか陰のある、天子が好きないつもの笑い方で。

「さて、思い出はこの辺りでおしまいにしようか。僕は幸せだよ。いつもありがとう」

「……そんなら、いいけど」

ティッシュを一枚掴んで、ぐしゅんと鼻をかむ。違う、寒風と室温のギャップでやられただけだ。ダストボックスに突っ込んでから、天子は一番気になっていたことを尋ねる。

「母方のじーちゃんとばーちゃんには会えたんですか」

「うん。実はあれから――っていうのは、開き直って引っ越し準備を始めていた時に、当時の使用人から譲り受けたものがあったの。母の遺品は全て送り返されたんだけど、それとは別に、僕宛に残していた形見があったみたい。あの男は処分しろって命じただろうけど、その人はもう仕事を辞めるから関係ない、って渡してくれたんだ。中身は手紙だった。僕宛と、祖父母に宛てたもの。手紙を読んで、ようやく理解したよ。今際の際で母が本当に言いたかったこと。あの男と仲良くねって、そう言いたかったんだと思う。母はものすごく天然だったし、僕がどれだけ憎んでいても、あの男のことは愛していたはずだから。案外、僕が思っていたほど母は不幸じゃなかったのかもしれない。そこで、迷ったんだ。祖父母宛の手紙を持って、彼らに会いに行くかどうか。もし母の境遇を知っていたのなら、僕の顔なんか見たくもないだろうし。
ただ、僕も母方の人間なら一度だけでも会ってみたかった。あんなに面会したのに、母については知らないことが多かったんだ。電車を乗り継いで地方の山奥を訪ねた。あの時は玄関で、おばあちゃんが僕を見るなり腰を抜かしてね。暴漢だと思ったのか、おじいちゃんは竹箒片手に駆け込んでくるし。手紙を渡して即刻立ち去ろうとしたら、二人とも泣きながら歓迎してくれて驚いたよ。結婚の経緯は割愛するけど、まぁ母の逃避行のようなものだったから、息子というか孫がいたことも手紙でしか知らされなかったみたい。病み上がり同然だからね、食事は大変だったよ。胃が膨張して破れるかと思った。母のお墓は、丘の上の見晴らしのいい場所につくってくれたの。だから年に何回かはお墓参りをして、おじいちゃんが密造してるリンゴ酒を飲んで、おばあちゃんとお喋りして、二人を安心させてあげるんだ。今度のお正月も、帰らないと死ぬほど電話がかかってくる」

ため息まじりに言いつつも彼は嬉しそうで、天子も心の底から安堵した。この人にも、心を許せる家族がちゃんといたのだ。気遣いを疎ましく感じることもあるだろうが、理屈ではない不純物だらけの愛情を、たくさん受け取ってほしいと思う。その種類の愛は、天子にはあげられないものだから。
それにしても。詳細は語られなかったものの、彼が父親をひどく憎んでいるのはいいとして、排除しようと行動を起こさなかったことは意外だった。然るべき罰を下しそうなものだが、現在もこうして距離を置くのみで存在自体は許している様子だ。

(そんだけ強敵ってことか)

聞く限りでは、彼が母親に似た部分はほとんどなさそうだ。となると、冷徹で頭が切れるところは父親似だろう。息子にしてこのレベルとなると、その父親はもっと上を行く存在に違いない。彼が楯突くこともままならないほどに。

「話してくれて、ありがとうございます」

幼少期から思春期の境遇を思うと胸が痛む。けれど、彼は同情を引くつもりで生い立ちを聞かせたわけではない。どんな彼でも変わらず想いを向け続けると宣言した自分に、少しでも歩み寄ろうとしてくれたのだ。

「いいの。冬の夜は長いからね」

晴れやかな表情で、彼は窓の外を見上げた。

Y.

(今更引かれることはないだろーけど)

携帯片手にネットの海を彷徨いながら、もぞもぞと居心地の悪さに身動ぐ。
ベッドから起き上がって厚手のカーテンをめくると、雪はちらちらと細い羽のように柔らかく散っていた。このペースならもうすぐ止みそうだ。路面が凍るのは確定としても、平地は指の先ほどの積雪で済むだろう。

「雪、大丈夫そうだね」

入浴を終えた彼が戻ってきた。風呂上がりにも関わらず、ほとんど血の気が感じられない。天子がここでゴロゴロとネットサーフィンを始めてから、最低でも三十分は浴室にいたはずなのに。
ふわりと香るボディウォッシュに唆され、はしたないとわかっていても手が伸びてしまう。自ら求めた唇は、苦笑の形を作ったのちにゆっくりと重なった。屈んだ彼が慈しむように頬を撫でてくる。

「ん……、な、んで……」

深くなりきらないまま離れた口づけがもどかしく、ベッドに膝をついた彼の服を引き寄せる。唇を指先でなぞられ、んっ、と詰まった声が漏れた。彼は寝室の照明を切り、ベッドヘッドのライトだけを残して告げる。

「言ったでしょ。夜は長いって」

「…俺は食うの早いけど、時間がねえからそうしてるわけじゃない」

「素直だね。そういう表現は嫌いじゃないよ」

温もりを帯びた声に、胸の内がぎゅっと切なくなる。
ベッドに横たえようとする手を留めて、天子は腹を決めた。

「自分で、脱ぐからいい」

ルーティーンから外れた言動に、彼はちょっとだけ首を傾げつつ、静観に徹した。どくどくと鼓動が逸り、体が異様な熱を持ち始める。
前開きのジッパーを下ろして、パーカータイプのルームウェアを肩から滑り落とす。ベッド下のラグに放り、時間稼ぎのシャツも頭をくぐらせて引き抜いた。暖房の効いた室内で、上半身を晒して。ごくりと唾を呑み込む。いよいよだ。

スウェットパンツのウエストに指をかける。彼の視線を意識せずにはいられない。けれど言い出したのは自分で、せっかく今日のために準備したのだから、忘れないよう目に焼きつけてほしい。こんな酔狂は一度でたくさんだ。
膝立ちになり、スウェットを腰のカーブに沿わせる。見せつけるように、なるべくゆっくりと生地を滑らせて。主役のインナーは脱がない。そのために、わざわざ自分で包装を剥がしているのだから。
徐々に肌が露わになると、様子を窺っていた彼の瞳も少しだけ見開かれる。印象がプラスかマイナスかはどうあれ、驚いてくれたのなら溜飲も下がるというもの。
スウェットが腿から膝に達する前に、ねえ、と彼が笑いかけてきた。

「後ろ向いて見せて」

菩薩の如く微笑んでいるのに、その声は欲情したように低く掠れている。堪らず唇を噛んで、柔らかなマットレスに両膝をついたまま、その場で反転してみせた。覆われた下着の前面が、興奮でびくびくと震える。

「可愛い。体にピッタリしてストイックなのに、こっちは何も隠れてないんだ」

「や……っ」

露出したヒップを撫でられ、ぺたんと腰がシーツに落ちた。背後から天子を抱き締めて、彼は尚も囁きながら指を這わせてくる。


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