この夜のすべて
ひのてんR18

(そういや、結局あの女はなんだったんだ?)

エスカレーターで二階まで降りてくると、コーヒーショップが目に留まった。尋ねるならば彼に尾行行為を告白しなければならない。三秒ほど天秤にかけた末、ぴたりと足を止めた。吹き抜けの一階フロアを見下ろしつつ口を開く。

「金曜日、そこで話してたのって誰ですか」

コーヒー豆が並ぶショーケース。クリスマスの夜でもそこそこの賑わいはあるらしい。火野は眼鏡の奥で、少しだけ瞳を見開いた。返答より先に懺悔しておく。

「あの時、まだ電車の時間までちょっとあったから、ここの入口まで駅から追いかけてきたんです。そしたら、その…知らない女がいたから、帰ったんですけど」

次第に小さくなる語尾をいったん切り、これだけは言っておこうと彼を見上げる。

「別に疑ってるわけじゃなくて、ただ誰だったんだって気になっただけで」

「そう。珍しいね、てんこが素直じゃないなんて。疑ってないなら訊かないでしょ」

「うっ。それは、確かに」

言い訳は蛇足だったようで、ごもっともな指摘をされてしまった。今度こそ素直に白旗を上げると、彼はふっと口調を緩めて頷いた。

「スーパーに寄ったら帰ろう。これから雪も強くなりそうだし」

怒ってはいないらしい。むしろ妙に機嫌が良さそうで、後ろめたさは皆無だ。
一階のスーパーマーケットで、明日のクリスマス会の担当食材を買っていく。茶色いオードブルにケーキのアソート、ローストレッグがところ狭しと惣菜部を占領していた。どこもかしこも浮かれた雰囲気だ。人のことは言えないか。

会計を済ませて外に出ると、すっかり葉を落とした街路樹に無数の電飾が巻き付いていた。駅前大通りは普段よりいっそう眩く、寄り添ういくつもの影を照らす。彩りを添える程度の雪には誰も傘など差さず、冬の象徴を歓迎しているように窺えた。
しんと冴えきった空気の中で、踵の高さ分、いつもより近い彼を見上げる。
グレーのチェスターコートに、ダークグリーンのカシミヤマフラー。足元はストレートチップの革靴。全く気取らないスタイルなのに、クリスマスショッピングに励む女性たちも二度見して通り過ぎていく。それを見て優越感に浸ることはないし、むしろその隣に立つことに気後れするのが常だった。
そんな気持ちが顔に表れていたのかもしれない。彼はこちらを窺って、はっきりと声に乗せた。音を隔てる雪の中では、少々声を張っても周囲は気づかない。

「僕は嘘はつかないよ。てんこに嘘をついてまで隠したいことは無いし、信用されないデメリットの方がずっと大きいから」

出会った時と同じ台詞。遠い昔のように思えたのは、目まぐるしく去っていったはずの日々がどれも満たされていたからだろう。

「今は、それにプラスして理由も増えたからね。損得勘定だけじゃなくて、嫌われたくないなって素直に思うよ」

理屈ではなく感情で語るのは珍しいことだった。帰ろうかと促され、人混みの中でそっとコートの袖を掴んだ。

W.

「あの人は若菜さんといって、昔からの知り合いだよ。彼女も図書館に用事があって、二階でばったり会って少し話したの。久しぶりだったし、お茶でもって誘われてコーヒーを飲んで、三十分くらい話して別れたよ。ーーなんて言っても、まぁ疑わしいだろうね」

薄明かりの街灯が、雪の反射を受けて光を広げる。その連なりに照らされた坂道を、彼のペースでゆっくりと上っていく。
毎朝、登校のためにここを上る時はいつも気怠さを感じているのに、夜に上る時は不思議な興奮が込み上げてくる。いけないことをしているような、後ろめたいけれど嬉しいような。そんな思いも、あと三か月で終わるけれど。
かぶりを振って、先の未来にはフタを被せる。今は今のことを質しているのだ。

「ですね」

子供の頃から顔見知りと言われたって、天子には真実かどうかもわかりはしない。回りくどい説明を、仏頂面で肯定する。

「おや、開き直ってきたね。でも名字を聞けば納得してくれると思うよ」

「火野?」

彼にはきょうだいがいないので、父方の親戚とか。

「ううん。彼女のフルネームは時宮若菜」

ああ、とようやく合点がいった。はっきりとした顔立ちもどこか彼に似ている。

「あいつの姉貴か」

「そう。輝とは三歳離れてて、実家を出て一人暮らししてるんだ。小説家だから、資料を借りによく図書館まで来るんだよ」

「小説? 今日、整理した本の中にありました? まぁ本名じゃねえだろうけど」

うーん、と火野は困ったように微笑んだ。

「本当ならちゃんと読んで感想を伝えるべきなんだろうけど、ちょっとハードルが高いジャンルでね。さらっとしか見たことないんだ」

「そんな難しいもん書いてんのか…」

単純そうな弟とは対照的に、姉は何らかの造詣に深い人間らしい。彼の理解が及ばない難解な小説を想像しようとして、そうじゃなくて、と訂正される。

「敷居はむしろ低いんだよ、ライトノベルだから。一種の恋愛小説だね。彩音ちゃんと凛ちゃんは知ってるみたいだし」

「ああ…そういうやつ」

どうりで敬遠するわけだ。彼女だって、顔見知りの男にはあまり読まれたくないだろう。

「仕事は何であれ、昔からお世話になってきたんだ。僕のことを心配して、子供の時から時宮家に招いてくれたり、いじめっ子に嫌がらせされてると代わりに怒ってくれたり。輝のお姉さんではあるけど、僕にとっても親戚みたいなものだよ」

