この夜のすべて
ひのてんR18

「普通の時で泣きそうな顔してるのを、今初めて見たよ」

「!」

慌てて俯き、手の甲でぐしぐしと頬を擦る。よし、濡れてなどいない。ここで弱みを見せたらなだめられて終わりだ。この人の本心にはきっと辿り着けない。
招かれた腕の隙間に体を寄せて、薄いニットに顔を埋める。

「ありがとう。僕はその言葉を望んでおきながら、自分では言い出せなかった。遠くから心を縛り付けたくなかった、っていうのは建前で、ただ逃げ道を塞ぎたくなかっただけ。てんこみたいに、命綱も付けずに飛び込むような勇気はないんだよ。狡くてごめんね」

「――それは、どうなるかわからねえから、あやふやにしときたいってことですか」

自分と同じくらいの想いを、彼が持っていてくれたらもっと幸せだろう。けれどそれは傲慢だ。言うなればこれは、勝手に好きになった自分を発端として始まった物語。ゲームなら主人公は自分で、NPCである彼の気持ちを操作することはできない。

「ちがうよ」

天子の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜて、彼は自嘲気味に呟いた。

「いい加減覚悟を決めろよ、って言って欲しかったの。僕が楽な道に逃げないように」

腕の中で、零さないようにと溜めていたものがニットに染み込む。今度こそ目元を袖で一直線に拭いきって、彼の両肩を強く掴んだ。
なんて自分本意な人だろう。悔しくて、切なくて、腹が立って仕方ないのに、それでも心の底から欲しいと願わずにはいられない。発した声はすこぶる低かった。

「絶っっ対、俺のこと忘れんな。つーかふざけんなよ、散々好き勝手してこんな体にしといてポイしたらマジで東京まで御礼参り行くからな」

「はーい」

先生の言うことを聞く幼稚園児の如きお返事に、真面目に悩む自分がだんだん滑稽に思えてきた。海より深いため息をついて、彼にもたれながら何度か頷く。

(ま、いいか)

軽くて甘い綿飴みたいな彼の心を、自分が繋ぎとめておければそれでいい。もたれるほど重い想い、こちらの気持ちを枷と鎖にしてやる。いいのだ、彼だってそう望んだのだから。
考えてみるまでもなく、当然の帰結だろう。重いものを下にしないと物は安定しない。

「アホらしくなってきたから、俺はもういい。話したいならどーぞ」

若干ふて腐れた顔で残りのコーヒーをすする。火野はそっと腰を上げると、ベランダ側の窓に寄っていった。カーテンを寄せ、掃き出し窓を引き開ければ寒風が部屋に吹き込んでくる。天子はむっとしつつ上着を再び羽織った。雪が盛んに降り続いている。

「あんまり降らないでほしいな」

窓をきっちり閉めた後、火野はもう一度開けて隙間を作り、すぐ横のソファに座り込んだ。こちらへ戻ってくればいいのに、わざわざ風を入れてどうするつもりなのか。手招きを受けてしぶしぶ近づいていく。

X.

「…こんな時に悪いんだけど、吸っていい?」

眼鏡をぽいと雑に放り、ローテーブルの引き出しから灰皿を取り出す。その横顔に言い知れぬ覚悟を感じて、天子は頷いた。

「別に、いちいち訊かなくたって吸うなとは言わないです」

ここへ天子が来る時は、極力吸わないようにしているらしい。このご時世、いいイメージを持たない人間が大半だろうが、構わず好きにしてほしいと思う。少なくとも彼については充分許容できる範囲の些事だ。

「真面目な話をするのに、誠実に見えないかなって。ありがとう」

流れるような仕草で火をつけ、彼はふうっと窓の外に煙を吐き出す。
彼にとって、煙草は精神安定剤と同義だろう。寄りかかるものがほしい、何かに没頭したい。逃避とリラックスの手段だ。

「そんな大した話じゃないから気楽に聞いてよ。知ってる部分もあるだろうし、僕も何をどこまで話したいのか、わからないけど」

いったん間を置いて、彼は滔々と続ける。

「何で担任が、僕の親を通さず僕に直接連絡してくるかって話だったね。表向きには、僕の進路その他諸々は全て本人に任せます、ってことになってる。父親は多忙で僕に構う暇もないし、先生方もご機嫌取りなんかしたくないから、僕だけで事が完結するならみんな楽なんだよ。他の家族は――祖父母は、父方は知らないな。知りたいと思ったこともない。母は、僕が中学の時に病気で亡くなった。僕より重い心臓病だった。その辺りの事情は先生たちも知ってるから、僕にはあまりとやかく言ってこない。体育をサボっても、三者面談が二者になっても。かわいそうだが優秀でよくやってる、とでも思ってるんだろうね」

