この夜のすべて
ひのてんR18

V.

ラモーブ内の飲食店は、二階のコーヒーショップを除いて一階と三階に分布している。一階は市内でも有名な高級寿司屋の支店と、裏通りに面したカフェ兼洋食屋。三階は洋食にラーメン、イタリアンに蕎麦、海鮮と一通りのジャンルが揃っている。
いずれもランチはリーズナブルだが、もちろん高校生の懐で通える値段ではない。駅前という立地故か、ディナータイムは価格帯がさらに上がる。いつもなら奢ってもらうことにもっと気後れするのだが、今日は労働報酬ということでありがたくご馳走になろうと思う。
消去法と腹具合でイタリアンに入り、渡されたメニューを吟味していく。周りはカップルだらけと思いきや、出張らしいサラリーマンや家族連れもおり、居心地は思ったほど悪くない。その家族の娘、推定十二歳が火野をちらちらと横目で追ってくる以外は。

「プロバンス風って何ですか」

空腹をなだめながら文字を拾う。天子がイタリアンやフレンチを避けたがる一番の理由がこれだ。偉そうなカタカナの羅列で料理の詳細がまるで伝わらない、店の傲慢さに溢れたメニュー。
腹が減っているから店に入ったのに、メニューを読み解く思考が要求されるなんて非効率だ。飢饉に瀕した男子高校生の胃袋は一刻を争うのに。

「トマトとにんにくとオリーブオイルを使った料理かな。プロバンスはフランスの地方のこと」

イタリアンと看板に掲げつつ、メニューにはスペイン風オムレツも載っている。ざっくり地中海周辺の料理を扱っているようだ。

「じゃ、マグレドカナールってのは」

「フランスの鴨肉だね。フォアグラ用に育てられてる」

こうして解説してもらえると、料理を選ぶことだけに集中できるのでありがたい。少なくとも天子は、この手の質問にすらすら答えられる人間を他に知らない。
スペアリブにパエリア、アラビアータ、真イカのソテー、海老の串焼き。いつにも増して空腹極まっており、あらゆるメニューを片っ端からオーダーしていく。

「いいなぁ。シェリー酒あるんだ」

ドリンクメニューを眺めていた火野がぽつりと零せば、バイトの大学生と思しき女性がオーダーとペンを構えて尋ねてくる。

「頼まれますか?」

「いえ、結構です。未成年ですので」

「えっ! あ、いえ、失礼しましたっ」

微笑みを向けられた彼女は愕然としたのち、すぐに取り繕って厨房へ戻っていく。離れたテーブル席で会話を盗み聞いていた娘も、驚いたように何度か瞬きしていた。

「昔からそうなんだけど、年上に見られることがそろそろ嫌になってきたね」

彼女たちの反応にわざとらしくため息をつくので、煙草買えないけどいいんですか、と声を潜めると「よくない」と素直に返してきた。現時点ではやはり得の方が多いらしい。

料理はどれも旨かった。パエリアは提供までに時間を要するとメニューに記載があり、いろいろ食べながらのんびり待とうと多めに頼んだのだが、結局パエリアが来る前に全て片づいてしまった。追加オーダーを通していると、窓際席の客たちがしきりに外を指差していた。二人もつられて窓を見る。

「ああ、降って来たんだ。予報より早かったね」

はらはらと小さな紙片の如く舞う雪に、近くの子供が歓声を上げる。
この地方にはほとんど雪が降らない。ひと冬に三度あるかどうか、それも平地で積もるのは極めて稀だ。積雪はなくとも路面は凍るため、冬は毎年、登校中の坂道で転倒する蓮華生が多数出ると聞くが。

「そういや、話って何ですか」

追加で届いた串焼きと、待望のパエリアにがっつきながら天子が尋ねる。ムール貝の殻を外す手を止めて、火野はそっと顔を上げた。

「僕の方が先に話すの? 言い出したのはてんこが先なのに」

「いや、俺はーーちょっと重いし、後でいいんで」

食事中にしんみり話したい内容ではない。しかし口に出してから、これでは彼の話が『軽い』と決めつけているようだと気づく。
火野は特に気にした様子もなく、剥いたムール貝の身をぽいぽいとパエリア鍋に返却してカトラリーを置いた。ペリエをひと口飲んでから、落ち着いた声で話し始める。

「そう。じゃあ話すけど、食べながら聞いてね。僕、T大受験することにしたの」

「はああ!?」

予想斜め上の宣言に、突如として素っ頓狂な声が漏れる。周りのテーブル客の視線を一身に集めたことは言うまでもない。天子は気まずそうに俯き、抑えた声で続きを促した。

「理科大は?」

「併願だよ。仮にどちらも受かっても僕は理科大に進む」

「なんだ」

それを先に言ってくれよ。
一点突破可能の理科大に比べ、T大はまさに雲の上の存在だ。とてもじゃないが、何浪しても追いつける気がしない。スプーンでざくざくとパエリアのおこげをつついて安堵する。