「え、いじめられてたんですか」

傀儡の生徒会長を操り、蓮華高校を裏で牛耳っていると専らの噂なのに。無礼を働いた暁には一族郎党謎の不審死を遂げてもおかしくないーーは言い過ぎだが、やはり意外だった。

「気になるのはそこなの? まぁ、いじめって言うほどじゃないよ。女の子はみんな味方してくれたけど、それも癇に障ったんだろうね。子供って、周りに溶け込めない人間は攻撃してもいいって思ってるでしょ。昔はいろいろと興味深い目に遭ったの」

そう言いつつも全くつらそうな顔はしておらず、そよ風程度のダメージだったことが窺えた。

「んじゃ、駅でかかってきた電話もその姉貴だったんですか」

「ああ、それは担任の坂下先生だよ。T大受けることの最終確認だね」

「は? 何で担任が電話してくるんだよ」

緊急時のために親の電話番号を提出させられたことはあるが、生徒の番号は個人情報として守られるのが普通だろう。言いたいことがあるのなら教室で告げれば済むはず。坂下は男なので、火野が異性なら場合によっては不祥事にもなり得る。
そこでちょうどマンションに辿り着き、応酬は打ち切られる。エントランスでコートの雪を払って、天子はショートブーツをぐいぐいと引っ張って脱いだ。 デザインは気に入っているが、履くにも脱ぐにも手間がかかる。

「寒かったし、先にお風呂入ってきたら?」

レジ袋をダイニングに引っ張り込んで、火野が促してくる。天子はきっぱりと首を振った。

「まだ話の途中なんで」

「んー、それはそうだけど」

食料品を冷蔵庫に詰める後ろ姿は、どことなく乗り気ではない。そこでようやく、天子は己の迂闊さを呪った。これは恐らく、彼のプライバシーに抵触する話題だ。『電話なんて普通は親にかかってくるもんだろ』と責めているに等しい。食い下がるのはよそう。
しかし、振り向いた彼は何事かを考え込んでいるようだった。荷物から着替えを取り出して、天子はおずおずと声をかける。

「風呂、行ってくるから…」

「待って」

思案の末に天子を引き留めると、火野はケトルで湯を沸かし始める。リビングのソファを示して頷いた。

「話すよ。こんな時でもないと、なかなか聞かせられないし」

「いや、でも」

「大丈夫。それより、先にてんこの話を聞かせて?」

彼の話に付きっきりですっかり忘れていた。そのための来訪だったのに。
無印より柔らかいソファに腰を落ち着けると、二人ぶんのコーヒーがテーブルに着地する。上着を脱いで、天子はカップを持ち上げた。

「別にいいけど、こんな時間にコーヒー飲んで寝れます?」

カフェインを物ともせず、天子はいつでもどこでも寝られる自信があるので問題ない。しかし、ただでさえ寝つきの悪い火野は朝まで眠れないのではないか。心配をよそに、火野は平然とカップに口をつけていた。

「寝る気、あるの?」

意味深な流し目を送られて噎せそうになる。
いいだろう、そっちがその気なら受けて立ってやる。雑に冷ましたコーヒーの半分を空にしてから、わざとらしい咳払いで主導権を奪取した。

「俺のは話っていうより、一方的な宣言に近くて」

レストランで聞いた火野の話は結論ファーストだった。前置きは端的に。そして、一番伝えたいことは相手の目を見て。
直接言いにくいことほど、抱き着いたり、目線を逸らしたり、はぐらかすのはフェアじゃないと思う。

「春にはもうここに来れなくて、会おうって言ったってそうそう頻繁に顔合わせられねえけど」

きつく拳を握って、天子は顔を上げる。

「そんなもん関係ねえから。どこにいようが、どうなろうが、俺は変わらない。寂しいなんて思う暇あったら勉強する。そりゃ、来年のことなんてどうなるかわかんねーし、実際は俺が考えてるよりずっと大変かもしれねえけど。でも、少なくとも俺は、環境のせいになんかしたくない」

人間は、会えば会うほど人を好きになるという。それは天子自身、この数か月でも強く思い知らされたことだ。言葉を交わすたびに魅了され、肌を重ねるたびに深く溺れた。しかしその機会がなくなったからといって、簡単に消えてしまうほどこの想いは軽くない。
彼は微笑むと、ごく静かな声で優しく言い聞かせる。


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