胸にわだかまった濁りが、煙と言葉で少しずつ排出されていく。話の腰を折らないよう黙っていたが、母親を亡くしていることだけは、天子も以前時宮から聞いていた。
彼が時たま、どこか感情が抜け落ちていたり、本当にそう思っていないような、表面をなぞっただけの感想を口にしているような違和感があるのは、恐らく家庭の内外で感情的になった経験がないからだろう。家でも学校でも、ずっと優等生で過ごしてきたに違いない。自分を受け入れてくれる人間に甘えたことがないのだ。

「子供の頃の話をしようか。入院してたことは前に話したね。生まれつき心臓が弱くて、家の病院で幼少期を過ごしたよ。小児病棟には長期入院の子供がたくさんいて、その中のひとりが水川だった。今と変わらず静かで、おっとりして、頭が良くて、とても気の合う子だった。病状が安定している時は一緒に本を読んだり、病院を探検したり、夜中こっそり抜け出して星を見に行ったこともあった。
主に僕が会いに行くのは水川と、一般病棟にいる母だった。院長夫人が特別室ではなく一般病棟だなんて、院長先生は平等と博愛の精神に溢れているのね、なんて感激してた新人看護師もいたよ。何のことはなくて、あの男にとっては僕も母も死に損ないに過ぎなかっただけなのに。母は病弱だったけど、僕にはいつも笑顔で明るかった。僕だけじゃない。医療関係者にも優しくて、感謝を欠かさない人だった。病状によっては会えない日の方が多かったから、重い病気には違いなかったけど。それに、僕が訪ねることはあっても、母が僕の病室に来たことはほとんどなくて、たぶん不整脈で歩けなかったんだと思う。付き添いの看護師を連れて病院の中庭を何度か散歩した時も、母は車椅子のままだった。あまり器用ではなくて、裁縫も苦手だったし、九九も怪しかったし、一度だけ機会があって作ってくれた料理も不味かったけど、ただそこにいてくれるだけで僕は満足だった。それから水川が退院して、僕も手術を受けて途中から小学校に通った。定期的な通院を受けながら、放課後も休日も毎日のように母に会いに行ったよ。週に二回会えれば多い方だった。実家には一応自分の部屋があって使用人も付いたけど、世話を焼かれるのが鬱陶しくて仕方なかった。暇さえあれば時宮家に入り浸ってたね。
僕はその頃、自分の進路を決めていたんだ。医者になって、母の病気を治そう。治せないのならせめて僕が治療を続けて、二人分のお金を稼いで一緒に暮らそう。そのためには、知識と元手が必要だった。お金は実家にさえいれば、多少は勝手に入ってくる。知識も家の膨大な本を読んで勉強して、あとは懇意にしている先生や看護師に教えてもらう。目的を達成するまではどんなに居心地が悪くても我慢してやろうと思って、実家を出て行くことはしなかった。けれど、子供って勝手なんだよね。いや、子供は純粋で無鉄砲だから、もう少し成長してからかな。反抗期ってほどじゃないけど、年を経るにつれて、報われない自分が嫌になってきたんだ。年頃になると、周りの子は親を疎ましがるでしょ。僕には贅沢すぎる悩みだよ。みんな親と喧嘩して、ぶつくさ言いながらテストの点数なんか気にして、今日の夕飯はカレーだとか盛り上がって。僕が今日、夜中までパソコンに張り付いて利益を出したって、明日母に会える確証にはならない。それに、ちょうど母にも言われたんだ。勉強なんて頑張らなくていい、やりたいことをやりなさいって。腹が立ったよ。僕のたった一つの願いをどうして否定するんだろうって。その後も通っていたけど、母はずっとニコニコして元気そうだった。だから、僕も思い直したんだ。焦ることはないのかもしれない。このまま、僕が順当に大人になって、それから母と生きていく道を探しても、遅くはないのかなって。
でも、そんな矢先に母は突然死んだ。今日よりもずっと、ぼたぼたと重い雪が降りしきる夜に。臨終にはぎりぎり間に合ったよ。医者の他には僕しかいなかった。現実感がなくてね、僕は何も言えなかった。母は途切れ途切れにたくさん喋ってくれた。不甲斐ない母だった、何もしてあげられなかった、って後悔を切々と吐き出して。そして、最後に僕の目を見て、とても嬉しそうに名前を呼んだの。あの男の名前を」

煙草がフィルター近くまで尽きていた。灰皿に擦りつけて、新しい筒に火が灯される。


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