「けど、わざわざ併願なんてめんどくせえのに何で…」

そう言いかけて、自力で答えに行き着いた。

「進路指導とか、あの辺の奴らに頼まれたんですか」

「まぁね」

進学校が何より欲しいのは大学合格の実績だ。たとえひとりでも有名大学に複数受かれば、高校のパンフレットなりホームページなりに複数大学の名前を堂々と記載できる。私立高校と差をつけられる一方の公立蓮華高校において、某理科大及びT大の合格実績は喉から手が出るほど欲しい数字だ。全国模試常連トップの火野に打診があったことくらいは容易に察せる。
が、個人の権利を無視した暴挙を天子が許せるわけがない。

「それでいいんですか。あいつらの言いなりになんかならなくたって…」

教師たちが欲しいのは実績そのもので、叶えてくれる人間は実のところ誰でもいいのだ。天子はそこが気に食わない。確かに、有言実行で合格を成し遂げられそうな現三年生は恐らく火野くらいだ。だが、『あいつならできるだろう』と彼の負担を増やすのが教師の仕事であっていいはずがない。普段こそ努力が大切だの勉強は地道にだのと説教を垂れるくせに、自分たちは生徒に甘えっぱなし。大人と違って、学生には大した見返りも無いのに。

「てんこは怒ると思ってたよ」

彼はごく楽しそうに応じる。

「心配してくれてありがとう。でも、いいの。僕は蓮華に感謝してるんだ。恩返しできるのももう最後だからね。今後入学を考えてる中学生を誘惑するためにも、一役買おうと思う」

何やら不純な台詞が聞こえたが、彼が決断したのなら天子もそれ以上は反対しない。

「T大の入試って全然調べたことねえけど、一番ラクそうなとこ受けて下さい」

「それは、もちろん。学部なんていちいち宣伝に載せないだろうからね」

受験は体力勝負と聞く。その点では他学生に不利を取るだろう恋人が、あまり苦しまずに済みますように。自分にできることがあるのなら遠慮なく頼ってほしいところだ。

(でも、話がその内容でよかった)

万が一、むしろ万が百くらいの確率である別れ話を切り出されなくて心底ほっとした。だったらデートになんて誘わないだろうとわかっていても、絶対的な確信は持てない。
安堵したところで腹を満たすことに専念する。暖色光と座り心地のいいソファチェアでくつろぐ彼に、優しく見守られながら。

ーーー

駅ビルのテナントはどこもかしこも歳末セール一色だ。腹ごなしにフロアをあてもなく歩きながら、ジュエリーショップで浮かれるカップルや年賀状を今更買い込む夫婦を目で追う。せわしい雰囲気ながらも、みな残り少ない今年の日々を最後まで楽しもうという気概に溢れている。
三階の無印良品を通り過ぎようとして、ノートを切らしていたことを思い出した。紙がやたらペラペラなノートとルーズリーフは薄いなりに安く、高校生にはありがたい代物だ。今買う必要はないが、明日にはきっとまた忘れてしまう。
平積みの五冊パックを掴んでレジに向かった。会計して戻って来ると彼の姿はなく、きょろきょろと周囲を見回して探す。

「こっちだよ」

キッチングッズ売り場の、通路を挟んだ向かい側。家具やインテリアがディスプレイされたコーナーで、実物のソファに彼は腰かけていた。何してんだよ。大人らしからぬ行動に脱力しそうになる。しぶしぶ近づいて、グレーの二人掛けソファを見下ろした。リビングを想定したブースの中央を陣取っている。

「おいで」

ぽんぽんと座面を叩いて促され、渋面をつくって座り込む。しっかりとした造りで、あまり沈まないタイプのソファだ。
通りすがりの子供がこちらを見て笑っている。世の中にはままならないことがあるんだって、もうすぐお前も学ぶんだぞ。こんな場所では悪目立ちもいいところだ。
彼は人の目など気にする様子もなく、背もたれや腰のフィット感をつぶさに体験している。

「買うんですか」

まさかな、という思いつつ、店員が寄ってこないかチェックする。セールストークをかまされたら彼だけ置いて逃げるつもりだ。

「んー、ここでは買わない。これずっとここに飾ってあったんだよ。ひとりで試すのは恥ずかしいから今なら座れるかなって」

好奇心はともかく、この人にも羞恥心があったのかと別ベクトルで天子は感心する。

「本当はあっちが気になるんだけど」

火野が指差した隣のブースは寝室風の造りで、もちろん主役はセミダブルのベッドだ。う、と天子は思わず声を詰まらせる。罰ゲームかよ。客に気づいたスタッフがこちらを窺ってくるので、ソファからすっくと立ち上がる。

「俺はごめんです」

というかセミダブルならどう考えても一人用だろう。ふんと唇を尖らせて歩き出すと、彼も苦笑しながら後をついてくる。



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